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『modality』(掌編小説)


「ほら、目を閉じて」

 予想外に普通の、OLみたいな女が出てきたことには驚いていた。俺はてっきり、薄いベールで顔を隠した紫色の服のババァが出てくると思っていたからだ。 歳の頃は30を過ぎたばかりといったところか。顔はまあまあ。俺の好みではないが及第点をやることはできそうなくらい。長く黒い髪を黒いスーツにそのまま流しているその姿は、中小企業で持て囃されているOLにしか見えなかった。

 背後にいるマキが興奮しているのが目を瞑っていても手に取るように分かった。付き合ってみて分かったが、この女は本当に顔だけだ。顔はいい。スタイルもいい。髪も綺麗だし、日頃の手入れもしっかりしている。顔が良ければ全て良し、と考えている俺に文句はないのだが、時たまこういうよく分からないことに付き合わされるのは少々面倒だった。

 今日は心眼とやらを開きに来ている。女は中身が空っぽに限る。

「私は今、あなたの目の前にいます。鼻と鼻がくっつくくらい。吐息を感じてください。触覚で、聴覚で」

 言われた通りに集中する。確かに肌に呼気が当たるのを感じた。しかし音の方はというと、マキが騒ぐのがうるさくて確かではない。

「集中できていませんね。彼女さんのことを考えてみましょう。あなたは今のこの行為を信じていない。そうですね? そうしてあなたはこれまでも背後にいる彼女にせがまれて、気乗りのしないことを繰り返してきた。
 その時のことを1つ、思い出してみましょう」

 ギクリとしたのは一瞬のことで、俺はマキに対してそのように繰り返し言っている。マキはここの予約を取るために何度か電話をしていたようだから、その時にそんな話になったのだろう。タネが分かってさえいれば不思議なことなど何1つとしてないのだ。
 こういう人種であれば、マキのように信じ切った人を騙して情報を引き出すことだって可能なはずである。

 そういえば、「同性愛者の世界を体験してみよう」そう言われてゲイの発展場に連れて行かれたことがあった。
 マキは俺をその場に強引に連れていくと、「私は」と言ってレズの発展場へとタクシーを走らせた。あの時もマキは、勝手にその場所を仕切っている奴に事前に有る事無い事吹き込んでいて、その日俺は初めて男にケツを掘られたのだ。
 正直に言えば、「まあこういうのもたまにならアリかな」と思ってしまった俺がいる。それにそれから何度かその発展場に自ら足を運んでもいる。それは認めるが、幾ら何でも嫌がる彼氏をゲイの発展場に捨てて行くのは恋人として如何なものだろうか。

「いいことを思い出しましたね。そういうものです。これを機に、あなたの認知が変わる。世界は180度別のものに見えます。私が今見ているものの一部を、あなたも見ることになる」

 適当なことを言う女だ。
 「いいことを思い出しましいたね」なんていうのは、何を考えているか分からなくても言える。少なくともここに座った俺は昔のことを思い出せと言われているのだから、何かを思い出しているのは間違いない。
 極め付けに「良い」「悪い」なんてものは個人の価値観。言い逃れの準備。そのオンパレードだ。

「どうです? 音が聞こえてきたでしょう?」

 相変わらず騒いでいるマキを見ながら、俺は聞こえるわけがなかろうと、しかし耳を澄ます。すると確かに女の呼吸音が確かな密度を持って俺の耳に届くのを感じた。

「あなたは信じ始めているんですよ。無意識に。
 あとは引き上げるだけです。あなたの潜在意識に沈んだ黒く丸いもの。引き上げるという言葉を用いましたが、正確には飛び込む。その暗い球体の中に。意識の表層に引き上げるために、飛び込むんです」

 少々気味が悪い。だがここで目を開けばマキに何を言われたものか分かったもんじゃない。ゲイの発展場に連れ込まれた時は予想外に俺がそういうものに抵抗がなかったからよかった。だがマキならばそれくらいの場所にまた俺を連れて行ってもおかしくない。
 行き先の分からない旅をマキとするほど、俺の肝は座っていないのだ。

「今度はあなたの顔の前で1、2、3、4、5本と順に右手の指を立てていきます。同じリズムでずっと。最初は私と一緒に、そして段々1人で、立てられた指の本数を答えていってください」

 これで最後に「今は何本?」なんて言われれば拍子抜けしてしまうものだが、果たして今度はどうなるのか。期待が1割、呆れているのが9割で俺は女の言う通りにする。

「1、」「2、」「3、」「4、」

と、4つ目で早くも女の声が消えた。仕方なしに俺はなるべく同じリズムで言うよう意識しながら数字を数え続ける。マキはどうしてそれ程テンションが高いままなのか。初めと同じ騒々しさでしかし今は祈るように手を組んでいた。
 瞼を閉じたままの暗闇の中で5つの数字をただただ同じ順序で数え上げていくことは、苦痛以外の何物でもなかった。4畳ほどの狭い部屋は小さなスタンドライトしか証明がない。そしてそれも今は消されているから、目を開けていてさえ暗いのだ。そんな中目を閉じれば何も見えないのは必然である。 暗闇というのは人の判断を狂わせるのだ。これも仕掛けかと思えば納得がいくが、しかし苦痛の方には納得がいかない。

