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2023年11月まとめ。推しのディナーショーへ行かなかった理由、西荻窪ワークショップ、舞台ねじまき鳥クロニクル。

 今年もあっという間に12月になってしまった。まだ上っ張りも出さず、夏と同じ格好に襟巻をするだけのスタイルで出勤しているが、ちょっと寒いかなぁというくらいで、12月感が僕史上もっとも薄い。本当に12月なのか。とはいえ、11月に寒さが一応儀式的にやってきたので、電気毛布を敷いた。電気毛布は神である。我々の世代は何故か無用に「電気毛布 is BAD感」を植え付けられているが、電気毛布より悪いヤツなんかたくさんある。裏で悪口ばっかり言っている人とか、電車の横入り常習ばあさんに比べれば、まったくもって無害の範疇にはいる。積極的に敷いていただきたい。結局一番悪いのは人間なんだなぁ、みつを。寝る前のカップラーメンの方がよっぽど体に悪いと思います。比べる例えがことごとく違うな。例えば芋を上に放り投げてキャッチしたあと、「フライドポテト」等とどや顔で言い放つ。これも違う。全部間違ってる。
 
 声優麻倉もものラジオ番組「ももにち」が終了のお知らせが11月は一番ショックなことだった。大胸平和な一か月であったと言えよう。おおむね。漢字間違えました。概ね、です!(わざとら大声) ももにちに関しては、いささか神秘性に溢れすぎて「妖精なのでは?」という噂さえ聞こえていた(ホントかよ)麻倉ももさんがこっち側に降りてきていただいて、下々(雑草と呼称される麻倉ももファンのひとたちのこと)とお戯れいただける大変貴重な機会であったから、僕も毎週欠かさずアーカイヴを聞いていた。かわいい権化 of 女性声優のガチ他愛もない話を聞きながらテトリスをすると、脳がすごく喜ぶんである。終了が突然の発表過ぎて、ももにちを毎週楽しみにしていた雑草が数㌶分焼き畑農業されたのではないか、と心配するレベルであった。しかももちょは数週間前からいつ発表しようか気にしていたとの事であるし、生放送であるし、とてもセンシティブな機微が声から感じられてとても良かった。ゾクゾクした。雑草は踏みつけられて地に深く根を張るという。本当かどうかは知らない。痛そうだな、と思う。生きろ、と思う。



僕が推しのディナーショーに行かなかった理由


超絶美人天才ウルトラ努力家声優雨宮天さんのディナーショーが開催され、有志青き民による感想ブログ群が大変読み応えがあった。どのブログも幸福感に満ち溢れ、いいなぁぁっぁぁ!ってなった。ありていに言って、大変羨ましかった。記述によると、天ちゃんが歌を歌いながらテーブルの間を練り歩いて、その美を、歌声を、惜しまず存分に民たちに振る舞ったとある。ディナーの肉も超うまそうだった。一番理想的なディナーショーである。素晴らしい。行きたかったし、次回のディナーショーはさらに倍率が上がるであろう。

 僕の推しが開催したディナーショーに対するスタンスについて、世界で一番どうでもいい文章になるのは分かっているが記載しておきたい。僕は天ちゃんを応援しているが、応援ができるのは一応普通にお仕事をし、様々な面で生活を支えてくれている奥さんがいるからである。天ちゃんは、語弊を恐れず表現するのならば、生活における花瓶に生けて愛でる花であり、こっそり花に水やりをする僕は「奇麗だねぇ」などと呟きながら、ニチャァという顔をしている。しているであろう。可能なことはやる気持ちではあるが、ディナーショーにおける費用およそ三万円という事を考えると、これは趣味なのか、或いは生きるための手段なのかという二択を迫られるのと同義であった。たかが三万、と言える程の経済的余裕があったとしても、いや無いが、三万円は近場であれば大人二人が近場でわりとしっかり目な旅行ができる金額である。よく訓練されたエリート青き民たちは、地方から飛行機に乗って、会場である大磯プリンスホテルに駆けつけて来るのを僕は知っている。普通に三万円どころではすまない金額をパッと支払って、天ちゃんのディナーショーに参加するのだ。その気持ちは分かる。痛すぎるほどに分かる。すごいと思う。おまえ、電車で会場いけるのに甘ったれてるんじゃないぞと言われても仕方がない。

