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短編小説『「華ちゃん、」』


 セルフレジの音が耳をつく。何人もの人々が赤い買い物カゴを持ってレジに並んでいる。そんな中、どこかで見た顔を見つけたと思い、わたしは暫くその人を横目で見つめていた。

 絶対にどこかで見たことがある。ただその人はもう40代も半ばだろうという歳で、明らかにわたしの同級生ではない。大学で見たことがないとしたら、一体どこで。


 カゴにはお米と肉、それに調味料がたくさん詰め込まれていた。何に使うのだろう。今日は飲み会なのだろうか。
 そこまで考えたところでハッと気がついた。そうだ、あれは学校近くの居酒屋の店長だ、と。

 その人はそのまま会計を終えると、どこを見ているのか虚ろな表情で店を出た。遅れてわたしが自分の買ったジャガイモに人参、それに玉ねぎと豚肉を急いでエコバッグの中に詰め込んで外に出た時、その人はまだ自転車の荷台に買ったお米を縛り付けているところだった。


 居酒屋で見るその人はいつも笑顔で料理をしていて、時たまカウンターに座る常連さんと話をしている。きっと好きで飲食業という過酷な仕事に就いているのだろう。
 そう思っていただけに、今その人が浮かべている表情はわたしにとって途方もなく衝撃的なことだった。


 お米を縛り終えて、主婦たちが自転車を走らせるのに混ざって何処かへと消えていくその人をわたしは暫しぼうっと眺めていた。


* * *


 いつものように1番にお店に来て、テーブルを拭いて掃除機をかけて、そうしてすべての卓の準備を整えて、としているうちに、玲子さんがやってきた。
 いつもの全身真っ黒なドレスとは違って珍しく真っ赤なドレスを着込んでおり、その赤いドレスで街を歩いてきたんですか、と尋ねたくなる。

 玲子さんはタイムカードを押してしまうと、着替える必要もないのだろう。買ってきたコーヒーを片手にカウンターに座った。

「おはよ、茉奈ちゃん。そろそろこっち側で働く気になった?」

「おはようございます。いつも聞くんですね、それ。
 まだ少し見ていたいと思ってます」

 わたしは女だけれど俗にいう「ボーイ」として働かせてもらっていた。大学も3年目にして初めてこういった水商売に興味を持ち、でも怖いからと特別に体験させてもらっているのだ。

 お店にいる女性は皆んな華やかでお酒をよく飲む。そしてお客さんは皆んなすごいお金持ちばかりで、やっぱりお酒をよく飲む。
 大学にいては決して見れなかった世界がそこにはあった。

「茉奈ちゃん可愛いから絶対お客さん集められると思うんだけどな。常連さんたちも楽しみに待ってるよ」

「1週間前にハタチの子が入ったばかりですし、わたしのデビューはまだ先でも大丈夫ですよ」

「華ちゃんね……。あの子は可愛いんだけど」

 「可愛いんだけど性格がね」と、わたしはそこまで聞こえた気がした。


 1週間前にお店に入った華ちゃんはとびきり可愛い女の子だった。
 手足は細く長く、全体的に折れてしまいそうな心細さがあるくせに胸は大きい。男性の理想を詰め込んだような肉体に、テレビに出ている女優さんなんかも顔負けの美しい顔を乗せている。鼻は高く、目はぱっちりしているが、なんとなく下がりがちな目尻と眉毛が全体を柔らかく見せている。

 初めて見た時、人間社会を生きるためのまるで清涼剤のようなその姿に、わたしもあんな顔に生まれてきたかったと、ただ純粋にそう願ったくらいだ。


 ただそんな彼女にも、1つだけ欠点があった。
 それは彼女の性格だ。彼女はどうにも勝気が過ぎる。きっと周りからチヤホヤされて育ってきたのだろう。まだお店に来て1週間だというのに、お客さんを怒らせてしまって問題になったりしていた。

