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【普通とは何だろう?】佐渡島庸平×石川善樹 #コルクラボの温度

こんにちは!『コルクラボの温度』note編集部員のくりむーです!

今回は、感情ミーティングシリーズの第7弾。
コルクの佐渡島庸平(サディ)が、友人であり予防医学研究者である石川善樹さんと、平野啓一郎さんの小説『ある男』について語る「『驚き』について(1/3)」をお届けします。

――「普通」とは?
――「普通でありたい」「普通でありたくない」思いとは?

「普通である」=「全体の一部である」という考え方に基づき、発想を広げていく。

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(これってどんなnote?)コミュニティを学ぶコミュニティ「コルクラボ」のメンバーが運営している音声番組「コルクラボの温度」。PodcastやVoicyでコミュニティやコルクラボに関することを配信しています。noteでは、「コルクラボの温度」で配信した音声の記事化、その他関連情報などをお送りしていきます。

(今回はどんな記事?)1月25日にPodcastやVoicyで配信した内容を、テキストにしてご紹介します!

▼音声(Voicy)

▼音声(コルクラボの温度 公式サイト)

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『普通』になれたら楽なのに?

石川:まず、続きを読むのが待ちきれないっていう経験をしたね。

サディ:先が気になるよね。

石川:一気に読んだ。たぶん、良い小説ってそういうものだと思うんだよね。

サディ:うんうん。

石川:なんでそんなに読めたのかなって考えると、小説そのものの良さもあるけど、事前に佐渡島くんから、この小説のテーマを聞いてたのは、すごく良くて。

「男ってのは、非凡で特別な存在になりたいと思うものなんだけど、あえて普通になりたいと思う男の悲しさを描いてるんだ」っていう。それって、どういうことなんだろう?って。

例えば、自分の経験と照らし合わせると、『どもり』があるのね。

サディ:そういえば、確かにどもるときあるよね。

石川:実は、(俺が)どもりであるって自覚的になったのって超最近。伊藤亜紗さん(『どもる体』著者)っていう、どもりの研究をしてる人がいて、その人自身もどもり。どもりって、隠すのがうまくなるって側面もあって、そういう人たちを隠れキリシタンならぬ、隠れ吃音っていうらしく(笑)自分はまさにそれだなと。

俺は、どもりでよかったなと思うことも結構多い。直接、その言葉を言えないから、言い換える。だから、言い換えの能力がすごくついたなっていう想いもある。

でも、困ることもいっぱいあって。例えば、どもると「アイウエオ」が言えなくなるから、電話で自分の名前が言えない。電話って緊張するから、レストランの予約とかできないんだよね。あと、ホテルの受付でチェックインする時に「お名前は?」って聞かれて、名刺を出す(笑)。

そういうことを思い出すと、『普通』になったら楽なのにって。

サディ:うんうん。

石川:でも、どもりがなくなったら、今の自分でもなくなるなって。

「普通でありたい」か「特別でありたい」か

石川:この本を読んで、すごく考えたのが「『普通』ってなんだろう?」ってこと。「『普通』とか『特別』ってなんだろう?」をすごく考えて、突き詰めると、「個人ってなんだろう?」って話だと思った。

もしかすると、平野さんの『分人主義』の根底に「個人とは何なのか?」っていう問いがあるのかなと。その周辺にある『普通』や『特別』について考えてる人なのかなって思った。

あと、この本を読み終わって『普通になりたい男の悲しみ』がどういうことなのかって考えて。「全体に対して、自分が小さな部分である」っていう認識は、『普通』である悲しみ、辛さなのかなって思った。

サディ:個性的でありたいと思うけどねえ。

石川:そう。これって何に近いかっていうと、選挙する時に「自分が一票投じても意味ない」っていう感覚だよね。全体に対して部分だから、「自分の一票で世界は変わんねえよ」っていう。

部分だとしても「代表している」なら幸せ

石川:だけど、別の考え方もできる。「自分は全体を代表している日本国民である」っていう責任と役割を果たす代表的行為が投票である、という考えもできるじゃん。自分が所属する集団なり、コミュニティなりを「代表しているんだ!」っていう感覚をもつと、特別感が出てくると思う。例えば何か結果を出してる人とか、会長とか社長の人とかは、代表感が出てくる。