 どうしよう、と悩んだ。そりゃ悩む。悩まずにはいられない。推しが初めて開催するディナーショーである。行かなければ後悔するであろう。スケジュール表を確認したら、残念ながら仕事の日であった。


残念ながら?(ッテーン♪とあの音が鳴る。天だけに、ってやかしゃい


残念ながらと言いながら、ちょっとホッとしていなかったか自分?、という自問自答があった。お願いすれば、シフトは代わってもらえるだろう。なんなら、ずる休みをしたって構わない。小学生ぶりのずる休みだが、数十年ぶりにしてもいいだろう。それくらいの価値は絶対にある。間違いなくある。

 そこで想像した。申し込みをし、幸いにも当選して入金したとする。三万円だ。それはまあ良い。さっき書いた。当日、そう、当日だ。奥さんに「仕事へ行ってくる」と告げて家を出るが、バッグには青いネクタイと、念のために用意しておいた青いセイバー(サイリウム)が収納されており、常磐線の上野駅から東京・上野ラインに乗り換えて現地まで行く。リゾートホテルで有名な場所だから、海が奇麗に見えるに違いない。僕は会社に「今日、ちょっとめまいがして起きれないのでお休みします」などと、事前に電話をしてあるだろう。結局、直近過ぎて「シフトを代わって」と言いだし辛かったパターンを想定してある。シフトを代わってほしいとお願いしても代わってもらえなかった場合、ずる休みが出来なくなってしまう。「ああ、やっぱりね、そういう風に結局ルーペさんは休む人なんだね」と思われてしまう。たった一日休むにしても、ぐっと信頼を落とすだろう。それなら打診しない方が良い。結局一日職場に穴を開けるのは一緒なのだ。だったらダメージは総体として最小限に抑えるのが得策であろう。そういう思考を経て、だからこそ最高の解放感で海を満喫できるはずだ。いつもより天が青く澄んで見えるはずだ。ずる休みした事がないのでわからないけど、「会社の人たち、ざまぁみろ! 俺はやってやったぜ! やってやったぜー!!」くらい思ってしまっているかも知れない。絶対僕のことだから、会場が開場するまで、どこか適当なコンビニで酒などを買い求め、海を眺めて時間を過ごすに違いない。人生、などという事を考えているはずだ。とても浅い人生観を辿っていることだろう。1たす1は、2、なのだなぁとか言って。それは良くある事だ。そうしてショーを満喫し、「最高だった」と余韻に浸りながら、再び海を眺めて缶ビールなどを片手にアンニュイに時間をつぶし、暗くなってから(あ、昼回の想定として)鳥貴族で思い出を反芻、定着させ、ツイットなどをして満足感をさらに強めるのであろう。


で、ほろ酔いの気分で家の玄関を開けた時に襲ってくる感情はどのようなものなのか?

 きっと罪悪感、という名前で推し量れるものでは無いような気がする。後悔はしないと思う。それがあるなら行かないから。きっとそこには、人生を本当の意味で変えてしまった選択肢の先に足を踏み入れたような、何かしかの取り返しのつかないものを得て、同時に捨てたような自分を発見するのではなかろうか。失ったのではなくて、捨てたのだと悟るのではなかろうか。僕には冷蔵庫のモーター音と、ドアの向こうで寝息を立てている奥さんの存在感さえ感じることができる。粛々とお風呂にはいって、着替えて、青き痕跡を消し去って、一杯やって眠るだろう。翌日も余韻でいい気分でいるかも知れない。奥さんにおはよう、とか言って、いつも通り朝食をとって出勤する。何も変わってない、普通のいちにち。いやいやすみませーん、昨日どうしても眩暈がして起きれなくて。血圧ですかね? ええもう大丈夫です、頑張ります。はい、分かりました処理しておきますのでご承認お願いします。えへ、本当に健康って大切ですね。何かが変わっているに違いない。何が変わったのかは、外見からは分からないだろう。そういう変化の仕方がある。そういう変化しかできない歳になってしまっている。

