見出し画像

『スリル・ミー』 2021

※ネタバレしています。

成福スリルミーが頭から離れない、思考の森の中に居る。
芝居も受け取り方もまた変わっていくのかもしれないが、ここまでで感じていることを。

日本版を堪能

2018-19公演後、ワタシ(筆者)は理解・思考の助けとして原文(英語)戯曲と米版CDを頼った。しかし今期は、成河さんが日本版の言葉や作り方の妙について仰っていたのに影響を受け、翻訳劇であるとはあまり意識せずに日本語歌詞・台詞を味わって観ている。
結果「エモい!エロい!」と連呼して大喜びする羽目になっております(笑)。例を挙げると長いのでリンク先に。→今のところ訳詞でお気に入りな箇所は… 

私の苦悶

初日からずっと胸に刺さっているのが、53歳私(成河私の19歳との行き来は本当にイリュージョン!)が見せる苦悶の表情。踏み止まれなかった、抗えなかったことを悔いている。己の弱さを責めている。
「やさしい炎」での恍惚を知ってしまって以来、私はおそらく34年間ずっと変わらず "依存症" で、その精神状態は《恍惚〜抜け出せない苦しさ〜客観的批判》というレンジの間で絶えず揺れ動いているのだと思う。いっそサイコパスだったらそんなに苦しむこともないだろうに。
ラスト暗転直前の表情が毎回微妙に違うのは、その日その瞬間の私の精神(依存症)状態がそのレンジの間のどこらへんのポイントに位置しているかによる違いなのかもしれない。様々な場合があり、残す余韻も違ってくるのでとてもスリリングだ。ほんのうっすら微笑したのを見た時には「自由」などというものを嘲笑しているように思えたし、大きく肩を落とし絶望に沈んでいったように見えたこともあった。2018には絶叫して終わった日もあったなぁ。

眼鏡を落としたのは…

これは2018-19では全く思い着かなかったことなのだが、私が終盤明かす「(眼鏡を)わざと落としたんだよ」というのは実は嘘だという解釈。今ワタシはこの考えを支持している。3年越しで私に騙されてたわ!という気持ち(笑)。
松岡広大さんがそのように理解しているとどこかで仰っていて、目にした当初は「?」と思ったのだけれど、なるほど確かに「わざと」は私がそう言っただけのことだ。
眼鏡を落としてきてしまったのは偶然だけど、それをきっかけに私は彼と一緒に終身刑になるまでの筋書きを立てた…そう思って観るとなかなか興味深いし合点がいくことも多かったので、この説に乗ってみることにした。
何より面白いのは、ではこの嘘の真意は?という新たな考察ポイントができる点だ。まだまだ考えていこうと思う。

ふたりの関係性

成河私と福士彼には、なんというか非常にリアルな "男の子の友達同士" らしい空気感が垣間見えるなぁとワタシは感じていて、そこが大変好きなのだ。
なんだかんだお互いに(←ここ大事)、ムカつくことも多いけどいちばん気のおけないヤツであり、同じ夢や理想を見る仲間であり、肩を並べたい認めさせたい相手であり、ゲームの好敵手であり…という空気。
ふたりの関係性は互いの羨望とか劣等感とか承認欲とか性愛とかが絡んだ複雑なものではあるが、私が「友情」という言葉を遣ったことに納得もできる気がする。だからこそ現在の私の苦悶も尚更深いように思える。
また、成河さんと福士さんの声の相性がヤバいレベルに良いので、それを聴くと、私と彼が相乗的にエスカレートしていってしまったことが実感できる。ハモりもユニゾンも掛け合いも、あゝもうこんなゾクゾクを味わえちゃうんなら仕方ないよね抗えないよね歯止め効かないよね!と思わざるを得ない気持ち良さだから。あれは "正義" になっちゃうし、もっともっと欲しくなるよ。


さて…また次回観に行ける日を待ち焦がれながら、ワタシはバードウォッチングしたりいろんなお嬢さんと遊んだりして過ごすとしようか(笑)。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?