「わたしの噂ですかー?」

 いつの間にか入り口に華ちゃんが立っていた。
 いかにも高そうな黒いヒールにスキニーパンツ、それにハイネックのノースリーブを着てシャツを羽織っている。彼女の細さやスタイルの良さがよく強調される服装だった。
 あまりの見事さにわたしは瞬間、自身の口から息が漏れたことに遅れて気がつく。

「揉めちゃったことは謝りますよ。でもしょうがないでしょ? あんなハゲたおっさんが、わたしと付き合えると思ってるんだから。シンプルにあり得なくない? 本名もしつこく聞いてくるしさ。
 それに、人が1番気にしていることを、どうってこともない悩みなんて言う奴は、ダメでしょ」

 その言葉には一切の嘘偽りが含まれていないのだろうと、そう確信させられる何かがあった。
 彼女の言葉には強さがある。それは彼女の見た目から来るところもきっと少しだけあった。

「あーあ。高級クラブだったら、1週間も働けば金持ちのイケメンでも捕まえられるかと思ってたんですけど。
 ……ま、そう甘くはないんですね」

 店の先輩の前とは思えない発言に、わたしは開いた口が塞がらなかった。でもきっと華ちゃんはそれを悪いなんて一切思っていないのだろう。謝るわけでも悪いと思っている様子も見せるわけでもなく、仕事用の服に着替えるべくロッカールームへと足早に歩いて行った。


 わたしと玲子さんは顔を見合わせて、何も言えずにとりあえず微笑みあってみた。


* * *


「茉奈はさ、今バイトなにやってんの?」

「んー、普通の飲食店だよ?」

 学食でお昼ご飯を食べている時だった。わたしはその質問にびくりと肩を震わせそうになったのを、寸前のところでこらえる。由佳は水商売が嫌いだった。以前付き合っていた歳上の彼氏を、水商売の女性に寝取られてしまったらしい。


 いつもは下ろしている長い髪をポニーテールに結びなおしながら、彼女はわたしを少し怪しむように、上目遣いで見遣る。
 わたしは少しワザとらしいとは思いながらも、微笑みつつ首を傾げて見せた。

「最近バイト多くない?」

「もうすぐ就活始まるからね。そのための準備だよ。
 ……そういう由佳だってバイト増やしたでしょ?」

「そうだけどさ」

 学食のうどんを啜りながら彼女はそれでも納得していないようだった。
 わたしはどうしても学食の薄味のうどんを好きにはなれないのだが、由佳は美味しいと思ってるのかな。
 わたしはそっちの方がもう気になって仕方がない。

「食べる?」

 差し出された一口分のうどんが入ったレンゲに、わたしは首を振った。

 周囲ではわたし達と同じように、学生達が思い思いの昼食をとっている。中には由佳と同じようにうどんを食べている人もいれば、わたしと同じビュッフェから取ってきたものを食べている人もいた。
 どの人にも共通しているのは、特段美味しそうに食べているわけでもなければ、不味そうに食べているわけでもないということだ。

「とりあえずさ、そろそろ久々に飲み行こうよ。
 聞いて欲しい話があるの。なんかね、またあのクソ元彼の野郎がさーー」

 水商売の女性に寝取られたとかいう元彼から、どうやら連絡が来たらしい。
 曰く、「俺の手には負えなかった」「やっぱり由佳とやり直したい」そういう薄っぺらい言葉を並べては、なんとか由佳とまずはもう1度会おうと躍起になっているらしい。

 そういうのが面倒ならばブロックしてしまえばいいじゃないかとは思うけれど、そうはいかないのがきっと人と人の関係というものなのだろう。
 友達が由佳くらいしかいないわたしには、到底理解できないことだ。

「だってさ、水商売だよ?! 仕事で相手されてたのに気がつけない男とか、こっちから願い下げだっつーの」

 「の」と一緒にお箸をお盆に叩きつけるようにして置いた由佳は、しかしその直後手を合わせて「ご馳走様でした」と呟いた。その瞬間だけはいつも喋るのがやめられない由佳も静かになる。それはなかなか面白いことだとわたしは思っている。