 濃い闇の中でも騒ぎ続ける美しいマキ。右手を俺の前に差し出し続けるイカれたOLもどき。 この頭のイカれた2人と俺が確かにこの同じ部屋にいることを感じながらも、同時に俺は妙な気配を感じ始めていた。形容が難しいそれは、強いて言うのであれば黒い霧。密度の高い黒い霧だ。重くて表面が綿のようにやわいそれは、天井の方まで細長く伸びたかと思えば、団子のような形になって地面に近いところで結集し始める。球体だ。
 それが妄想であることは明確だ。しかしこの暗闇。そして5つの数字を唱え続けるという状況。狂ったように喜ぶマキが、俺の不安に理由をつけようとしているのだろう。

「さて、今、何本ですか?」

 俄かに突きつけられた問いに、俺は少々の焦りを覚えると同時に安堵していた。そして嘲笑が漏れ出るのを寸前のところで我慢する。またあの女がいる。マキも背後にいる。黒い霧のようなものの気配は未だ消えてくれはしなかったが、そのことで俺は不安が薄れていくのを感じた。
 「4、」の次だから5だ。間違いない。

「本当ですか?」

 言葉を形作るために息を吸おうと口を開いた俺は、女の言葉にその動きを止めた。止められた、というのが正しいかもしれない。 不思議なことだった。女の言葉が俺の身体の内部の、俺が俺であるために。俺が俺として行動するために必要不可欠な、人間の核とも言えるべき部分を鎖のように縛っていた。

「あなたは確かに、4つまで数えた。それは間違いありません。私も、マキ様も聞いていました。そして私は確かに右手の指を4本立てていました。それも、間違いありません」

「だったら」「言葉を発さないで。余計な言葉はあなたの存在をあやふやにしてしまう」

 息なんて吸えないままに出した俺の言葉は酷く掠れていてみっともなかった。たったあれだけの言葉でもう限界がきたのか、苦しさが喉を灼きつけていく。

「深呼吸をしていいでしょう。でも、まだ答えてはいけない。私の手の指が今、何本立てられてるのか。4の次が本当に5なのか」

 女の言葉を聞いた瞬間には、確かなものとして感じていた鎖のようなものが消えたのを俺は感じていた。
 いつの間にかびっしょりと汗をかいている。それに気付いたのかマキの馬鹿騒ぎも収まっていて、じっと俺の頭のてっぺんを見つめている。

 ーー見つめている?

 女が初めて表情らしい表情を見せた。新月の次に薄い月の形に口元が歪む。
 そう、俺は女の口元が歪んでいるのが“見えている”。目を閉じているのに。何も見えない暗闇にあるはずなのに。まさか。そんなまさか。

「……左手。左手の薬指で1本だ」

 祈るようにして、俺は自身が目にした光景を口に出した。

「御名答。
 さぁ、目を開けましょう。大丈夫、怖がらないでください。世界は何も変わっちゃいない。あなたは幽霊や悪魔に襲われたりしないし、私がそういう類のものだったなんてこともない。

 ただあなたが変わっただけです。あなたの世界の捕らえ方が」

 開いた目にまず写ったのは、確かに立てられた左手の薬指。
 そうして次に見えてきたのはあの女。ただし女は酷く歳をとっている。70や80じゃきかないだろう。100歳を超えていると言われても驚きはしない。

「こちらの方が都合がよろしいもので」

 そう言った女は、いつの間にか元の姿に戻っていた。

「振り返ってみては?」

 その言葉に導かれるようにして、俺の首は壊れかけのゼンマイ人形のようにぎこちなく回っていく。一体マキがどのように見えてしまうのか。恐ろしくて堪らなかった。視界の隅に目を閉じていた時に感じていた気配。あの黒い霧が確かにいるのが見えた。あいつは何者か。そんなこともしかしすぐにどうでもよくなった。それにもう分かっているのだ。

 マキの足がまず、視界に写った。次に腰、肘、祈るように組んだ両の手。そうして顔。

「……マキ」

 そこには空っぽのマキが立っていた。
 文字通り空っぽ。彼女は俺の望み通り、顔が良いだけの女だった。何もない。過去も未来も何もかも。あるのは人間としての理想的な形。それだけ。そうしてその歪んだ形から生まれる歪な欲望。それだけ。

 フッと女の気配が消えた。
 既に振り返らずとも女が消えたことは手に取るように分かる。そして同時に俺の中に沈んでいた暗い球体が姿を現していたことも。

 湖でキャンプをしたことを思い出していた。街灯1本とてないあの暗がり。それが朝陽によって拭われた先にあった、霧の深いブルー。
 あの薄く鋭く研がれた刃のようであって、柔らかな空気感。俺はあの時、初めて自然の美しさを、ただ美しいということの正しさを知った。

 マキは俺のことを目を輝かせて見つめている。
 彼女は忠実に俺の理想を体現している。理想が先か彼女が先か。そのことももう、誰に聞かずとも全て掌の上だ。


「世界は動き出した」



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