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作り手の時間と受け手の時間、演劇の時間。あるいはデザイン系noteユーザーが教えてくれたこと。

舞台公演を観て、一度で理解できることがありません。(あっ!やめて!バカって言わないで!)

終演後楽屋挨拶や、感想文(Twitter&note)でバシッとキマることがありません。鮮やかな言葉でスパッと行くことができません。

感想を書こうと思ったら

理解してキッチリ記そうと思ったら、最低でも3ステージ観ないとまとまらないし、だけど余程のお気に入りでないと複数回の観劇には至らないし。

お気に入りの舞台であったとして、感想文を書くまでに私が確認したいものをパッと書き出すと以下の通り。

◎全体像・世界観
◎ストーリー・脚本
◎役者・演技
◎演出家・演出
◎衣裳・ヘアメイク
◎美術・照明・音響
◎小ネタ・ツッコミポイント

うん、舞台を構成するほぼすべての要素だねぇ。「全体像を把握した上」で「舞台を構成するほぼすべての要素」を「パーツごとにじっくり観察したい」「集中してひとつひとつ分析したい」という具合。

各セクションの仕事っぷりを堪能したいじゃない。

正直、3ステ観たとして、それでも追いかけきれません。追いきれないし受け取ったものを咀嚼することも難しい。そして、毎度、くやしい思いをするのです。

くやしい思い、その理由

作り手の時間と受け手の時間、ひとつの作品をめぐる時間感覚の違い。かけ離れていること。

作り手が数ヶ月(場合によっては年単位)を費やし、深め、作り上げた世界を、受け手はわずかな時間で受け取らねばならない。刹那的であることの魅力といえば聞こえはいいのですが……そんな綺麗なもんじゃないから!

どういうことか、簡単に。

1ステ(90~120分と仮定して)の中で先述の全部の要素は把握できないよ。世界観、ストーリーの全体像、お気に入りの役者チェック程度が限界。

結果的に終演直後の私の頭の中は「なんかよかった、しあわせ。」か「好きじゃない、疲れた。」のどちらかです。阿呆っぽいけど本当にそれだけ。

盛り過ぎ舞台は誰のため?

脚本や演出の熱意のため(ということにしておく)盛り過ぎた舞台を観ると途中で嫌になります。途中どころか序盤でもう退席したい。できないんだけど。

盛り込めばいいってもんじゃあない。

これは私が音にも光にも情報量にも動きにも反応しやすいタイプだからかもしれません。刺激が多過ぎ・処理しなくてはいけない情報量が多過ぎて、短時間で対処・処理できない。しかも実際は観劇をしながらという同時進行になる。時に一方的が過ぎ暴力的な公演と感じてしまう。退席したい。

ボリュームもスピードも違う

作り手側に流れている時間と受け手に流れている時間は違うし、だから時間の流れる速さもまるで違う。それに気付いていない人、そこに目を向けない団体が思いのほか多い。

さようならばしかたがない

それが自分の、それがウチの表現だって言われてしまえば「左様ですか、さようなら。」と言うだけ。さようなら。

ものづくりには欠かせない、引き算の大切さ、捨てる勇気。

特にはエンタメ界隈で遭遇するのですけれど、引き算できない作家とか演出家。エンタメ=けばけばしいではないよ、と。大きく育っている団体(たとえば先日お話した少年社中だとか)はこの辺りの引き算が圧倒的に巧い。

宣伝美術でも、デザインのクオリティを高く維持するためには捨てる勇気が大切なんだけど、それと同じ。捨てる決断、切る勇気。……この話、長くなるから機会を改めよう。

受け手がどんな感覚でいるか

ともかく、作り手と受け手では時間の感覚がまるで違います。

作り手として活動している時には、つらいこと苦しいことがあったとしても、なんとも愛おしく、かけがえのない時間を紡ぐという形になるのですが、受け手として作品世界に触れる折には、1ステージ、その時がすべて!ガンッと行ってグイッと乗り掛かってガツッと掴むみたいな、ね、戦いです。

超短期決戦。
超短時間決戦。

束の間に、どんなことを感じられるか、どんな風に心が動くか、どんなことを考えるか、どんな風に楽しめるか。

だから観る側からしたらどうしたって期待せずにはいられないし「絶対に何かを得てやる!」というような思いも少なからずあると思うのです。

結果、観察や考察などに至らずとも、終演後になんだか幸せな気分になるだとか、満足できたらそれだけで万々歳。期待しているからといって、ハードルが高いわけでもない。

どちらの感覚も知っているということ

私の場合は、そういった感覚をどちらに偏るでもなく知っているので、自分が携わる舞台は作り手も受け手も時間を共有できるような、無理をせずに歩み寄れるようなペースを作れたらいいな、なんて。

夢想だろうか、理想です。

理想に近づくにはどうしたらよいか。今のところは「コミュニケーション」しか思いつかない。自分の手の届く範囲のひとりひとりから。知りたいし知って欲しい。時間の感覚(の話)を共有したい。きっとすごく難しいことだと思うんだけど、無理ではないと思うんだ。

デザイン系noteユーザーから教えてもらったこと

noteで記事を書くようになって……特にデザイン的な話をするようになって確信した部分もある。

やさしい場所はつくれる。

発信する側の思いだけでもダメ、受信する側の思いだけでもダメ。双方が「相手を受け入れる力」を持ち「相手を敬う気持ち」を持ち「相手を尊重する姿勢」を持つ。また「有名だから・無名だから」「作り手だから・受け手だから」などと線を引くことなく、引け目を感じることなく、まっすぐに受け止める。あるいはまっすぐに投げ返す。ひとりひとりがそれを繰り返し、やさしい場がつくられる。うん。無理ではないと思うんだ。

演劇の人も、デザインの人も。

今この記事を読んでくださっているあなたは、どんな立場にあって、どんな目線で、時間の速さをどんな風に感じているのでしょうか。

いつか、こっそりとでも、お聞かせいただけましたらうれしいです。

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