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(62)川田の渡米②/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
1950(昭和21年)5月、川田晴久と美空ひばりの渡米公演が実現。ハワイで熱烈な歓迎を受けた。6月20日にホノルルを発ち、アメリカ本土サンフランシスコに到着した。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【辛いアメリカ巡業】

アメリカ本土では、サクラメント、ポートランド、スポークン、シアトル、サンノゼ、ロスアンゼルス、モントレー、サンフランシスコなど、西海岸の都市を廻っている。

大歓迎を受けたハワイとはうって変わって、興行は辛いものだったようだ。
ハワイに比べて日系人も少なく、会場は仏教会の集会所などで長時間の車移動や粗末な宿は苦痛を極めた。

『川田晴久と美空ひばりアメリカ公演』に掲載されている、当時の川田の日記を読むだけでも、その過酷さがよくわかる。

 舞台はお寺式教会、テストに二人でやる。ドサ廻りの感あり。期待がそろそろはづれる。老人ばかりで話にならぬ。此れが我等の来たアメリカの第一印象である。先が思いやられる。古い古い型の感じだ。疲れてクタクタ、シスコの夜は更ける。
(六月二一日サンフランシスコ)

 ママやひばりチャンがソロソロ日本に帰りたがり初めた。ハワイの賑やかさが忘れられないのだろう。子供ぢゃ無理もない。此んな処ばかりで仕事していては、みる事も聞く事も勉強にもならない
(六月二五日・サクラメント)

 朝出発。休みだが行程が長い。6:00PM迄何も喰べないで居るとは、ひばりチャンが可哀相うで腹が立った。ドライブ夜の街。毎日毎日忙しい旅で何も出来ない。凄く暑いし又醜く汚ない日本宿でバスルームの汚れている事。働く一方と走る一方でみる事も聞く事も出来ない!!
(六月二六日・フレズノ)

 日本人の汚いホテル。楽士が酷すぎて変な空気に成る程で、ひばりとママ泣き出す。
(六月二九日・ワシントン)

『川田晴久と美空ひばりアメリカ公演』より一部抜粋

川田の娘、和恵さんも本書の中で

 この日記には書かれていませんが、喫茶店に入ったら「イエローはお断りだ」と門前払いを喰ったことや、ツアー・マネージャーのバブ氏がひばりちゃんに嫌がらせをしたこととか、とにかくアメリカ西海岸での話は暗いものばかりでした。

と語る。
川田は幼いひばりをかばいながら、自身の身体を気遣いながら旅を続けていく。

この巡業中、サクラメントでの公演を録音した音源が2012年に発見され、翌年『ひばり&川田 in アメリカ 1950』としてCD化されている。
生の公演の熱気が活き活きと伝わってくる。

これを聴くと、川田のギター伴奏で歌うひばりの歌声も素晴らしく、川田の漫談も客との距離感をうまく取りつつ爆笑を呼ぶプロの技量が感じられ素晴らしい。
客の湧きかたもものすごく、過酷な巡業の中でも素晴らしい公演で人々を魅了していたことがわかる。
養老院を慰問して涙を流して喜んでもらったこともあったそうだ。

サンフランシスコとロサンゼルスではテレビ出演も果たしており、東京新聞にも写真入りで報じられている。

 美空ひばりテレヴィへ
【ハワイ特信】(田井)美空ひばりと川田晴久の当地における人気はすばらしかった、おそらく興行収入の上ではこの二人の挙げた金額が最高であろう、この写真は最近両人がロサンゼルスでテレヴィジョンに出演したときのものである

東京新聞・1950年7月21日

辛い西海岸巡業だったが、その後ロサンゼルスでは川田の念願であったアメリカの喜劇王ボブ・ホープとの対面を果たしている。

『川田晴久と美空ひばりアメリカ公演』に掲載された数多くの写真の中でも一際嬉しそうな川田の笑顔が印象的だ。
日記にも大きく「Bob Hope!! Lucky day!!」と記されている。

