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「正しいけど、つまらない」 -HCD/UXD/SD教育の現場から-

元号が変わった令和元年も、もうすぐ新しい年へと向かおうとしている。
振り返ってみると、今年一年は過去数年と比べてもひときわ様々な属性、経験、年代のひとびとにデザイン教育の現場で向き合う機会が多い一年になった。
自身が末席理事を拝命している特定非営利活動法人人間中心設計推進機構(HCD-Net)において昨年から教育事業を担当したということも関係しているのかもしれないが、幅広いひとたちとデザインという視点を通して物事を考え、かたちにしていくということはどういうことなのか?を考える機会がたくさん持てたことは、自身にとってもこれまでの考えや理解を捉え直す(ときには自己批判的に)契機となる貴重な時間だった。

先日、ペルソナについての個人的な考えをこのnoteに書いたが、ペルソナの他にも、HCDやUXデザイン、サービスデザインを学び、実践的に取り組み始めてしばらく経った方の多くが、理解し手法としては使えるようになったにも関わらず、それらのデザインプロセスを手間をかけて行うことにあまりピンとこない、と感じることは結構たくさんあるのだなぁ、ということをデザイン教育の現場で痛感している。
そのひとつが、『価値』について考えることだ。
HCD的なデザインプロセスにおいては、あるテーマや製品・サービスへの期待に関する探索的な調査などを通して得られた一次情報である事実(ファクト)を解釈・分析し、文脈情報や背景情報を深く理解していないひとでも”正しく”期待価値や現状の未充足を理解できる状態にするために、価値抽出を行ったうえで価値の全体像を明文化・可視化するための方法が用いられる。
そのような価値抽出方法のひとつがGTA法(Grounded Theory Approach Method)であり、GTA法をより実務的に扱いやすくした方法論としてKA法が挙げられる。
KA法は千葉工業大学の安藤昌也先生らの熱心な教育、ご啓蒙のおかげもあり、デザインを学ぶひとや、実務家の間で近年手法論の理解と実戦経験をもつひとも増えつつあるので本稿では詳しい説明は割愛するが、このような手法を用いることは、調査対象者の発話や行動など、複雑な文脈的意味を含んだ一次情報を本質的な『価値』のかたちへと変換を行うことで、誰が見ても解釈がぶれないようにでき、複数のひとたちがそれらの価値に向き合いながら問題解決や新しい提案に関するアイデアを共創的に発想していくプロセスを実現できるという点で、リサーチからデザイン対象を定義するステップへの非常に有効な橋渡しとなる。
同時に、経験がある方ならおわかりだと思うが、複数の調査協力者へのデプスインタビューなどによる探索的調査を通して得られる膨大な一次情報から、上述のKA法などの手法を用いて重要な『価値』を抽出し、さらにそのようにして抽出された『価値』を構造化したり、意味の可視化をしながら統合価値マップの状態に可視化していく作業は大変骨の折れるものである。
きちんと調査して得られた事実を使って、重要であろうことを分析・言語化して価値の状態に落とし込み、構造化して価値の全体像として整理しているので、客観的かつ論理的な道のりを経てで妥当なものになっているはずなのに、なんだか納得感が持てず、感情移入が湧いてこない、という相談を受けることが少なくない。
きちんと調査して得られた事実を使って、重要であろうことを分析・言語化して価値の状態に落とし込み、構造化して価値の全体像として整理しているので、客観的かつ論理的な道のりを経た正しいものになっているはずなのに、なんだか納得感が持てず、感情移入が湧いてこない、という悩みである。
そのようなひとたちの悩みを拝聴しつつ、彼ら、彼女らと演習的にこれらの手順を一緒にやってみる中で気づいたことがひとつある。
それは、いわゆる「ピンとこない」抽出された価値や統合価値マップは

「正しいけど、つまらない」

のである。

GTAであれKA法であれ、価値抽出においてやることはただひとつ。
文脈的な具象情報の抽象化である。
つまり、ある特徴的に見受けられる発言や行動の前後の経緯や、調査協力者の奥深くに潜んでいる考えや価値観などの複雑な文脈をもった事実(ファクト)から、それらの質的な文脈情報を剥ぎ取ることによって結局何が重要なことなのか?を捉えやすくする作業といえる。
具体的な例を挙げると、新車に乗ったときの第一印象を調査協力者に聞いたとき、そのひとが