 というところで、僕は「仕事があったからディナーショーへ行けなかった! 事務所はもっと早くスケジュールを発表しる!」というスタンスではなく、某黄色い女性声優の言を借りるならば「行かない選択」をした青き民という事になる。近々のスケジュールであったことも、それは青き民の忠誠心を測るリトマス紙として機能した面もあったし、もしかしたら、ある種の救済ですらあったのだ。でも僕はそういうのに縋ったりはしない。天ちゃんの大ファンであるから、敢えて「おれは、ディナーショーに行けなかったんじゃなくて、行かなかった青き民なのだ!」と胸を張って生きていきたいと思う。そういう風にして、これからも超絶ウルトラ美麗歌最高足も奇麗だし作詞作曲極上声優売れっ子にして売れっ子今世紀最高声優雨宮天さんを応援していきたいと思いました! ディナーショーへ行った組と行かなかった組、青き民の中でも濃淡が明らかになったとも思えるが、行かなかった組だからといって卑屈になることなく、胸を張ってしっかりと雨宮天さんを応援していきたい所存である。なんてったって、世界に誇る天才声優だからね。あー、そう思うとちきしょー、行きたかったなぁ~(振り出しに戻る) そういえば、写真集の帯の切って貼って送ったアナザーフォトブックっていつ来るんだろうね? 

ニシオギ、或いは魅力的なキャラクターの作り方


ガスト。入店までおよそ45分程待った

西荻窪においてキタハラさんが語る「魅力的な主人公の作り方、伝え方」というワークショップが開催されたので、参加した。キタハラさんと言えば、年に一度のカクヨムコンテスト第四回において、キャラクター文芸部門において「熊本くんの本棚」で大賞を受賞し、出版された方である。当時web小説というものにあまり触れてこなかった自分にとって、この受賞は衝撃的であった。衝撃的なあまり書く時期は遅くなってしまったが、かなり長文の感想文をしたためて、このnoteにおいても上位の人気記事となっている。

最近僕は自分が書いた文章を読み返すと眩暈、借金、動悸、息切れ、下痢、頭痛、赤痢、現実逃避、ブレインフォグ、金欠を催す病をり患しているので、今は上の記事を読み返せないのだが、まずは余すことなく感想を書くことができたと満足している。web小説というジャンルにおいて異色の小説だと僕は感じているし、その後も京都の人力車をモチーフにした小説【京都東山 「お悩み相談」人力車】や、本屋で働いた体験をもとにした小説【早番にまわしとけ 書店員の覚醒】【遅番にやらせとけ 書店員の逆襲】を刊行するなど、その軌跡を追ってきた。たくさんサイン本も持っている。家宝である。斉賀朗数さんが主宰する曖昧書房から頒布された同人誌「元祖オーケン伝説」にて、先のコンテストで【チャオ!チャオ!パスタイオ ~ 面倒な隣人とワタシとカルボナーラ】において特別賞を受賞したたかなんと共にご一緒させていただいた。そうした活動が出来たのも、カクヨムに書いた初の小説「空気の中に変なものを」がキタハラさんの目にとまり、高く評価をいただけたからである。生まれたての鳥のように、ふ化した鳥が最初に目にしたものを親と思い込むかのように、僕はキタハラさんの熱心な信奉者となり、そう自称もしてきた訳である。訳である、という書き方をすると昭和っぽいですな。「であった、という、訳、なんですね」とちょっと一拍ずつおくと、池上彰っぽくなる。キタハラ賞の特典である鳥貴族を奢ってもらった事もある。この時のもも貴族焼きスパイシーときたら最高でしたね。とにかく書くように、との助言をいただいて、その後も僕自身の作品として「文学性の女」とか、「新しい日」などを書いてきた。

しかし「ハッピーエンド」は十万文字を越したところで満足し、僕自身パタッと長編を書くことが出来なくなってしまった。こうしてモニタに向かって集中して書くことが出来なくなってしまったんである。駄文は書ける。例えば今書いているやつ。じゃあこういう、駄文形式で小説を書けばいいじゃん、という説もあるが、それはそれ、これはこれなんである。である、と恥ずかし気もなく各方面の書き手で申し訳ない。書けない原因は不明ですが、とはいえ、思い当たることはあるんですが、そいつをつまびらかに書く訳には行かないので(書けないことも大切なことかも知れないし、大切なことはしまっておかないといけないので)、「困ったな」とぼんやり思っていた。書けないと普通に困る。周囲からも心配されるし(身体的には超元気なんですけど)、「ワナビ特有の病かい」などと物書きリアフレなどにからかわれて「てめえ、しね!」などと面と向かって醜い言い争い事が増えて面倒臭かった。ちくでん、お前の事だぞ。などと突然名指しをしたりするテスツ(概ね仲良いので心配不要です)

