見出し画像

『妾』(掌編小説)


 夜と朝が混じり合う時間。誰もがまだ眠りの中にあり、そうして誰もがまた夜を信じている時間。
 僕を試すかのようにして光を増すその時間は、何よりも美しい時間だ。
 現実と幻の境目の中にあって僕は今日もまた、見知らぬ女を抱いていた。駅前で拾ってきた女。素性も知れない女を部屋に呼び込んでは今日もまた、SEXに明け暮れる。夜が砕けると同時に眠り、気がつくと隣にいたはずの女がいないなんてこともざらだった。そんな時僕はいつも、あの時間が夢だったのではないかと不安になる。

 ゴミ収集車が街のゴミを潰す音で目を覚ますと、僕の隣に昨夜拾ってきた女がまだ眠っていた。
 まるで僕の隣が収まるべき場所であるかのように、その女は安心した表情で眠っている。何かを守るようにした腕が気になったが、僕がベッドを抜け出して顔を洗い、水を飲む間ですら彼女は目を覚まさなかった。
 仕方なしに僕はインスタントコーヒーを片手に煙草を吹かしながら、書きかけだった原稿を探す。机の上に放置していた原稿はしかし、いくら探しても見つからない。掌をじっとりと冷たい汗が濡らしていくが、僕はなんだか安心してもいた。

ーーこれでもう、書かなくてはならない理由もなくなった。

 日増しに不安が募っていく。こんな生活が長く続くはずはない。結局僕には才能がなかったのだ。頑張っても頑張っても届かない夢は確かに存在する。そもそも、皆が皆サッカー選手やミュージシャン、アイドルになったら社会は回らないのだ。
 社会の歯車となるべくして生まれてくる人間が世の中には一定数存在する。そう、ただ僕がその1人だったというだけの話だ。

「おはよう」

 女が起きた。眠そうに頭を掻きながら、下着姿のままにベッドの上で胡座をかく。羞恥心がないのだろうか。或いはもう観念しているのだろうか。少しだけ気になったが、小説を書かない僕にとってはもうどうでもいいことだ。

「あんた、小説家なんだ」

 適当にシャワーでも浴びて帰るといい。そう口を開きかけた僕を、彼女の言葉は驚かせた。何故、そしてもしや、という2つの言葉が脳内に響く。
「原稿は、お前か」

「いらないんだろう? 1行読めば分かる。さっさと手放したいんだなってな」

 男勝りの女の口調に、僕は昨夜の彼女がどんなものだったかということを考えていた。僕らの間には特にささくれ立った空気があるわけではない。不穏さのかけらもない、朝と夜が混じり合ったあの時間のような空気がひっそりと流れていた。

「私もなんだ」

 女は言う。

「そうか、小説家は、名乗ったもん勝ちだからな」

 俺も言う。バカにしているわけではなかった。と言えば嘘になる。

「サインでも書いてやろうか? あんたのこの原稿にさ」

「生憎と、間に合ってるよ。作家に憧れるのはもうやめたんだ」

「努力しても努力しても、結果がでないですってかい? ナヨナヨした男だな」

 女は断りも入れず、サイドテーブルに置かれた僕の煙草をひょいと1本取り出すと火を点けた。たっぷりと時間をかけて煙草を吸った女は、常人にあらざる量の白煙を吐き出す。そのあまりの煙の量に僕は、部屋が白い霧に包まれたような錯覚を覚えた。

「作家ってのは、そういうもんさ。頑張ればいいってもんじゃない。あんたに足りないのは自分を曝け出す覚悟だ。あんたをどれだけ否定させてでも小説を面白いと言わせるっていうな」

 その言葉を最後に、女は煙草を吸い終わると無言で出て行った。服を着忘れてすぐに戻ってきたことは蛇足だろう。不思議な女だった。

 翌る日、僕がいつものように駅前で女を探していると、あの女が声をかけてきた。
 前回そうだったように今日も酔っ払っている。傍らには男がいた。ラフな格好をした男は、「先生のお知り合いですか?」と安堵した表情で言う。どうにもこの女が作家だというのは本当らしい。こんな酔っ払いにできて自分にはできない。そのことが僕を酷く虚しくした。

 編集者らしい男に女を頼まれた僕は、特に確認をとるでもなく彼女を家に運んだ。
 そうして犬を洗うかのように簡単にシャワーを浴びさせてこびり付いた居酒屋の匂いを剥いだ僕は、無造作にベッドに転がした女と1つになる。抵抗はなかった。ただ、いつもと比べて気持ち良さはない。この女が作家であるということがどうにも認められないのだ。

 女はあの男っぽい口調を居酒屋に落としてきてしまったかの如く、まるで普通の女のように喘ぐ。そうだ。この声だ。この女は情事の際、こういう声でなくのだ。
 その声の俗っぽさが僕を安心させる。僕とこいつにはなんの違いもありはしないのだと思わせてくれる。

 そのうちに、夜と朝が混じり合うあの美しい藍色の時間が訪れた。
 暗がりでもなければ、光の中にもない妙な時間。
 そろそろ眠りにつく時間だ。という思いは、最早反射のようなものだった。酔いと性に狂う女を縋り付くようにして抱きしめると、僕は全身にぎゅっと力を込めて果てる。
 僕の息も女の息も途切れ途切れだった。


「ねぇ、あんたもう小説書かないなら、どうやって生きていこうとしてるの?」

 SEXが終わったが、女の口調はまだあの男勝りなそれに戻りきっていないようだった。その言葉遣い、声色、仕草、視線に僕はあの美しい藍色を垣間見る。

「さあ。考えていないよ。今の会社で働いて、こうやって適当にSEXをして、それでまあ、死ぬんじゃないかな」

「虚しいのね」

「夢を叶えられなかった末路なんてものは、そういうもんだろう」

「私の家に来ない?」

 裸体に薄手のタオルケットを纏った女が、ニコリともせずにそう言った。僕にはその言葉の意味がまるで理解できない。

「もちろん、付き合おうだとか結婚しようだとか、そういう面倒臭いことじゃないわ」

 女が今朝同様に、無造作に僕の煙草を拾って火を点けた。一口目、やっぱり女は長い時間をかけて煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。部屋が白に染まっていく。

「人間でも犬でもない、そう、丁度中間の存在として、あんた、うちに来いよ」

 煙草が1つスイッチであったかのように、俄かに女の口調が男勝りなものに変化した。その瞬間をいざ目撃してみると、彼女の人格が女のそれから男のそれに変わったようにすら思えてくる。
 不思議な感覚に惑わされた僕は、その申し出を覚えず了承してしまった。


 そんなことがあってからもう幾月の時が流れたのだろうか。
 僕は今、彼女の家で妾のような存在として、ただ息をしている。



ここから先は

570字

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?