白杖使用者の日常―外出・買い物時に起こる不思議

我々にとっては不思議なことでもなんでもないのだが、外側から見ると、白杖使用・視覚障碍というと=見えない、周囲の状況はわからない、という印象があるだろうので、矛盾や不思議、どうなっているのだろうかと、特にサポートしようと見守って下さっている人たちには感じられるかもしれない(というより、私自身でも私自身の行動に未だ矛盾と違和感を感じてしまっている)と思ったことらを、つらつらと綴ってみようかと思う。

まずは最初に、私の現状としての、外出時の状態を。
ここからして、視覚や視覚認識に障碍を持つ人それぞれに全く違うものである。

私は、何にしても「見る・見ようとする」こと自体にかなりの集中力と労力を必要とするため、日常における実際としては視野も視力もあまり発揮できる状態ではない。かなりの労力と集中力を発揮すれば、見ようとしたものや見るべきものを認識することは不可能ではないが、それ以外のものは見えない(見る余裕がない)し、それも、後々心身共に倒れても良いような場合であると表現しておいた方が良い。
また、朝早くや午前中はまだ負担をかけられるが、午後になるともう疲れ切っておりほとんど使えない。光や動体の刺激自体が負担となり眼痛・頭痛に直結するため、無理をかければ体調不良に繋がる。日によっては、午前中でも起きて活動を始めて2,3時間後にはあっという間につらくなり勝手に閉眼状態が起きてしまうような日もある。
そのため、本当にその日に必要な事務作業の容量を決め、時間を区切り、朝一番に片付け(これもかなりの工夫が必要になっている…ということは、以前の記事の方が詳しく書いたが)、その他の日常の生活、外出に至るまで、ほとんど閉眼状態になる。
料理や外出まで閉眼か、というと、危険な印象を持たれそうだが、これは現状もうそうなってしまう(そちらに解離で無理をかけている余裕はない)上、例えある程度視覚認識機能を働かせようと奮闘しても、そもそも事務作業でさえかなりの工夫が必要な状態であるので、逆に中途半端に視覚に頼ろうとしてしまい逆に危険度が高い。更に言えば閉眼状態の方が全身のアンテナを張ることができる分、周囲の情報を察知しやすいし、頭や機転も利き、身体も精神状態も楽である。それほど開眼状態が苦痛なのだという捉えられ方をされてしまっても構わない。
私の場合、脳の視覚認識の問題やら精神障碍(解離)の問題やらが複雑に絡み合った結果で起こっていることである上、実質日常の状態としては、どうやら眼球使用困難症に(外側から見える状態は)近いようだ。

さて、そんな状態の私が外出をする時。
私は、ある程度視覚情報を入れていた時期も(解離で)あれば、事務作業をしているような時に少々の調べ物をしたり地図をゆっくりと眺めたりすることはあるため、しかももう10年以上ここに住んでいるだけのことはあり、案外店の場所なども知っている。
しかも、友人関係などで何度か連れ立ったりして何度か行った店は、覚えている店も案外多い。

しかし、白杖使用者のなかなか気付いてもらいにくい点かもしれないと勝手に思ってしまっているのだが、店の場所はわかる。頭の中では知っている。だから、「だいたいその辺り」までは、独りで行くことができたりする。
ただ…その店のほぼ真ん前で(とは限らないが)、大抵迷っている。
店の正確な位置はわからないので、その場所まで行ってから、現地を探すことができないという、ある種不可解な現象が起きる。
場所は知っているしそこまで行けるのに、店の場所を特定することができない不思議。
迷いなくすたすたとその場所まで歩き、その場所(しかも実は店の前だったりする…)まで行って突然立ち往生し、どうしたらいいかわからなくなる。
横断歩道と歩道の角のところにあるとか、余程特徴的な立地の店や、自動販売機が横に立っていて数段階段があるとか(実は通院先の建物がそうなのだが)、要するに触覚的な特徴があれば何とか見つけることができるのだが、そうでない場合、私はまったくわからない。
道路を伝って行っていろいろな建物が連立している…その建物の敷地の違いや、敷地の切り替わりなど、白杖を使っておられる他の方々はどうやっているのだろうか、少なくとも私にはまったくわからない。
せっかく知っている店でも、扉や自動ドアの閉まっている店などでは、歩道の途中にある店は独りで向かうことができない。
現地周辺で迷って立ち往生してしまうことが不安で、結局でかけることをやめることも多い。

