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『いだてん』 第23回 「大地」

2013年放送の『あまちゃん』では岩手の登場人物たちも誰も死ななかった。そのころはまだ日本中に震災の記憶が重くみちていて、フィクションの中の震災死すら私たちには耐え難かったからだろうと思います。

『あまちゃん』と同じく、
宮藤官九郎 脚本、
井上剛 演出(監督)、
訓覇圭 制作統括、
大友良英 音楽

で制作されている『いだてん』だけど、2019年に描かれる関東大震災は、きっと違う様子になるだろうと想像はしてた。

でも、でも、まさか。 
初回から登場し、少女時代、女学生時代、教員となりそして母になる姿が綿々と描かれてきたシマちゃん先生(杉咲花)に、あんな運命がふりかかるとは。

1923年9月1日、劇中でその日付が示され、シマが赤ん坊のりくを預けて浅草に向かうシーンから嫌な予感しかしなくて胸苦しかった。

シマの夫、増野(柄本佑)は娘をおぶって瓦礫の中、疲労困憊になりながら妻を探し回るが、ついに座り込む。

「どこかで諦めなきゃいけないんだろうなあ。もう、少し諦めかけてるし」
 ↑ ここで私の涙腺決壊。たたみかけるクドカン脚本。

「あの朝、初めて文句言ったんです。
 ごはんが固いって。
 我慢してたけど、これからずっと一緒に暮らすんだし、言った方がいいと思って。
 ごめん。ごめん。言わなきゃよかった。
 ごはんなんてどうでもよかった。」

増野は百貨店勤めでパリッとした格好をし、「陸上を続けたらいい。結婚で何も犠牲にしてほしくない。君がオリンピックに出るなら子供を抱いて応援に行く」と当時としては超リベラルな思想を語って求婚したスマートな男性。

その彼が、衣服や顔がボロボロに汚れているのはもちろん、人目をはばからず弱音を吐いて嗚咽するくらい挫けきっている(この演技がすごくて、柄本佑のキャスティングの意味がわかった…!)

ごはんが固いだのやわいだの言い合う何てことない日常からシームレスに、理不尽な「まさか」がやってくる。その1つが震災だ。

もちろん、シマ夫婦だけではなく、東京じゅうの人々が被災している。

「だって寒いんだもん」と、ぶっきらぼうながらも夫婦の縁を認める孝蔵夫婦。
いけ好かない村田医師が、物資の窮乏のなか懸命に治療にあたっていたり。
瓦礫の中、清さんがきらきらと輝く瞳で俥を引いてきたり。

描かれるのは、いくつもの「小さな物語」だ。
十把ひとからげの「被災者」ではない。

囲いの中にいたため逃げ遅れ、圧死や焼死した吉原の遊女たちがいたこと。

また、
「おまえ日本人か?」
「その変なしゃべり方、日本人じゃないな?」
と、きつい熊本なまりの四三が自警団に詰問されたように、混乱の中で疑心暗鬼になった人間に暴力的に排除された人々がいたことも、ドラマは示唆していた。

シマのように必死に捜索された人がいた一方で、ほとんど誰にも一顧だにされず死んだ人たちも大勢いたのだろう。
そんな人たちにも、一人ひとりに顔があり、人生の物語があったのだと思わされる。

その日の一人ひとりの小さな物語の先に、このドラマのもう1つの時間軸、1964年の五りん(←噺家の弟子の芸名。演・神木隆之介)がいる。

シマの忘れ形見、震災のとき赤ん坊だった「りく」の子が五りんなのだと明かされる。
会ったことのない祖母の結婚写真(当然モノクロだ)を、彼は大事にもっている。

シマ夫婦と、仲人の金栗夫婦。人生最良の日のひとつに、屈託なく笑う4人。

志ん生や五りんを始め、30数年後に写真を見る人々は、そこにこの物語の主人公、日本人最初のオリンピック選手、金栗四三が写っていることに気づかない。
誰ひとりとして気づかないことに胸打たれた。

これはあくまで、五りんの祖父母の写真なんである。
名もない市井の人だったシマと同じように、金栗四三さえ、数十年も経てば歴史の波間に消え、人々の記憶も薄れていく。

今も同じだろう。
私も、私の家族や友人も、
私と同じ時代を生きるスターたちも、
そのようにして消えていくだろう。
それは悲しいようで、
どこか公平で納得がいくことのような気もする。



メディアでは、相変わらず低視聴率が取り沙汰されている『いだてん』。
「大河ドラマらしくないから」だと言われている。

…というか、このドラマは、単純化されていないのだ。

英雄であり大いなる挫折者の四三。
後年、噺家として大成するも今はクズい孝蔵(森山未來)。
女子アスリートとしてオリンピックに出る夢を見たシマ。
「女子に体育なんて」と見下すが、震災後は立派な態度をとる村田医師など、脇の脇の登場人物まで、複雑な襞がある。

華々しく送られ東洋からオリンピックに初出場するも、あえなく敗北する。
栄えていた東京の街が、一夜にして灰燼に帰す。
 
ことは一直線に運ばず、カタルシスは一瞬で、繰り返し挫折が描かれる。
わかりやすくないかもしれない。
スカッとさせてくれないかもしれない。

でも、これは私が考える歴史のひとつの姿だ。
無数の小さな物語が織りなすタペストリー。

かんたんにすることはできない。
いいところだけ、綺麗なところだけを拾うのは不遜だ。

そして歴史は構造として繰り返される。
この廃墟から復興した東京がわずか20余年後にまた焼き尽くされる様子も描かれるだろう。

ドラマの外でも、
東日本でも、福島でも、熊本でも、各地の災害でも、
ひとりひとりの無数の小さな物語が繰り返されている。

いくつもの入れ子構造になっている「いだてん」は歴史ドラマだと思う。

スポーツ、落語、下町の庶民、ジェンダー・・・さまざまな角度からアプローチして長い時代を描いていく意欲的な作品だ。

細やかなディテール描写、襞の多い心理描写、複線的な筋書き…

『複雑な物語は、「効率化」という平成の至上命題からは遠く離れているので、敬遠される向きにある。』(大意)

…と、最近読んだ文章に書いてあった。(白井聡「ポスト・ヒストリーとしての平成時代」2019)

創作作品にまでコスパが求められるのが現代らしい。

それをいうなら、実用書や自己啓発本ならともかく、物語を見たり読んだりすること自体、なんら生産的ではない(笑)

でも、人間はコスパのために生きてるんじゃない。
生産性や効率化でははかれない幸福があるはずだ。
視聴率という指標の外で、多くの人がすばらしい物語を求めているはずだと思ってる!

嘉納治五郎が夢をかけて作った神宮外苑の競技場は、オリンピックの開会式ではなく、1943年、まず学徒出陣の壮行会で使われることになる。
(これは歴史的事実なのでネタバレじゃないはずだー!)

そのあたりを「いだてん」がどのような筆致で描くのか。
視聴参入は今からでも遅くありませんよ~!


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