「んー、でも水商売の人にもいろんな人がいるんじゃない?」

 わたしの脳裏には玲子さんの姿が浮かんでいた。玲子さんはわたしの面倒をよく見てくれる。少しでも困っていたら助けに来てくれるし、この前も面倒なお客さんに絡まれているところをすぐに助けてくれた。
 礼儀正しくて佇まいが中世の貴族みたいな玲子さんは、わたしにとって憧れの人なのだ。

「ないない。だって水商売してるんだよ? 社会不適合者ってことじゃん」

 笑いながらそう言った由佳には絶対悪気はない。だけれど少しだけムッとしたわたしは、わたしも今ボーイをしているんだけどと打ち明けてみようかと思った。でも、そんなことしたらたった1人の友達がいなくなってしまうかもしれない。すぐにそう思い直して、わたしは結局黙ってしまう。

「普通の飲食店なら分かるけどさー。だってそれだったら料理とかお酒が好きってことじゃん? でも水商売なんて、好きでもない男に媚びを売ってなんとか生活を繋げてるだけでしょ?」

 今度わたしの脳裏に浮かんできたのは華ちゃんだった。
 確かに華ちゃんに関していえば、そういう風に言えなくもないのかな。でももしかしたら彼女にも止むに止まれぬ事情があるのかもしれない。いや、でも彼女は確かいつもハイブランドの服に身を包んでいるし……。


 そういえば、この前華ちゃんは「人が1番気にしていることを、どうってこともない悩みなんて言う奴はダメでしょ」なんて言っていた。もしかするとその1番気にしていることとやらが、彼女があそこで働いている理由なのだろうか。
 聞いてみよう。そう思うとなんだか由佳の言葉を聞き流せていられる気がしてきた。


* * *


「華ちゃんの1番気にしてることって何なのか、聞いてみてもいい?」

 3日後、珍しくわたしの次に早く店に現れた華ちゃんに、わたしは思い切ってそう尋ねてみた。化粧のチェックに余念がない華ちゃんが、僅かな時間だったがわたしに視線を向ける。
 まつ毛をいじっているだけでも絵になってしまうんだから、華ちゃんの美しさは本物だと改めて思った。

「いいけど、そしたら茉奈さんが何でボーイなんかをやってまでこの店に来てるのかも、教えてくれます?」

 ちょっとぶっきらぼうな言い方だけれど、華ちゃんみたいな人がわたしなんかに興味を抱いていたことが嬉しかった。教えて欲しいということはそういうことだろう。華ちゃんも本当はお店の皆んなと仲良くなりたかったのかもしれない。

 わたしはまだ参加していないけれど、お店で働き始めてもう長い人たちは週に1回、アフターと称してお客さんのお金で飲みに行く。そこで日頃のあれこれや、ママに関する愚痴なんかを話すのだ。
 華ちゃんも確かまだ参加していなかったけれど、そろそろ参加したくなったのだろうか。

「もちろん。わたしが先に話した方がいいかな?」

「別に、わたしが先でいいですよ。すぐに済みますし。

 ……華って名前が嫌なんです、わたし」

 化粧の手を止めて俯いた華ちゃんは、いつもより幼く見えた。幼く見えたなんて言っても、21歳のわたしより更に1つ歳下なんだから、これくらいに見えるのは当然なんだけれど。
 これまでの華ちゃんの超然とした態度が今まで、どう若く見ても25歳くらいにしか見えなかったのだ。

「可愛いのに、何が嫌なの?」

「まあ、茉奈さんだったらいいと思いますよ。華って名前でも。でもわたしですよ? このわ、た、し。わたしの名前が華だなんてあり得ない。せめて源氏名で使ってる華蓮とか、華って文字を使うとしても他にあるじゃん!」

