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【小説 喫茶店シリーズ】 Ⅰ. 純喫茶「風車」 (vol.10 完)

僕は、この物語を終えるにあたって、冷静に語り尽くすことはできないだろう。

つい昨日のような気もするけれど、何十年も前のことのようにも思える。いや、それどころか、あの頃読みあさった、どこか遠い国の小説のひとつなのでは?とさえ思える。

僕はその時も、まったく予期しない方向へと展開する、その流れを司るものの気配を、
山を越えたと一安心の次の瞬間には、また別の谷へと落ち込んでいくような、わたしたちにはどうにもならない、圧倒的で、暴力的でさえあるその力を感じた。
あの日、叔母さんやお姉さんや、僕、そして何よりも、響子さん自身が見た未来ではなかったかもしれないが、これこそが、神の采配と呼べるものだ。
と、最近ようやく思えるようになった。

そうだ、決して、わたしたちは神を憎んではいない。
このことだけは、先に言っておこうと思う。

・・・
翌週の日曜からは、僕の前に響子さんと道子さんが座った。生徒が増えたことで、講師は俄然熱が入った。

自己犠牲と絶対愛の化身ソーニャが、ラスコーリニコフの罪を戒め、叱責するくだりになると、
「お立ちなさい!今すぐ行って十字路に立ちなさい。お辞儀をして、あなたが汚した大地に接吻なさい。そして四方を向いて全世界にお辞儀をなさい。それから、みんなに聞こえるように罪を告白しなさい。そうしたら、神さまが、きっとあなたにまた命を授けて下さいます」
この人間再生の道を指し示す教導者ソーニャの言動を、もう親族の声援を受けた学芸会の小学生よろしく、身振り手振りを交えて熱演した。

しかしそれにしても、その後の現実の仕打ちは堪えた。

9月の講義も順調に終わり、残すは、最後のシベリア流刑地での神の受容と愛の確信を控えて、僕は一週間みっちり準備していた。
ラスコーリニコフの回心への迷走と、変わらぬソーニャの献身。そうして、最後の希望、新しい物語の始まりを予告して終える。
前夜は、これでよしと、まとめたノートを枕元に寝た。

よく晴れた10月の朝だった。
僕が元気よく階段を駆け上がり「おはようございます」と入っていくと、カウンターには、道子さんだけが立っていた。
「妹が苦しんでいる。行ってあげて」
昨夜、流産したという。
状況を説明している道子さんを残して、カウンターに荷物をおいたまま、僕は来たばかりの階段を飛び降り、自転車に飛び乗った。

病院の名前は知っている。学校のすこし手前、通学路の脇道を入ったところだ。訪れる人にだけ分かればいいといった、小さな看板が電柱にある。
その3キロ程の距離を、夢中で走った。
「神さま、どうか響子さんをお救い下さい。懺悔します。既にお分かりでしょうが、僕はアナタを疑っていました。『この世に、神なんかいないんだ』と思っていました。でも、本当は存在して欲しいんです。アナタがいないとしたら、無力な人間は、一体何に祈ればいいのでしょうか?ですから、私のこの虚ろな目には見えなくとも、どうか彼女を助けて下さい。救って下さい。お願いします」
ペダルも折れよと、漕ぎに漕いで急いだ。
自分の力がこれだけしかないのが口惜しかった。
手前の角の青果店の前で「アッ」と思って寄り道して、日曜日の病院に飛び込んだ。玄関は空いているが、受付には誰もいない。
呼び鈴を何度か押して、ようやくやって来た年配の看護師さんに、
「弟ですが、会えますか?」と尋ねると、ジロリと睨まれ無言で引き入れてくれた。
多分、弟だとは思っていない。

静まり返った暗い廊下を抜けて、奥の個室に響子さんは居た。
静かに、横たわっていた。
磨りガラスの窓からやさしく入る乳白色の光に浮かび、顔も胸の上にある手も真っ白で、僕は、勘違いして死んでしまった「ジュリエット」を目の前にしているような、そんな錯覚に襲われて、震えた。

響子さんは、静かに目を開き、僕を認めるとまた目をつむった。
そして、そのつむった目尻から、涙がぽたぽたと流れ落ちた。何もない所から泉が湧くように、静かに流れ続けた。
僕は、力が抜け椅子に腰掛け、頭を抱えて、待った。
何を? わからない。 どうなるのか、どうすべきなのか。
黙ったまま、待った。
この無言の時間の流れを司るものの到来を。
その間も、響子さんの悲しみの泉はこんこんと湧き出ていた。
二人とも、何も言わない。そうして30分くらいも経った頃、カチャリとドアが開いた。

寿子叔母さんだ。
後ろからもう一人、背の高い男性が入ってきた。
「響子。ごめん。つらかったろう」と、小さいが、一言ずつハッキリと言った。
響子さんは、ビックリして、「あぁ。一史さん」と言ったきり、顔を両手で覆って泣き出した。声を出さずに泣いていた。

寿子叔母さんは、僕に目配せし、一緒に外に出た。
ただ、その前に思い出して、ポケットからレモンを一個取りだし、枕元の窓枠にそっと置いてきた。


ここで、この物語は終えるが、読者からは不完全の謗りを受けるだろうから、次のとおり、その後の事を簡単に記しておくことにする。

・ 響子さんは、一史さんと一緒に東京に行った。
 二人で小さな喫茶店を始めた。
 名前は、もちろん「純喫茶『風車』」という。
・ 元の「風車」は、道子さんが引き継ぎ繁盛してい
 る。客層はがらりと変わった。
 そして、驚くなかれ、道子さんは結婚した。
 僕にまでその披露宴の招待状が届いた。
・ そして、僕は今、第一志望の大学を落ち、今は仙台で
 予備校に通っている。来年度は何とかなるだろう。
 受かったら、響子さんと一史さんの店に行こう。
 それまではお預けだ。


***
ルカ17章 20 21
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある、あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国は、『あなた方の間にある』のだ。」

(了)

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