「目が悪い」という表現への違和感―良い、悪い以前の視機能状態

「視覚障害」=視力が低い、というイメージを持たれているなと良く感じる。

…いや…実際に、「国」の障害認定基準(法律)での「視覚障害」は、「視力・視野の(一定条件下における既定の検査で出た)数値が一定以下の場合」を指すので、そのイメージ自体はまあ仕方ないのだが。

視覚障害側も、街中でわかってもらいやすいために「目が悪いもので…」というような言い方をすることがあると聞く。

しかし、「視覚障害」において、「視力だけが低い」視覚障害というのは、まずあり得ない。
「視覚障害」というのは、「見え方」の問題なので、視力だけではなくいろいろな「視覚情報取得(&認識)能力」が絡み合ってくる。

ところで、私はどうしても、「目が悪い」という表現が難しい。
しっくりこないため、どうにもそういう表現はしにくい。誰かにそう言われても、何かが違う。
と、いうのは、私のこの器(身体)の場合、視機能回路の問題であり(この辺りに関しては別の記事をご参照いただきたい)、具体的に一番端的にわかりやすく言うなら、動体認識ができない。焦点移動ができない。とにかく「動くもの」に対してもう眼球だか脳だかが強力に拒否反応を起こしてしまうのだ。
「動くものがだめ、というと、文字を読んだり静止画面をみたりはできるの?」と言われがちだが、そもそも「自分が動く」と、視界が動き焦点が動く。例え本の文字などを読むにしても、活字をどんどん「追っていく」動きをせねば文字を読むことは不可能なのだ。その上、人は基本的に、何か物を見ながら「完全に静止状態」でいるということは、まずない。自分も動くし、しかも視界の中のものも何も動かないということはまずありえない。
更に言うならば…私の身体は、幼い頃から、物を「固視」することができない。つまり、焦点を定めておこうとおもっても、眼球が勝手に動いてしまうのだ。
この時点で、自分が静止していることもまずほぼ不能なのである。

そうなると、もう、文字通り「眼球使用困難・視機能使用困難」状態で、見える・見えない以前に、「物を見ることができない」。この拒否反応は眼球だけにとどまらず、頭(脳)や首、身体全体の状態に影響を及ぼすため、そもそも目を開けていることがほとんど不可能な状態で、私は日常のほとんど、閉瞼状態で過ごしている。

つまり、私の場合、この眼球と脳の複雑な、そして不具合が起こりながらの「何かが見えているか・見えていないか(視力があるかないか)」以前に、「見るという動作自体ができない」、ゼロか100かのような話なのである。

そのため、「少しは見える?」「これ見える?あれ見える?」「光はわかるの?」「目が良い・悪い」というようなところへの反応が、非常に難しい。
…「光がわかるか」という問いには、まだ応えようがあるかもしれない。
私は、閉瞼状態であっても、閉瞼状態に更に遮光グラスをかけていても、日常みなさんの多くが「当たり前」としている光が、眩しい。
ただ、眩しい、という表現も語弊があり、刺激がやたらと強く感じる(痛い、という表現も微妙に語弊がある)のだ。やはり拒否反応が起こる、というような言い方になってしまうだろうか。
ヒトが「見る」ための刺激は、すべて「光(光波)」である。つまり、その光波というものの認識自体に適応できていないのだろう。
しかし、だからといって僅かな光(薄暗いところ)なら見えるかと言われれば上述の理由で実質不能であるし、しかしそれでも、私は日常のごくごく一部、本当に僅かではあるが、「視覚情報」を何とか得て使う工夫もしている、という側面もある。(しかし、日常で使えるほどの水準には程遠い。これを具体的に説明したら、恐らく多くの人は「それは見えているとはいわない」というのではないだろうかと思う)

しかし、「網膜が像をうつさない」わけではないし、回路が完全に不通を起こしているというわけでもないので、「全盲」と表現するわけにはいかないのだ。
「ほとんど全盲様状態」ではあるが。

そのため、私は直接かかわって下さるかたには、「全盲と思って接していただいた方が近い(実質としてお互い疎通しやすい)」と伝えてしまうこともある。

視機能というのは、本当に複雑で、壮大な機構なのだ。

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