 最後の方は半ばわたしではなく、きっと名付けた親あたりにでも言っているつもりなのだろう。華ちゃんは机を両手の拳でドンっと叩いた。

「なになにまた喧嘩?」

 そのタイミングで玲子さんがやって来た。多分話を聞いていたのだろう。ニヤニヤした顔には喧嘩が起きたと心配している様子はカケラも見受けられない。
 いつも高飛車な華ちゃんの、少し子どもっぽいところを見て面白がっているのだとわたしにはひと目でわかった。

「違います!」

「大丈夫ですよ。おはようございます、玲子さん。」

 華ちゃんはそれからむすっとした表情で化粧を再開した。その様子に、何だか聞かない方が良かったかもしれないと思う。
 だけどそんな心配や後悔も20分後には吹き飛んでいた。お客さんが現れてからの華ちゃんは一転していつもの美しく、名前の通り華やかな笑顔を浮かべてお話をしている。
 流石プロだなと呑気に考えているわたしには、やっぱりあちら側の仕事は難しいのかもしれない。


 そういえば、名前が気に入らないから華ちゃんは源氏名で働けるここで働いているのだろうか。
 それを聞かないと結局のところ、わたしの本当の疑問は解決しないじゃないかと今になって気がついた。


* * *


「茉奈は夏休みはインターンに行くの?」

 ようやくテストがひと段落した昼休み、由佳はアイスを食べながら座ったベンチに手をついて、空を仰いでいた。
 水色の棒アイスがよく晴れた空に溶け込んでいくようで見ていて心地いい。今写真を撮ったら何かのポスターみたいにもなるんじゃないかと思う。

「受けないつもりなんだ。どこのインターン受ければいいか、結局わからなくなっちゃって」

「そうだよね。将来のこととか、想像つかないしね」

 同意してくれた由佳の声は、その姿勢同様間延びしていた。午前中でテストが終わってしまったから気が抜けているのかもしれない。
 わたしはこれからまだレポートが5本も残っているから、まだそんなに気が抜けてくれそうにはなかった。

「わたしも何も入れてないんだよね。文系の学生が就活前の一年をこんな感じで浪費しちゃって、いいのかなー」

「だめだったとしても、わたしも由佳ももう遅いけどね」

「いや!」

 わたしの言葉に反応して、俄かに由佳が立ち上がった。

「実はまだインターン募集してるところは沢山あるんだよ! だからね、わたし達もまだまだ間に合う!
 ……とまあ、行くかどうかは別だけどねぇ」

 ガッツポーズを決めて威勢のいい言葉を吐いたかと思うと、しょんぼりとまたベンチの上で溶けたようにだらっとしている由佳は、小動物みたいで可愛らしかった。華ちゃんとはまた違った魅力だと思う。


 由佳の意見にはわたしもほとんど賛成だった。でもそうは言いつつも、まだ間に合うなら一個か二個くらい、短期のものを受けてみるのも手かもしれない。わたしはそう思う。


 由佳とは違って、わたしはサークルの代表をしているわけでもなければ、そもそもサークルに所属していない。ボランティア活動をしてもいなければ海外へ留学にも行っていない、ただ勉強をしてきただけのわたしは、多分世間一般でいう「何もしていない」大学生だ。

 そういうわたしみたいな学生はきっと、やりたいとかやりたくないとか。どこに行けばいいか分からないとか、そういうことはさておいてインターンに参加するべきなのだ。


 由佳に話したらきっと、「企業のいいように使われるだけだって」なんて言われちゃうけれど、わたしにとってはたった1本の蜘蛛の糸。それを掴まなければ生き延びることはできないのかもしれないのだ。

「インターン、どうしようねえ」

 そこまで分かっているくせしてわたしは、結局由佳と同じようにベンチでアイスを食べながら伸びていた。


* * *


 その日は最高にストレスフルな1日だった。
 夏休みが始まる数日前。全国で最高気温を更新した夏も盛りというその日に、華ちゃんがブチギレた。
 わたしはちょうど別の女性がついたテーブルに氷を運んでいたところだったから、どういう話があったのかは分からない。だけれど、傍目から見てひと目で分かるほどに、華ちゃんは本気で怒っていた。