買い物に関しても、先日も記事にしてみたが、単独での買い物はやはりどうしても閉眼状態であったり視界が飛んでいる状態では不可能だ。
逐一手探りするわけにはいかないから…(そうしても大抵パッケージにくるまれているし値札は墨字であるから何も判別できなくなってしまう)。
しかし、とにかく見るのには時間がかかる。
しかし、一度覚えた商品の「場所」は、覚えている。というより、逆に言えば、場所を覚えている商品にしか辿り着くことができないので、目当ての商品は確実に決めてリスト化して狙って行かなければ(そのリストを例え点字化して持って行っても、実際その場で立って物を持ちながらでは読めなかったりするのだが……)、買い出しはできない。
そのため、商品棚には案外ひとりで、まるで見えているかのようにすたすた行ったりするのだが、その棚の前で立ち往生…。
視覚機能を駆使している時であっても、視覚で商品を探すととてつもない時間がかかる上に疲労が込んで途中でもはや使えなくなってしまう(下手をすると頭痛や吐き気などの体調不良で立ち止まってしまう)ため、手探り状態となる。
その商品のパッケージを確認したり値札を確認したりすることに(いや、そもそも値札がどこにあるのか見つけるだけでも)、何分もかけることになる。
それでいながら、次の商品棚のところまではまたすたすた…(実はこういう時は閉眼状態であったりすらする)。
視覚障碍は、とかく、移動に凹凸、ムラがある。
歩道であっても、ふと何か感じて、突然慎重になって動きが遅くなったりする。しかし、慣れた場所に来ると、同じく視覚情報は捉えていないのにすたすた歩き出したりする。

こういった主観、経験による慣れというものは、外側の人から見たらわからないものであるから、「こいつ、見えているのかいないのか」と時に思わせてしまうこともあるかもしれないなと、思ってしまうことがある。
しかも、白杖使用者だって急ぐ時は急ぐので(特に視覚などの移動困難は、途中で何があるかわからず思わぬところで時間をとってこのままでは間に合わないというようなことにも良く陥るので)、できうる限り急いでいると、やはり「こいつよっぽど問題なく歩けるんじゃないか」と思われてしまいがち。
本人は実は恐怖の中でもはや捨て身の覚悟であったりする。
実は、そういうことをすると世の中の白杖使用者が声をかけられにくくなってしまうのでは…と感じてしまって、ゆっくり慎重にちゃんと前を探りながら歩かなければ(いや、どの道ちゃんと前を探りながら歩かねば危険なのだが)、と思って、慣れた道の誘導ブロックの上ですら歩く速度をあげることができなかった時期もあった。

見え方(認識の仕方)は、本当にその人、その時々、場所によってまったく異なる。

ただ、「困る時がある」から、白杖を携行していることだけは確かであるので、もし白杖使用者を見かけてほんの少しの行動や時間を分けてくださることが可能なときであれば、すたすた歩いているように見えても、実はその2分後店の位置がわからなくて立ち往生するだろうなと不安を抱えながら歩いていたり、先程の商品の値札を見るのに労力を使いすぎて次の商品の値札がわかるだろうか…と実は吐き気の予兆と危機を持ちながら歩いていたりするので(いやこれは私の場合であるが…)、ひとまず、声をかけてみていただけると大変ありがたいのです。
ひとつ障害を持っていると他にも社会的な弊害を感じていやすいもの。視覚障碍者も、集中している中、話かけていただいてびっくりしたり、突然のことでうまく反応できなかったり、少々おかしな反応をしてしまったりすることもありますが、そういう人であるからこそ、実は本当に声かけが必要であったりします。
できるとき、できないときの差が激しいからこそ(外側から見るとともすれば、あれができていたから大丈夫なんだろうな、などと思われがちかもしれませんが)、できない時の助けは本当に身に沁みて助かります。
それこそ、シチュエーションの差だけでなく、先程までなら何とか判別できていた値札も、数分後には全く同じものが識別できなくなっていたりします。

私自身、そういうムラがあるからこそ、完全に見えないわけではないからこそ、助けを求めてはいけないのだ、声掛けの助けに甘えてはいけない、寧ろ断らなければならないのだと思ってしまい、大丈夫ですと反射的に答えてしまっていた時期すらあります。

あなたのそのお気持ち、その声掛けは、絶対に無駄でも迷惑でもなく、助けになっています。

これを読んでいる中に私が道端でお世話になった方がおられるかおられないかなどもわかりませんが、日々、本当に人の温かさ、身に沁みております。今後とも、何卒、よろしくお願い申し上げます。

そして、だからこそ、与えて頂いた安全で生きている人生にて、私も可能な持てるもので、可能なところで、世の中に返してまいります。

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