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ほねじゅう July 21

ほねじゅうおかわり。

こないだ見た時よりも、2幕のリサンが激しくなかった?

1幕、審問?のシーンは、みんな其々思惑だらけだな!
ラグランジュはとにかく手短かに、と。イエズス会の彼らが抱えているであろう矛盾を実は分かっていて、彼らとそんな議論に達してしまうことを避けたいと思ってる。
総長はとにかく穏便に、と。ラグランジュが無用な議論をしようとしないだろうということも分かってる。こんな面倒な問題を持ってきたリュバックの青さにはチッと思ってるに違いない。最もうやむやにできる対処法へ導くために、わざわざ弁護人としてリサンを呼んでいる。
リサンは自分が何を期待されてこの場に呼ばれたのか理解している。悔しい、遣る瀬無い思いを腹に秘めて。テイヤールには興味があっただろう。「化石のように口をつぐみますよ」なんて、テイヤールの気を引こうとしてる。(「化石はあなたにとって最も雄弁ですよね」なんて、それに乗っかる形でテイヤールに話し掛ける総長も相当なタヌキだけどな!)

「暗闇と混沌。何かが生まれるのに相応しい状態はどちらだとお思いですか?」「まさか "暗闇に光あれ" なんてことを思っていた訳ではないでしょう?」←わ!創世記!
暗闇=目を閉じてる、つむってる、見るべき真実を見ないってことだよね。みんなが腹の中を明かさずに話をしていたあの場に、リサンはちょっと混沌をもたらしてやった。
せめてもの抵抗か。

「十字架はあなたを守るもの。使ってはいけない」
割り切らないといけないってことね。苦渋を抱えながらこれを言ってる。テイヤールに共感を求めながら。

テイヤールの考えは、聖書=神のみことば=真実の比喩。
神は天上にあってそこから統べているのではなく、我々の歩く前方に居る。到達点。

私たちは十字架から手を離せない。片手で学問の海を泳ごうとするが上手く泳げない。
片手ではどちらもうまくできない。
リサンは、学問と信仰をそれぞれに愛した。イエズス会士の多くがきっとそうだ。両者を融合させるなんてこと、考えたこともなかった。
なのにあの男は、いとも簡単に両手を広げてみせた。
羨望、嫉妬。(後日「もし私なら誇らしげな顔をして見せてさしあげたでしょう!」って総長に吐露するとこ、痛い…)
気付いてしまえ!
(1幕ラスト、光の十字架と5人が配置した構図はマジ素敵)

人が神を作ったと!
リサンはここへ完全に辿り着いてしまうことが怖くて、探求を進める足を止めたんだね。生物の分類ばかりをするようになった。それまでに動植物の化石と一緒に旧石器らしいものが出土していたけど、ここで決定的な人骨が発見されたらそれは何を意味することに繋がるか…リサンは怖かったんだ。
あなたは歩を進めようとしていない、と指摘するテイヤールにもムカついた。

そう言えば私、宗教ってつくづく人が作ったものだよなって、世界史を勉強しながら思ってたよな…
イエズス会なんてみんな学問をやってる人たちだもの…誰もが薄々そう思いながら、自分の中で折り合いをつけてるんじゃないかな。
てゆーか、現代ではまさか科学の否定なんてしてるわけがなくて、でも今でも宗教が必要な理由はあって、S.J.たちは何かしらそういう信念を持って司祭になることを選んだのだろう。
"清廉"とかっていう感じでは全然なくて、ちょっと俗っぽさがあって、胡散臭い聖職者だな、人間臭いなって思わせるような先生が好きだったけどね。親しみが持てて。

でも当時の彼らにとってはこれが最も恐ろしい考えだったんだなぁ。3人とも慌てて十字架を手で掴んでたもんなぁ。

「ヒトは歩いたからこそ跪くことを知ったのかもしれない」って、よくよく考えたら凄い怖ろしい発言だったんだ。

ドミニコ会(Domini canis)の立場の方がよっぽど純粋で説明はしやすい。
目を開いている=信仰している
正しく目を開いていないと言われたことに最もムキーッとなってた。動揺してたとも取れる。
ラスト手前のシーンでは、その動揺を認めた上で鎮めた心を以ってテイヤールと対峙していたのではないかな。
子供の頃、地平線を見て怖れを感じたという話なんかしてさ。
その話を聴くテイヤールの表情には共感が見て取れた。危険と知りながら噴火口を見に行った話を続けたもんね。なんと呼べば良いか分からない「畏れ」。
細かい台詞を覚えてなくて残念だけど。
「あなたにとって祈りとは?…その1歩だけなのですか?」
祈ること=神に近付くこと。あなたはそれ以外にも、もっとアクティブに、神に近付く手段を持っているのですね…って言ってるのか?
あるいは…1歩だけでなくもっと突き進めよ!ってエールを送ったのかも⁉︎

神は人から探求心を奪うこともできたはず。でも与えた。それを突き進み神に近づきたいと思うことは神の御心に従うこと。
テイヤールにとって、発掘と信仰は同じ。

でも…北京原人の頭蓋骨を手にして、まるで自分が進化の先頭にいると分かっているような傲慢を感じ、そこに神など介在しないという考えが(襲ってきて)怖くなった。
神の御許には居たい。信仰があるから。変わってしまうことは怖いから。今はただ静かに祈りたい。
子どもの頃ワーワー泣きながら錆びたネジを埋葬した話…それが信仰の道に入ったきっかけだと言ってた。きっと、変わらぬものを持ちたいと思ったんだろうな。

リサンがマッチ点けるの下手なの…火を上手く使えない、進化の道を上手く歩めていないという意味があったり?

