転がる玉ねぎ日記 2023.1.30

 最近バスタオルを持たずにシャワーに向かうことが何度も続いている。別によくある失敗なのだが、これをすると毎回一人で笑ってしまう。
 風呂場にバスタオルを持って行くのを忘れた人にだけ理解るおかしさというのがある。だって今から濡れるのに拭くものを持ってないんだよ?やばくない
 なのに乾いた後に着る服は持っててさ、おかしいよね。おかしくない?
 気づいた時は毎回笑いながら踊り、バスタオルを取りに部屋に戻る。たまに部屋でスマホをいじって、そのまま全て忘れて戻ってくることもある。私は不注意の王様だ


 YouTubeショートで外で料理する動画が延々と流れてくるのでそれを見る。無言で調理し、小気味いいリズムで描写が切り替わる動画が好きだ。大体カメラが真横からまな板を映し、そこに食材が投げ込まれる。
 私は肉がベチャッと湿っぽい音を立ててまな板に乗る音が好きなのだが、どうしてかどの動画も玉ねぎだけは全部転がり落とす。

 私は自分がやるわけでもないのにそれを拾い集める作業を考えて やめて〜となってしまう。コメント欄でたまにいて、「じゃあ見るなよ」と言われている人だ。
 別に受け入れられないことがどんなに些細でも、だったら見るなというのは何らかの場に公開されている時点で通用しない言葉なのだが、とても言いやすい(かつ的を外してはいない)言葉なので多用されているのをよく見る。
 面白いのはほとんどが視聴者側からの言葉で、同じ動画の視聴者であったのによりポジティブな感想を持った側が強い権力を得たように振る舞うことだ。
 昔からいて最近SNSの普及で可視化されるようになっただけだと思うのだけど、プラスの感想や批評以外は攻撃だと思っている人がよくいて、そういった言説が力を持っているように感じる。特に「あれは面白かったけど一つ気になるところが…」のような話に怒る人を見るとギョッとしてしまう。
 人間が一つの感想だけを持つ場面なんてないと思うのだが、『肯定』という大きな枠で包まれたものだけが感想として認められる場はTwitter上で割とある。
 そこから同じ動画の視聴者の一方がもう一方へ「肯定しないなら見るな」と言う場面が生まれてしまうのは、なんかネットって広そうで狭いんだな〜と感じてしまう。

 そもそも動画を見ない選択をするのは本人であって、それを他人が指示することはよく分からないのだが、自分が楽しんでいるものにケチをつけられると自分自身が貶されたように感じる人は決して少なくないのだと思う。
 じゃあ私は玉ねぎを転がされるのが嫌だから見ないのかというと、玉ねぎが何個転がろうとそういう動画をずっと見ている。最近は玉ねぎが転がるほど おっやってるねという気持ちが同時に表れるし、YouTubeのアルゴリズムAIもそれを分かってかどんどん玉ねぎが転がる動画を流してくれる。
 最近は物理演算で一斉に玉を転がす動画を見ている。私の前でもっと玉を転がしてくれ。片付けるのが面倒〜!って笑顔で叫ぶから

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