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(40)新興での旗上げ公演/あきれたぼういず活動記

前回のあらすじ)
新興キネマ演芸部に移籍した坊屋三郎・益田喜頓・芝利英の三人は、山茶花究を加えて再始動することになった。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【旗上げ公演】

新興キネマ演芸部では、4月29日から京都松竹劇場で旗上げ公演を行おうと準備を進めていた。
しかし、吉本興業側は「契約不履行」を理由に、移籍した芸人達の出演を中止する申請を裁判所へ提出。
逆に新興キネマ側も吉本を相手取り、「演芸興行妨害禁止請求」の仮処分申請。
お互いに訴え合い、裁判問題にもつれ込んだまま、公演予定日直前になっていた。

最終的には京都府保安課が間に入り、27、28日に両社から事情を聴取。
そして「今後一切引き抜きを行わない」「公演期間を3日間に短縮する」とう条件で新興演芸部の旗上げ公演を行うことになった。

京都日日新聞/1939年4月29日

公演当日の朝。
四人がタクシーで京都松竹劇場へ到着すると、話題の面々を見ようと詰めかけた客が劇場を取り巻いてすごい熱気だ。
ところが、劇場に入って客席をのぞくと、シーンとしている。
客席の前2列は、すべて私服警官で埋められ、その他の席も定員以上は入れないとのこと。万全の警戒体制が敷かれていた。

 兎も角楽屋へ行こうと思って、階段を登ったが足が調子よく上へあがらない。十二段ほどの階段を登って楽屋へ入ったら、坊屋三郎と芝利英が化粧を始めていた。山茶花究は備付けのお茶を呑んでいた。こんなときにこそ人の気持ちはよくわかるもんだ。小柄な坊屋は落付いて化粧してるが、芝利英は何となく調子はずれの鼻声で歌っていた。山茶花究が一番度胸がいいようにみえた。

益田喜頓/『乞食のナポ:喜頓短篇集』

「撃たれるなら、最初に出てくる坊屋だよ」「いや、一人目で狙いを定めて、二人目か三人目あたりが怪しい」「じゃあ、お前の弟だよ」「いや、警官もホッと安心して油断したとき、つまり四人目が最も危ない」などと冗談を言い合いつつ、皆、内心気が気ではなかったという。

物々しい空気の中、9時ちょうど、いよいよ旗上げ公演が幕を開けた。

あきれたぼういずの出番は開演から一時間ほど後。
ギターを提げて、坊屋、山茶花、芝、益田と背の順にステージに現れると、迎えたのはピストルを持った悪漢……ではなく、割れんばかりの拍手喝采だった。
観客は温かかった。どこに移籍してどう揉めようと、よいステージが観られれば喜んでくれた。

四人は、楽屋での不安も忘れ、京都の客の熱意に応えた。
ネタは結成当初からの十八番、「ダイナ狂騒曲」。

アンコールを求める拍手まで起こり、大好評のうちに幕は下りた。
楽屋に戻ると坊屋が一言。
「今日ピストル忘れてきたらしいワ」

旗上げ直後のステージ写真/『スタア』1939年7月上旬号

【旗上げ公演評】

5月6日の京都日日新聞紙面では、「キネマ旬報」や「映画ファン」の芸能記者達が集い、この旗挙げ公演の批評会を行っている。
スタッフの不足、特にショウ全体を監修できるような作家がいないことを指摘してはいるが、
僅かな期間に、これだけのメンバーを揃え、ここまでの舞台にまとめただけでも大変な努力だ」(依田義賢/新興脚本部)と好意的な評価である。

あきれたぼういずに関しては、「(山茶花究は)ディック・ミネを歌ったり活弁をやったり、僕は北野劇場で見ているが器用な男です、今後日と共に四人のチーム・ワークもとれ、川田義雄とまた異ったよさが生かされて来るでしょう、次々と気のきいた新作を発表してほしい」(村上忠久/キネマ旬報)等、メンバーチェンジを前向きに捉え、新たなカラーを打ち出していってほしいという期待の眼差しが向けられている。

村上  何にしても、全員旗挙げのハリキリ舞台は大いに好感が持てる、併し、第八景で映画「スイングの女王」の計算のギャグをそのまま用いているような安易な態度は困る、僕等のあきれた・ボーイズに対する評価なり期待なりはもっと大きいんだから……

「ダイナ狂騒曲・あきれたボーイズは愉し」京都日日新聞/1939年5月6日

旗上げ公演は3日間との約束通り、フルメンバーでの公演は5月1日までの3日間。
5月2日以降はワカナ・一郎をはじめとした吉本出身の漫才師達は出演を控えている。
しかし加入時期のズレが関係しているのか、あきれたぼういずは引き続き出演している。

『スタア』1939年7月上旬号

【しんこうぼういず】

5月13日、府保安課からの通達があり、坊屋、益田、芝の三人にもワカナ・一郎らと同様、出演不可が申し渡された。
そこで15日からの公演には山茶花のみが出演。
山茶花のほか、大竹タモツ、中村弘高、石井弘、伴淳三郎らが組み、「しんこうぼういず」と称して「われらの楽園」というショウをやっている。

京都日日新聞/1939年5月15日

この「しんこうぼういず」、あきれたぼういずが出演不可になったので用意した急拵えの企画かと思いきや、そうでもないらしい。

新興側は、早くから川田の代理(山茶花)を用意する一方で、川田加入の線も諦めてはいなかった。
もし、川田が新興演芸部へ加入してきた場合には、あきれたぼういずは今まで通りのメンバーで活動する一方、山茶花は別に活動させられるプランを用意していたのだ。
これが、思わぬ形で役立ったものと思われる。

坊屋  僕達は川田さんが来てくれるものとばかり思っていたので、山茶花君にもあらかじめ川田さんが来た場合身を引いてくれるという内諾を得ておいたんです
記者  もし、川田さんが行った場合、山茶花君はどうなるんです
坊屋  山茶花君の立場を困らしては悪いので、新興演芸部では一本立てで舞台に出られるようなプランを立てておりました

『明朗ユーモア座談会(11)』都新聞/1940年8月27日

公演のかたわら、松竹・新興キネマ対東宝・吉本興業の引き抜きを巡る抗争はヒートアップする一方だったが、最終的には警察が間に入って収束した。

坊屋ら三人もようやく、安心して新興演芸部のステージに立てるようになった。


【参考文献】
『乞食のナポ:喜頓短篇集』益田喜頓/六芸書房/1967
『キートンの浅草ばなし』益田喜頓/読売新聞社/1986
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『スタア』1939年7月上旬号
「都新聞」/都新聞社
「京都日日新聞」/京都日日新聞社


(次回11/12)川田も再始動!

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