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『いだてん』 第24回 「種まく人」

結局、家族が願った奇跡はシマちゃん(杉咲花)には起こらず、遺体や形見も見つからず、1万人ともいわれる行方不明者の1人として説明されることになるのでしょう。

小さい娘をおぶって妻を探し歩く増野(柄本佑)の憔悴した姿。昼間は賑やかでも夜になるとやけに静かで暗く、すすり泣きが聞こえてくる避難所バラック。一晩中ノミやシラミに噛まれ続ける環境…。凝縮して描かれていたけれど震災の痛み悲しみが胸に刺さった。

「こんなときにスポーツどころじゃないでしょう」
「ケガで動けない奴はどうするんだ」
もちろんそんな意見も出る。思わず足がすくんでしまうのは、つらい人たちがいるとわかっているから。
でも、だからこそ、動き出そうとする人々に目頭が熱くなる。
 
「自分の無力感に打ちひしがれていたけど、人間はもともと無力。だったら今までどおり、バカんごつ走るしかない」

「こんなときこそ踏ん張らんでどげんする。救援物資ば持っていけ。困ったときはお互いさまたい。あとからまたどんどん送ってやる。」

「我々はスポーツマンです。我々にできるのはスポーツによる復興だけ」

◆ 

シマへの求婚の際、「(君のオリンピックを)子どもを抱いて見に行きます」と言った増野。
現実は、シマがいない復興運動会を娘をおぶって見ることになった。でも女子たちが溌溂とバトンをつないでいく姿はシマの夢で、彼はこれからも妻を思いながら女子スポーツの発展を見つめるのだろうな。
靴下を脱いで、思いきり腕をふり、地面を蹴って風を切る女子たちは文句なくかっこよかった。

『いだてん』第一部は、
日本人最初の五輪選手金栗四三の物語であり、
若き志ん生が覚醒するまでの物語だったが、
同時に、一人の名もなき少女が近代的自我に目覚め走り出し、女性として葛藤と模索を繰り返しながらも懸命な年月を過ごし、巨大な災害に消えるけれども未来へと襷をつなぐ物語でもあったんだなと思います。

バラックで落語やってるところに「復興節」のバンドがなだれこんでくるシーン、鳥肌が立ちました。
私はこのドラマの音楽を担当する大友良英が大所帯のバンド演奏で起こすマジックが大好きなのです。

「つらいときでも、たまには笑いたい。酒を飲んで酔っぱらいたい。それが人間さ」
音楽、落語、スポーツ…だからすべて必要なんだよね。
この「いだてん」のようなすばらしい物語も。
 
第一部最終回にふさわしく、主要キャストが勢ぞろいでそれぞれに見せ場があり、それだけでなく、引きの画面にものすごくたくさんの人がひしめいていました。群衆のパワーを感じました。

「名もなき人」たちが大勢いて、その人たちに一人ひとりの物語がある。その集合体が歴史です。
最後はもう、金栗が走り、人々がわーっと思い思いに走るだけで、それだけで泣けましたよね。
人はこうやって繰り返し立ち上がってきた。


第一部をとおして描かれたのは、
スポーツも落語もオリンピックも、「人」のためにやるもんだってこと。
国のためではない。
経済のためでもない。

お金を回すのは俗世にとって大事だけれど、それはあくまで副次的な話で、決して第一目的ではない。そう描かれてきたと思う。
(むしろ、オリンピックなんかに参加するとクソお金がかかることが繰り返し強調されていたw)

第二部は「戦争と戦後と東京オリンピック」が主題に上がらざるを得ないと想像します。
都市や暮らしが破壊されるのは震災と同じ。
でも、戦争は災害とは違う。人間が起こすものです。そこをどう描くのか?「逆らわずして勝つ!」とは、いかないでしょうから。

最後には1964東京オリンピックにたどりつくドラマです。
その先に2020年の東京オリンピックがあります。
私なんかドラマを見てるだけの「名もなき一人」ではあるけれど、そういう人たちが集まって日本という国となり、歴史となるのだから、やっぱりいろいろ間違えないようにしたいなと思う。


 
勘九郎の四三を見ていると、亡くなった十八代目の勘三郎に驚くほど似ている瞬間がたくさんあった。今までそんなふうに感じたことなかったのに。
表情にも声にも面影がくっきりとしていて、ここにも人の歴史を感じました。

志ん生はもう1人の主人公。
森山未來が噺家でないということがもはや信じられないレベル。逸材の能力が遺憾なく発揮されていて大満足です。孝蔵のサイテーでサイコーな魅力がたまらない!


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