なので、こうした講演会、今でいうところのワークショップ的なものは、どうもうさん臭さを感じて、積極的に受けようとしない猜疑心深めの自分にとっても「キタハラさんがするなら」という風に自然とインターネットでチケットを発注し、ニシオギまで出向くという流れになったのであった。(インターネットでチケットを発券、しかもローソンで、ときたらTrySailなので、キタハラさんはTrySailなのかもしれないと思った)

西荻窪は、秋葉原のサブカルがヨドのバシに焼き払われた現在、懐かしさを感じるほどにサブがカルまった地域であった。僕はニシオギで、そういう系統、いわゆる創作系とかガッツリ系の、なにがしかに特化したラーメンがあるに違いないと踏んで楽しみにしていたのだが、思い切り財布を忘れてauペイが使えるガストで昼食をとった。ニシオギ界隈まで行って駅前のガストで昼飯をくらうなど屈辱的でさえあったが、クーポンで250円でビールが飲めたのでラッキーだと思った。高野ザンクと合流した。

ニシオギの駅前から深く進んでいくと、ドラえもんの住宅街みたいなあまりに住宅街過ぎる住宅街が広がっていて、そこをさらに進むと会場があった。オシャレな一軒家のようにも見えたが、中はわりと広く、椅子が並んでおり、自由に席を選べた。キタハラさんはスタッフの方々と談笑しており、挨拶をするとニコニコして少しお話ができた。講義を受ける方々は総勢30名ほどであったか。あのカクヨムコンテストから、キタハラさんはここまで上り詰めたのかとの万感の思いを新たにした。以前鳥貴族でお会いした、カクヨム系の方とも偶然お会いして、少しおしゃべりができて楽しかった。茨城のグリーン車旅行について語った。僕のテトリスエフェクトパーカーを見て、「それですか」という指摘をいただけたのも嬉しかった。インターネッツ!、マンツェー!!と叫びたかったが、キタハラさんの席を汚すわけにはいかないので黙っていた。

内容としても、大変有意義なものであった。前段の受賞した際のリアルな話も面白かったし、中身においても興味深いものばかりだった。とりわけ、「ニーズのないものは書かない」「しかし、決してニーズに合わせて書かない」といった引用や、「物語」という構造について、多くの作家からの引用に、ビンビンと脳を刺激された。作家は誰にでもなれる最後の職業、という春じゃない方の村上さんが書いたというようなも事も聞いたことはあったが、いかなる文脈からそう語られたのかも面白かったし、「構造」という分かりそうで分からない、今となっては「物語の構造って何ですか」と切り出しづらいあいまいなものについても、とある作家の引用から浮彫りになっていって「なるほど」と膝を打つような解説があり、とても役に立った。そういうあっという間のワークショップであったが、その後の懇親会においてもとっても有意義な時間を過ごすことができた。キタハラさんと言えば、カクヨムといった「インターネット上のひと」のイメージであったが、その実リアルワールドの方でもそうとう顔が広く、友人も多く、人生の割合としてリアルの方にしっかりと軸足をおいていらっしゃるのを目の当たりにして、僕も現実世界をきちんと生きていきたい、そういう男に僕はなりたいと思った。懇親会でプロの方から伺ったキーワードは「切実さ」であり、エンタメと文学の違いであり、新人としてものを書く意気込みについてであり、ものすごくモチベーションが上がった。

質問コーナーで、うかつに手を挙げて意味の分からないことを聞いてしまい、まるで逆張り厨房みたいな感じの、キタハラ先生のネットの知り合いらしきとっても痛い人になってしまい申し訳なかった。こうした事は積極的に忘れていきたい所存である。

と書いている間に、キタハラさんがカクヨムコンテストで特別審査員をするとの報が飛び込んできた。これはもう書くしかないだろう。久しぶりにカクヨムコンに何か出すつもりでいる。夜12時過ぎのYouTubeは禁止することを誓う。何を書こうかな。