「とてもドキドキしました」

と言ったとしよう。

その発言、つまり具体情報が、恐怖や不安を背景にもった「ドキドキ」なのか?それとも新しい未知の体験へのワクワクする気持ちを背景にもった「ドキドキ」なのか?を、その会話の現場にいなかったひとたちにも端的に理解できるように、抽象度をあげた価値表現へと変換することなのである。
この一連の手順をKA法では、「事実」から「心の声」へ、そして「価値」への変換と呼び、具体的な事実から2段階で抽象度をあげることで、特定の状況や環境下でしか成立しない具体情報を一般化するのである。
ここで重要なことは、「一般化」であり、「普遍化」でない、ということだ。
一般と普遍の違いを上述の新車体験の例を用いて考えてみよう。

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例えば、「とてもドキドキしました」という発言が不安や恐怖を背景にもつ場合の心の声を

「慣れない操作感で不安。思わず事故りそうになった。。。スイッチやボタンなんかは車種が変わっても迷わないように大体統一しておいてほしい!」

としよう。この場合の心の声が欲する期待や価値は

「常に間違う心配がなく安心していられる価値」

「自ら新しい事を習得する努力をせずとも(周りが)合わせてくれる価値」

のようになるかもしれない。
これが、価値の「一般化」である。
では、「普遍化」を意識して変換するとどうなるか?たとえば、

「安全で安心な価値」

「不安のない価値」

のようになるのではないだろうか。
一見すると前述の一般化の例と、普遍化の例は、価値として同じような表現に見えるかもしれない。
しかし、大きな違いがある。
それは、前者(一般化)にはその調査協力者がこの発言をするに至った固有の文脈的な”意味”がきちんと残されているのに対して、後者(普遍化)ではその固有の”意味”が消失している、という相違点である。
さきに書いたような「よく分析され、整理されているけれどもピンとこない価値や統合価値マップ」の多くは、価値の捉え方を普遍化しすぎてしまっているのではないだろうか?(もしくは、そもそも抽象度を全く上げられていないために、「運転操作に戸惑うことがない価値」のようにコンテクストを剥がしきれておらず、特定の状況や環境でしか成立しないレベルに留まっているか、である。)
探索しているテーマやひとに固有の意味を希釈化しすぎると、重要なこだわりや譲れないことは何なのか?すら薄まってしまい、間違っていないけれども意味的に捉えどころがない「正しいけど、つまらない」価値が目の前に並んでしまうのである。そして、そのような価値群をいくら構造化したところで、よく整理されていてわかりやすいが、結局何が大事なことなのか、さっぱり腑に落ちてこない価値マップが出来上がるのである。
とは言え、このような深い解釈を行うことは決して簡単なことではないことは言わずもがなでもある。
重要に感じられる具象・具体情報の背後に何が潜んでいるのか?他の発言や行動、習慣とどのような点でつながっているのか、もしくはつながっていないのか?を俯瞰的かつ深いレベルで解釈し、意味を見出すための経験と訓練、そして少しばかりのセンスと、不確実ではあるが光る可能性を強い意思をもって選び採る勇気が問われるからだ。
これが、手法論を理解・習得し、正しく手順どおりに丁寧にやるだけでは足りない、ということなのである。
誤解を恐れずに言うなら、一見やりすぎと思える範囲やレベルまで情報を集め、つなげ、意味を見出したうえで潔く一般化する行為こそが、デザイン的に物事を考えるうえで欠かせないひとつの姿勢であるのかもしれない。
そんなことを考えていると、以前ある批評誌で読んだ高畑勲さんが大切にされていた「作品の根っこ」に関する考え方のエピソードを思い出した。
このエピソードについては、また機会があれば別の機会に。

思い返せば、今年もこんな感じで特に答えのない堂々巡りの自問自答ばかりしていた一年だったように思う。
けれども、ハッキリした答えがあることばっかりだとつまらないし、常に自分に自信が持てないこそただひたすら考え続ける、という楽しみがあることは、なんて素敵なことなんだろう、と自分に言い聞かせながら慌ただしかった一年を心穏やかに結んでいこうと思います。
どうぞ、よい年末年始を。

【参考音源(ウソ)】正しいけどつまらない
  by  吾妻光良 & The Swinging Boppers
  https://www.amazon.co.jp/dp/B07R58VHG7/ref=dm_ws_tlw_trk9


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