「ちょっと、ちょっと落ち着いて? ね? 華蓮ちゃん」

「華蓮ちゃんって、もしかして本名? あっちの店でもその名前だったよね」

「お客さんも、お願いだからやめてください。ここでそういう過去の話とかは」

「でも事実だしさ。……仕方ないだろ?」

 間に入った玲子さんが必死に華ちゃんを抑えているが、どこからそんな力が出るのか。華ちゃんは今にも玲子さんの腕を振りほどいて目の前の小太りな男性に殴りかかりそうだった。

「茉奈ちゃん! ちょっと早く! 手伝って!」

 呼ばれてわたしはようやくわたしの仕事を思い出した。そうだ、こんな時こそ「ボーイ」らしく止めなくては。
 わたしも玲子さんを手伝う形で華ちゃんの体を羽交い締めにしてみたけれど、玲子さんが今まで1人で抑えられていたのが信じられないほどの、強い力だった。

「華蓮ちゃん、落ち着いて、どうしたの?」

「こっのクソじじいが! 死ね! 死んじまえブス!」

「おいおい、あくまで俺はお客様だぜ?

 それに、何度も言ってるけど華蓮ちゃんが風俗で働いてたのは本当じゃん。俺も何度か相手してもらったしね。あの時はすっごく無愛想な子だと思ったけど、そんな風に笑ったり怒ったり、できたんだね」

 舐め回すように華ちゃんの身体を見るお客さんに、わたしの身体も怒りで熱くなるのを感じた。
 そして同時に、華ちゃんがやたら高そうなものをたくさん持っている理由。お金持ちの人と結婚しようとしている理由。そういうものが見えてきた気がした。

「本が好きで、大学行きたいからってお金貯めてたのになんでまだこんなところで働いてんの?
 あ、もしかして……男のことが好きになっちゃったとか?」

「お客さん! 今日はもう帰ってください。お代は結構ですから」

 そこで玲子さんがそう叫んだ。
 他のお客さんも女性も皆んなシーンとしている。華ちゃんを散々けなしたそのお客さんは、とても楽しそうにしながら大人しく出て行った。
 華ちゃんは最後まで「死ね」とか「ブス」とか「デブ」とか叫んでいて、その度に細い身体が粘土のように形を変えるのが恐ろしくてたまらなかった。彼女がこのまますべてのエネルギーを憎しみに変えて蒸発してしまうんじゃないか。そんな風に思えたのだ。

「もう今日は帰る」

 それから10分ほどして、少し落ち着いたらしい華ちゃんはそう言うと電話を取り出した。
 俗に言う“白タク”というものを呼ぶのだろう。その所作は確かに、入店して間もないというには妙に手馴れていて、わたしは不謹慎ながらも華ちゃんが風俗店で働いていたことを想像せざるを得なかった。


* * *


 その夜、わたしは珍しく営業が終わった後に玲子さんといた。ほとんど毎日アフターに出かける玲子さんだったが、今日は華ちゃんの騒動でお客さんが早く帰ってしまったのだ。
 かくいうわたしもいつもより1時間も早く店を出てきており「少し付き合って」という玲子さんの誘いを断る理由も何もなかった。

「あのデブーーお客さんの言ってた通り、華ちゃん、前は風俗で働いてたらしいの」

 玲子さんはお店では決して飲まない、安いウイスキーをロックで飲みながらそう言った。
 わたしの目の前には玲子さんおすすめのバイオレットフィズという、花の香りがする美しい紫色のカクテルが置かれている。そのカクテルはなんだか華ちゃんのことをわたしに思い出させた。

「でもそれだってね、大学に行きたい、育ててくれたお母さんに認められたいって思いからなの」

「華ちゃん、優しいんですね」

「実はね」

 玲子さんはそう言って苦笑した。煙草の煙が線を引くようにして、暗いbarの店内を少しだけ白く染め上げている。玲子さんが吐き出す煙と、煙草自身から上がる煙の形が微妙に違うのが面白かった。