美空ひばりはアメリカの天才子役マーガレット・オブライエンと会い、日本人形や振袖をプレゼント。
他にも様々な役者、監督に会ったり、撮影所やショウを見学して、ようやく「アメリカ迄来た甲斐が此で有った」といえる学びのある日々を送ることができた。

7月20日、長く目まぐるしい渡米公演の旅を終えた川田とひばり親子はアメリカを発ち、24日、羽田空港へ帰り着いた。

 アメリカ最後のシスコの夜は霧が深い! 寒い寒い! 明日はハワイへ!!
 出来ることならまだまだアメリカに居て勉強したい。かけ足の様な忙しい旅行であった。
(七月一九日/サンフランシスコ)

川田の日記より/『川田晴久と美空ひばりアメリカ公演』

【帰国公演】


「邦字新聞にぼくが日本のボブ・ホープで、ひばりちゃんが日本のマーガレット・オブライエンだなんて宣伝されて照れましたね」

美空ひばりといっしょにハワイで四十日間、米本土西部で一ヶ月間の巡演を終えて空路帰国した川田晴久が、ギターやウクレレ、化粧カバン、携帯用受信器などをズラリとならべてうれしそうな顔、中にボブ・ホープからもらった大きな写真があり「アメリカのカワダより」とサインがしてある、今度は美空に何が一番うれしかったか、ときくと
「大好きな梅ぼしが食べられないと思っていたら、梅ぼしでもウナギのかば焼きでもなんでもあるのよ、それとオブライエンちゃんに会えたこと」

だが、羽田飛行場へ着いたのが真夜中の廿四日午前零時廿六分でその晩は木挽町の旅館で家族と語り明かし、たちまち抜目のない松竹の注文でねむい眼をこすりながら炎天下をオープン自動車に乗せられ正午から芝大門を振出しに浅草、上野、新宿、銀座と四時ごろまで行進や直営館ごあいさつにひっぱりまわされ
夕方の歓迎会を終りクタクタに疲れてやっとわが家へ帰ったのが二人とも十時近く、人気者もなかなか楽ではない

東京新聞・1950年7月26日

帰国すると早速、二人はオープンカーで銀座通りを通って浅草まで凱旋。
都内各地の松竹系劇場で帰国挨拶を行った。

そして8月1日からは国際劇場で「アメリカ珍道中」と題し、アメリカ土産の公演を行なっている。
渡米には同行できなかったダイナ・ブラザースも共演。

東京新聞・1950年7月29日

12日からは映画「東京キッド」の撮影も開始したが、撮影中に体調が悪化し、ロケを中断して治療。
長く過酷な渡米の疲れが出たのだろうか。

 命がけで撮影

川田晴久は「東京キッド」の撮影中、大船の宿屋で一日小便がつまってしまった、もともと死をまぬかれた体なので当人も会社もこれは大変と思ったほど一時は苦しんだが手当の結果ようやく全快、撮り残しのロケーションが中止になった程度でどうやら完成したが、川田いわく「これからオレの仕事はまた命がけだ……」

東京新聞・1950年8月31日

映画は9月9日から無事に公開され、川田が監督したハワイロケの映像も挿入されている。

東京新聞・1950年9月7日

10月9日にはラジオ寄席で「十八分のアメリカ一周」を放送。

その直後にはボブ・ホープが国連軍慰問のため来日し、10月18日にはアーニーパイル劇場(東京宝塚劇場がGHQに接収され改称)で公演。
進駐軍の将兵たちが行列を作って押しかけた。

このとき日本側からのゲストとして、灰田勝彦とともに川田が出演。
川田はボブ・ホープと「ボタンとリボン」を合唱して会場の人気をさらったと報じられている。


【参考文献】
『川田晴久と美空ひばりアメリカ公演』橋本治・岡村和恵/中央公論新社/2003
『ひばり&川田inアメリカ1950』日本コロムビア/2013(CD)
東京新聞/東京新聞社


(次回4/14)あきれたぼういずの渡米

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