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『スリル・ミー』 思考の森を彷徨って


※ネタバレしています。劇の最終盤、ストーリーとして最大とも言える種明し(?)部分について主に扱った感想です。


成福スリルミーからまだ抜け出せずにいるのだが、東京公演中盤頃の感触で綴ったnote (4/21付「『スリル•ミー』2021」)でひとつ保留にしていたことを書いておこうと思う。

これは2018-19では全く思い着かなかったことなのだが、私が終盤明かす「(眼鏡を)わざと落としたんだよ」というのは実は嘘だという解釈。今ワタシ(※筆者)はこの考えを支持している。3年越しで私に騙されてたわ!という気持ち(笑)。
松岡広大さんがそのように理解しているとどこかで仰っていて、目にした当初は「?」と思ったのだけれど、なるほど確かに「わざと」は私がそう言っただけのことだ。
眼鏡を落としてきてしまったのは偶然だけど、それをきっかけに私は彼と一緒に終身刑になるまでの筋書きを立てた…そう思って観るとなかなか興味深いし合点がいくことも多かったので、この説に乗ってみることにした。
何より面白いのは、ではこの嘘の真意は?という新たな考察ポイントができる点だ。まだまだ考えていこうと思う。


「わざと落としたんだよ」という嘘について。

私は「理由無き殺人なんてみんな信じてるんだから笑えるよ。理由ならちゃんとある。君を僕のものにするためだ。分かってただろ?僕はそれだけを望んでた」と、まるで殺人計画からの全てが自分の意図どおりだったかのように言い、更に、 ふたりで捕まるために眼鏡を「わざと落としたんだよ」と言った。
本当はただズルズルと流されて殺人に加担してしまったのだし、眼鏡を落としたのはたまたま…むしろ自分のミスだったのに。

こんな嘘を言ってしまったのは、私の "弱さ" ゆえだったと思う。
そうとでも思い込まなければ堪えられなかった。
ただズルズルと歩いてて気づいたら戻れなくなっていたなんて、そんな情けない自分を直視できなかった。
ちゃんと意志・意図があったんだ!僕が望んだ通りになったんだ!と、後づけで物語を与え自らを慰め正当化しようとする浅ましさじゃないか。

おそらく私は、服役中に何度も回想と追体験を繰り返しながら、既に自分のそういう言動を悔やみ、恥じているだろう。
あの時ついゲームに勝ちたい欲が出てしまい、「超人」とか「永遠」という言葉を遣って彼を完膚なきまでに叩きのめしてしまったことも後悔していると思う。
なのに…また今、「本当の動機」だの「隠された真実」だのという求めに応じ、それっぽく説明のつく形で話してしまっている。
審理官や世間を納得させる話は、自分自身を納得させる物語でもあった。辻褄を合わせ、そうやって納得できてれば気持ちいいし、カッコつくし。

しかし、私はその虚構を完全に信じ込んでいる訳ではない。自分が後づけで作り上げたものだということは分かってる。
自分は意志的などではなく、愚かで凡庸で、それを直視できないほど弱くて、更に嘘で取り繕ってしまうような小賢しく狡く汚い奴なのだと、ちゃんと自覚してる。
だから苦しい。

そしてまたこれも苦しいのだけど、こんな最低な自分の中に唯一ある美しいものは、彼との「眩しく熱い記憶」なんだよな。これだけは手離したくない。これを失ってしまったら、自分の存在が無になってしまう。
自分のダメさを思った時、あ…彼と同じだ…僕たち似た者同士だったね…なんて、哀しいけど何だか温かさを覚えてしまったりもするんじゃないかな。この温かさに縋りたい。
唯一の、誰かと繋がった記憶。
そもそも僕の正当性=ふたりの世界の正当性だし。彼のことをすっかり忘れて「自由」になるなんて考えられない。もしかして釈放後いつかそんな日が来るのかと思うとむしろ怖い。

観劇後さまざまに思考を巡らせる中で、こんな私の "弱さ" がどうにも刺さってきてしまうのは何故かなぁと、自分の胸に手を当ててみたりする。
自分がとてつもなく大きな世界の中の塵みたいに思えてしまうこと、ちっぽけな自分にせめて星屑の輝きを与えたい見出したいと足掻きたくなる気持ちは、なんとなくわかるような気がする。
「わかる」というのも危い言葉で、お前に何がわかるよ!って言われちゃうかもしれないけど。

2018年に成福ペアで初めて観て以来、ワタシにとって『スリル・ミー』はいろんな意味で「平静を脅かしてくる」作品だと思っている。すごい高揚も緊張も動揺も苦しさも体験する。thrillingであり、日本語で言うスリリングでもあり。
また脅かして欲しい。脅かしてください。
スリル・ミー!


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