「その優しさをいつも表に出してくれればいいんだけどね。なかなかそうもいかないんだろうな。
 あの子のお母さん、先月に蒸発しちゃったんだって」

「蒸発? それってつまり、行方不明のことですよね?」

「そう、行方不明。ただ、どうにもお母さんは自分で家を出て行ったらしいの。
 ……それで華ちゃんの家は母子家庭だったから、今あの子は1人。育ててくれたお母さんに恩返しをしたくって、認めて欲しくって、そうやって自分でお金を稼いでたのに、それもダメになっちゃったんだって。

 お金があれば。自分がもっと綺麗でいたら。あの子は多分、そういう風に思ってるんじゃないかな。相当貧乏だったらしいし。
 ま、わたしもそれ以上詳しいことは知らないけどね」

「……」

 親がいて、塾に通わせてもらって、大学に行かせてもらった上に1人暮らしをさせてもらっているわたしにとって、その話はほとんど物語の世界の出来事だった。こんな身近に、そんな人がいただなんて。そういう事件が、本当に存在していただなんて。

 もしかしたらわたしの家も、そんな風になる可能性があるんじゃないか。
 震え出した手を、わたしは抑えることができなかった。

「そんなに深刻な顔しないで。この業界、そういう人は沢山いるから。
 茉奈ちゃんみたいなのはもしかしたら少数派かもよ?」

 イタズラっぽく笑う玲子さんは今日もやっぱり綺麗だったけれど、どうしてか今だけはそれが痛々しく感じられた。

「でね、これを茉奈ちゃんに話したのは、あの子が……華ちゃんが風俗で働いてたからって軽蔑しないで欲しいから。
 あの子、あれで茉奈ちゃんには懐いてるみたいよ」

「華ちゃんが、わたしに……?」

 こんな取り柄もない、美しくもないわたしにあの美しい華ちゃんが懐いている。
 それは俄かには信じがたいことだった。

「お姉ちゃんみたいに思ってるのかもね、あなたのこと」

 玲子さんがウイスキーをお代わりした。長い指がロックグラスに絡む様は艶かしくて、同性のわたしが見ていてもドキドキしてしまう。こういうところに、お客さんはきっと惚れちゃうんだろうと場違いなことを考えた。
 そして華ちゃんも、それはきっと同じようにお客さんから見られているはずだ。


 母子家庭でお父さんとどういう関係だったのだろう。
 お父さんと同じくらいの年齢の男性を相手にするのは、苦しくないのだろうか。
 いろいろなことがわたしの頭を駆け巡るけれど、結局答えは見つからない。


 わたしなんかにはきっと、華ちゃんの思いは永遠に理解できないだろうと思った。
 口にしたバイオレットフィズは甘く、飲み込んだ瞬間に華やかな香りがわたし口いっぱいに広がった。


* * *


「テストにレポート、お疲れ様でしたー!」

 由佳の声にわたしは持っていたレモンサワーのグラスを、彼女のビールジョッキと軽くぶつけあった。
 大学近くの居酒屋はテストやレポートを終えて夏休みに入った大学生でごった返している。あちこちから大きな笑い声が聞こえていて、わたしが働いているあのクラブとはまた違った盛り上がりが店を支配していた。


 由佳はよほどテストが嫌だったのか、いつもよりも調子よくビールやハイボールを飲んでいる。わたしはまだ2杯目のレモンサワーを半分ほどしか飲んでいないというのに、彼女はもう5杯目を飲み終えるところだった。