『ある男』は、「自分は部分ではなく、代表として日々生きてる」っていう感覚に、最後はなった気がする。「自分は結婚して、家族を代表してる」っていうね。『普通』でありたいっていう思いは『部分』という発想だと悲しいけど、最後は「『普通』であるんだけど、実は代表してるんだ」っていう感覚になれて、幸せだったんじゃないの。

「動いている流れの一部」なら意味づけができる

サディ:物理とかで、止まってるものを観測してると、いつまでも観測できないけど、動いてるといつまでも観測できるっていうのあるじゃん。状態を止まってるものとして見てる、つまり止まってるところに所属していると、部分であることは辛いんじゃないかな。

昨日ね、コルクラボで、東畑開人さんの『野の医者は笑う』を読んだメンバーのまとめみたいなテーマで「癒されるとは何か?」を話した。その時、「自分が大きい流れの中の一部であることは癒される」という話になった。大きな全体の一部であることは、悲しみであり、普通であり、嫌なんだけど、これが動いている状態、躍動感のある状態の中の一部だと感じられると、自分が部分であることが意味づけされるんだよね。動き続けるためには、自分も止まっていられないから。

石川:たしかに。

サディ:物事を理解しようとする時に、いつも止めるじゃん。止めて理解しようとした瞬間に、理解できなくなるってことが、感情においてもあるんじゃないかなと思ってて、部分であることの喜びと悲しみが対立するのは、時間軸について話されてないからじゃないかと思ってるんだよね。

石川:世の中っていうと大きすぎるかもしれないけど、世の中のムーブメントの一部である、部分であるっていう感覚は、癒されるってことだよね。

サディ:そうそう。

石川:それは、代表的なムーブメントであるからな気がするね。

代表であり、動いている流れの一部であること

サディ:そうだね。面白いなって思うのは、俺が講談社に入った時に、誰かに言われたんだよ。「もしも、講談社の過去のものが好きなんだったら、読者でいいよ。それを更新するために、講談社に入ったわけでしょ?」って。真似しちゃダメだし、ある種、否定していかないといけないんだなと思って。社員が1000人いようとも、俺が新入社員でも、「俺が講談社だ」って思った。俺の能力が成功を生み出したんじゃなくて、「俺が講談社だ」っていう気持ちで仕事したってことが、成功を生み出したんだと思う

その後、コルクでは、みんなに割と自由にお金と機会がある状態にしている。行動することによって一人一人が、「自分がコルクをつくり上げてる!」「コルクは佐渡島がやった小さいベンチャーだったけど、大きくしたのは、俺だ!私だ!」って、講談社よりも言いやすいはずなんだよ。

だって、講談社は、俺が辞めた次の年ぐらいに『進撃の巨人』が超当たってさ、利益がむちゃくちゃ伸びたりして、「結局、俺がいない方が利益出てるじゃん」っていう状態。でもコルクなら、「自分がいなくなったら、利益ほとんどなくなった」っていう状態がつくれるから、自分が全体を代表してるってことになりやすい。

同時に、コルクラボが面白いなって思うのが、みんなが働いている会社の代表、っていう感じにはなかなかならないんだけど、みんなのツイッターとかの発言を見ていると、「コルクラボは自分がつくり上げてる」っていう感覚を結構持って発言してる。「自分が代表してる」って思えるってことが、自分に居場所があるってことだと思う。

だから、『ある男』っていうのもさ、城戸っていう弁護士は、社会的地位だったり、夫婦だったり、そういうものを手に入れたんだけど、自分の社会的居場所が見つけられないっていう状態。見つけたと思ったら、倦怠期みたいになっちゃって、仕事もつまんなくなっちゃって、居場所だと思ってた場所が居場所じゃなくて、「どうなればいんだろう?」っていう宙ぶらりんな状況であると。

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関連リンク

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各種担当者

●文字起こし:ゆっきー

●編集:くりむー

●投稿:とっちー

編集後記

今回は、とてもとても好評でファンの多いコンテンツ、サディと善樹さんの抽象度高い会話をテキストに起こしてみました! テキストもいいけれど、音声で聞くととてもとても発見が多いので、聞いたことのない方はぜひ聞いてみてほしいです。聴きたい方はこちら。(とっちー)

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