舞台「ねじまき鳥クロニクル」池袋


デカい

「ねじまき鳥クロニクル」といえば言わずとしれた村上春樹の長編で、僕もリアルタイムで買って読んだ派だ。読むのがしんどい重厚な物語で、刊行後も折にふれて読み返したりしていたのだが、一言でどんな物語かというと「猫と奥さんが行方不明になり、奥さんの兄が気に食わねえからバットでぶっ殺してやったぜノモンハン of the Dead、と、アヒルのひとたち」という支離滅裂なものになる。村上先生のストーリーは、これがああなったからこれがこうで、つまりそういう事なんです、辛いですね、でも面白いですね、と言うような、文筆で身を立てる多くの方々が血道をあげて(なるべく読者に突っ込まれないように、嘘がバレ辛いように)作り上げる物語とは異なって「~ってことで、提示したからこの後は自分で考えてちょ。チャオ!」というのが多く、そういうのがアンチを生み出している側面がなくはない事もなくなくないのではないかと想像する。雰囲気だけじゃないか、とか、意味がわからない、と憤慨する方々を多くみてきた。何が良いの? 説明してよ!? とブチ切れられたり、折に触れて「まあ君は村上春樹が好きだからな」などとひどい差別をよく喰らったものだ。何が良いかって、語るのが好きで、(ちょっとだけ)上手を自称する僕でもこれがいい、あれが良いと説明しづらいのが春サイドの村上先生である。もう文章も小説も最高なんですけど、何が、って言われると困る。同時に、村上春樹に作品について語り合おうぜ、とする方面の方々も少し怖い。幸い僕の周りにはそういう熱狂的村上ファンはいなかったから、テレビでしかみたことがないのだけど、目が据わっていてちょっと怖い印象がある。好きでもないジャズを聴いたり、野球に興味もないのにヤクルトを応援してそうなイメージがある。いにしえの打ち消し線! くらえ!僕も傍からみたらああいう感じなのだろうか、という恐怖心がいつもつきまとっている。っていうか、僕は何事に関しても、熱狂的になにかを支持している人に対して一定の恐怖心を抱きがちなところがあるので、村上熱狂的ファンだから怖い、というのとはまた違う可能性もある。好きに理由なんかないし、いちいち表明する必要もない。そういうスタンスを貫かないと、インターネッツが普及した現在、言葉遊びやマウント争奪に明け暮れてしまい、いつの間にか好きを手段として、ふわっとした自己表現となり得てしまうこともあるだろう。あれ? チクってしたけど、胸に刺さってないかな? ナイフとか、ブーメランとか。なんだ、単なる気胸か(超絶重病)

そういう「ノモンハンと井戸と壁、そしてアヒルのヒトたち」のねじまき鳥クロニクルだが、とても良いとお勧めされたので、エイって予約して行ってきた。TrySailのライブに最近よく行くので、こうした観劇にも躊躇がなくなってきた。チケットを買ってどこかへ赴き、生で芸を堪能するという点では一緒である。とりわけ、ネットフリックスの「ブレイキングバッド」「ベターコールソウル」などを観てから、映画やドラマを安価で家で観るよりも、身銭を切って映画館へ行くなり、ライブを楽しんだり、こうした演劇を楽しんだ方がよほど何かが身につくんじゃないか、と感じている昨今である。観劇は、前段で語ったキタハラさんの作品を舞台化した「情事のない日曜日」以来である。なつかしい。

池袋にある国立劇場はあまりに巨大だった。僕の池袋といえば、シェーキーズやサンシャイン60、薄汚い高速道路と池袋駅の天井が狭い通路であったが、西口、いわゆる東武側へ出たのはひさしぶりで、こんなハイソでかっこいい建物があったのを知らなかった。1966年設立とある。マジかよ! 誰の許可を得て!(何様)


ジャーン

率直に言って、演劇は面白かった。まず、一人で劇場へ行って演劇を観るというシチュエーションからして面白かった。池袋のバーガーキングで、立教の大学生にまみれながらオールヘビーでオーダーしたワッパーセットを食べた。ものすごく美味しかったし、これから一人で演劇を観るという高尚な自分が少しこそばゆいところもあった。

「あー、チミチミ。これからボクは村上春樹のねじまき鳥クロニクルの演劇を観に行くんだよ。知ってる? ネジクロ。違うよ、ハチクロじゃない。春樹だよ、村のほうの春樹・・・ってどっちも村か、ハハッ」