 流石に酔いが回ってきているのか、ほのかに彼女の頬は赤い。

「あー、卒業したらわたしも居酒屋で働こうかな」

 頬づえをつきながら、由佳はそう口にした。
 だいぶ酔っているらしくてその視線はウロウロと迷子になっている。わたしのことも、半ば見えていないのかもしれない。

「居酒屋? どうしてまた。前にバイトして絶対居酒屋だけは嫌だって、言ってなかったっけ?」

「そ。締め作業は面倒くさいし、何より皆んな楽しそうに飲んでいるのを眺めてるだけっていうのがね。
 ……でも、わたし事務作業とかよりは向いてるかもって思ってるの。テストのたびにね」

 そう言って由佳はハイボールを一息に飲んでしまうと、店員さんを大声で呼んだ。
 満席状態でどの店員さんも忙しいからか、厨房にいた店長さんが出てくる。店長さんは相変わらず満足そうな笑顔を浮かべていた。ふと、いつかスーパーで見てしまった店長さんを思い出す。

「ハイボール追加で!
 ところで店長さんさ、このお店って就職可能なの?」

 由佳が店長さんと話し始めるのを眺めながら、わたしは華ちゃんのことを思い出した。
 華ちゃんはあれからすぐに、お店を辞めてしまった。わたし達は何も気にしないと言ったのだけれど、やっぱり彼女自身に負い目があったのだと思う。風俗店で働いていたことを知られてしまったら、わたしだったらとてもじゃないけど生きてはいけない。

「茉奈さん、よかったら今度カフェでも行きましょう」

 最後の出勤の日、華ちゃんはそう言ってわたしと連絡先を交換してくれた。まだお互いに一度も連絡はとっていないけれど、わたし達は会おうと思えば会うことができる。

 今何してるの? ちゃんとご飯は食べてる? いい人は見つかった?

 たくさんの事を聞いてみたいけれど、その前にわたしはきっと、華ちゃんに会えるような人になっていたい。

「ここ就職できるって! もうわたし、本当に卒業したらここで働こうかなあ」

 机の上に伸びている由佳はそう言った。酔いが覚めてしまえば由佳はきっと、居酒屋で働くのだけはあり得ない、なんてまた言い出すに決まっている。

「わたし、インターン受けることにしたよ」

「え、マジで? ……茉奈は偉いなあ。
 だって会社で働いてる人なんて、皆んな辛そうじゃない? それに比べてあの店長見てみなよ。あんなに楽しそう。わたしもあんな風に働きたーい」

 運ばれてきたハイボールを飲みながら、由佳はそんな愚痴を暫くの間言い続けた。
 わたしは由佳が指をさした店長の方を見る。店長は確かに、幸せそうに働いていた。厨房での仕事をしながら、厨房前にあるカウンターのお客さんと楽しげに話をしている。時々バイトの店員さんなんかも交えて会話している様子からは、確かにこの仕事の楽しさが伝わってくるようだ。


 お手洗いに立った由佳を見送って、わたしは背もたれに身体を預けてひと息ついた。ふと思い出して、レモンサワーの残りを飲みながらスマートフォンのメールフォルダを開く。
 すると2日前に送ったばかりの企業から、インターンの面接が合格しているという旨の通知が届いていた。


 これでわたしも少しだけ華ちゃんに近づくことができただろうか。
 氷の溶けたレモンサワーがさっきまでより美味しく感じる。


「やっぱり楽しそうだよ、ほら見てよ茉奈も」

 お手洗いから戻ってきた由佳は、楽しげな店長さんを羨ましそうに見ていた。
 彼女は一年後、どこに就職すると言っているのだろうか。それがどんな職種のどんな会社であれ、わたしは由佳がこの居酒屋で働いていないことだけは確信している。
 店長さんにとって、このお店でのこの時間は、確かに掛け替えのない大切なものなのだろう。そういうものに憧れるのは、わたしも同じだ。


 でも由佳は知らないのだ。この店長が開店前、どんな顔で買い物をしているのかを。


[了]

本編は上記で終了です。
以下、今回は「あとがき」等一切ありませんが、作品をいいと思っていただけましたら、支援の意味でご購入頂けましたら嬉しいです。

少しして、あとがき等載せるかもしれません。
約1万とんで700文字。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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