あるいは…
総長とリュバックの「(北京原人は)火を点けることはできたんですか?」「さぁ…点けることができたかは…落雷や火山の噴火による炎を利用していたかもしれません」という会話があったけど、 "リサン=北京原人" という説はどうだろう⁈ 進化の道を行く=信じた道を突き進むことのまだまだ途中・途上にある。
蝋燭の火を点けたり消したり自由自在な=信じる道を迷い無く(ホントのとこは分からないけど)歩む術を既に得ているラグランジュと対照的。
テイヤールは北京原人に自らを重ねるし、リサンの葛藤に共感する。

「テイヤール師…共に祈ってもいいですか」と言うリサン。
(ここで初めて…っていうか劇中で唯一、人の名前を呼ぶとこなんだよな)
テイヤールは穏やかに微笑み、2人は共に跪いて祈りを捧げる。
そして「どちらへ?」と尋ねるリサンを後ろに残し、テイヤールは真っ直ぐ前へ歩いて行く。(「あなたの神は、どちらに?」って尋ねてたかも)

リュバックには「先に行ってて」と言ったよね。この子には只々真っ当に"イエズス会士" でいてほしかったのかも。自分やリサンのように葛藤や逡巡の波をくぐり抜けて行ける子ではないと思ってたのかも。
「あなたは歩いて来て、ここを通り過ぎて行くのです」
テイヤールとリュバックだけじゃなく…
5人の歩む道はたまたまここで交差したけれど、また其々の道を前へ向かって歩いて行くんだよね。
おぉ…リュバックくん、後にちゃんと枢機卿にまでなっているわ。

頭蓋骨に向かって語り掛けるテイヤールは、北京原人のことを、神に近付くために歩く同志だと思ってるみたいな感じだったよね。70万年前に同じことをやってたパイセンだね。発掘当時に感じた傲慢さを見るのではなく。あなたは70万年どんな想いでここに居たのですかと問い掛けたり。
そっか!6年前のそこで自分自身の傲慢さに気付いたってことか!偉大な発見をしてバチカンの鼻を明かしてやる、みたいに思ってた自分の傲慢さに。
科学を突き詰めた者ほど、神の存在に辿り着きがちだもんね。

テイヤールはその後もやっぱり、神に近付いていく道として探求の道を真っ直ぐ前に歩いて行ったんだな。

ピエール・テイヤール・ド・シャルダン著
『現象としての人間』紹介文を引用:
“ 宗教は人間を疎外するという考え方の根本的な修正を迫り、 宗教が人類の真の進歩のためにどんなに大きな刺激となりうるかを、
自らの生き方によって証明しようとした宗教観を彷彿させる。
そこには現代科学の成果が信仰を困難にするどころか、 むしろこれによってキリスト教の信仰内容がいかに深められ、 よく理解できるようになるかの証しに一生を捧げた、テイヤールの姿が大きく浮かび上がってくる。”
(「テイヤールの生涯と仕事」より)

あゝ…もう観れないかな…本ほしいな。
印象に残ってる台詞いろいろある…

オベリスクを巡る会話も象徴的。冒頭テイヤールから投げかけられて、6年後にリュバックが答えてるよね。
「なぜあれに十字架を付けたのか」
「あそこに置くことに決めたからですよ」
北京でテイヤールとリサンも話してる。
「オベリスクを持ち帰った人も、疑問など微塵も感じなかったのでしょうね」
「あなたは発掘した骨ひとつひとつに十字架を刻んだりしないでしょう?」
「もとより刻まれています」

テイヤールが従軍した時の話をリサンに語ったのも印象深い。
「友が命を磨り潰すのを見ていることしかできなかった。出来ることは終油の秘蹟だけ。だから銃を取ることを願い出た。敵を殺めたいと思い、それを口にした」
「好奇心で尋ねるべきことではありませんでした。告解として胸に留めておきます」
「いえ、これは世間話です。そういうことにしておいてください」

モンキートライアルの話。
イエズス会はこういう世論に訴えるような事例が起きれば良いと考えている、ということが、総長とリュバックの会話から分かるね。
こんなことじゃ揺るがないぞ!と言うラグランジュ。
100ドル払ったことで正しさを訴える道が潰えてしまったと嘆くテイヤール。
いいえ、100ドル払ったって考えを変えないことはできるんですからね、あなたのように、と言うリサン。

「腹に蛇を飼ったペンギン」
「蛇とは聞き捨てならない」
「知恵の実はたいそう甘いらしいですからね…(総長のお考えが甘くなるのも致し方ないのでは?)」

「知恵の実を進んで食べたのかもしれませんよ!私のように!」

蛇はさぁ、やっぱ人を唆かして悪に誘うもの=悪魔という認識じゃん。そりゃそんなこと言われたら総長だって内心穏やかじゃないよね。
でも「知恵の実を食べること=悪」じゃなければ…蛇は、神が人に与え給うた探求心の助けとなってくれる者だ。
人はそれで楽園を追われるのではなく、新しい世界へ飛び出して行けるのだ。
すげぇな、この違い。

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