そういう風に隣の立教大学生にダルがらみしてみたいところであったが、「村上春樹? 雰囲気だけじゃん。ねじまき鳥クロニクルとかどこが面白いんだよおっさん、ちょっくら説明してみろよオウ。今は東のほうの圭吾んなんだわ、ボケが」などとキレられたら怖いなぁとぼんやり思った。最強の武器はバットなんだよ。確か木製の。知ってた? そう弱弱しく反論するしかない。

国立劇場に着・・・場すると、女性の比率が大変多かった。TrySailの現場ではトイレなどは男性用が長蛇の列で、女性用は深夜のETC入口といった感じなのだが、今回は逆である。そして、観客は概ねオシャレな感じで着飾っており、すっかり定番と化したテトリスパーカーの僕はやや場違いなところもあったので、関係者の親戚にチケットを譲ってもらったというテイで着席することにした。もちろん見た目は変わらない。そう思う事にしただけである。そう思うと雰囲気も佇まいも変わってくるものだ。知らんけど。家に帰って判明したが、パーカーの下は寝間着のままであった。最悪である。リスペクトが著しく足りない。休みの日は脳のねじが巻かれていないので、こういう事が往々にして起こり得る。以下、舞台ねじまき鳥クロニクルの見どころを記載していきたい。演劇ど素人の僕の感想であるから、拙いところは許していただきたい。また、これから観劇する予定のある人、ネタバレが嫌な人は飛ばしていただければと思います。

①演劇の醍醐味が味わえる
長い間、いつも映画だ、アマプラだ、DVDだと完成されたものを家のテレビで鑑賞している者にとって、生身の人間がセリフを吐くという事態が既に異常事態なのであった。冒頭、真っ暗な闇から、一人の男がでてきて、ライターの炎を片手にこちらに語り掛けて来る。セリフに合わせて光が変わり、音楽も変わってくる。全部生身の人間がいっぽんどっこ、待ったなし、NG不可でやっているのだ。そう思うとこちらも緊張してきてしまう。その緊張は「一瞬たりとも見逃せない」に変化して、集中力を高めてくれる。劇場全体が舞台に集中していくのが分かる。

②舞台ならではの演出

一つの固定された場面で生身の人間がやれることは限られている。カメラアングルがない(超絶素人目線)だから、舞台の装置を使って印象的なシーンを作り上げていく。最初に驚いたのは、二人で挟んでいる食卓のテーブルが長くなっていくところ。主人公の嫁が、主人公に「猫が行方不明になって、悲しい。探してきてよ、だって、あの猫は私が生まれて初めて私が私に望んで得られた特別なものなんだから」という風な、ふわっとしたセリフを投げかけるのだが、男の人によくある、女性と喋っていて「こりゃあ、一生分かりあえないわ」という深い諦観のようなものが表現されており、大変よかった。映像ではありきたり過ぎてもはや誰もやらなさそうな演出だが、生身の人間がやっているとすごく面白い。

また、間宮中将が・・・中将だったと思うんだけど違ったらすまんのですが、ノモンハンの思い出を語る際の演出は感動的だった。テーブルをはさんで男が二人、思い出話が始まると同時に場面が暗くなり、吊るされたランプは暗闇の一部分を奇麗に切り取るがごとく照らすので、大きく揺らすと不穏さが高まり、いつのまにか暗闇に隠れていた兵隊姿の男たちがテーブルににじり寄って、載っているフルーツやお茶にまで手を伸ばしていたりする。主人公の顔を間近でジロジロ見たりするが、もちろん主人公は我関せずのテイであり、何故なら思い出話は過去の事であるからだが、生身の人間が演じているのだと思うと、それだけでグッときてしまう。それでも、間宮中将演じる吹越満氏は語り口が素晴らしかった。この人見たことあるな・・・あ!、と思ったら吹越満氏だった。テレビドラマでよく見た人である。これはラッキーと思っていたらあれよあれよと引き込まれてしまった。このシーンではちょっと引く程の残酷な拷問シーンがあるのだけど(今月みたレッドスパロウという映画でもやっていたが、生きたまま人間の皮を剥ぐというものである)、それはそれ程でもなくて、間宮中将が井戸に放り込まれた時の真っ逆さまに落ちていく状況が、大勢の人間に抱えられて逆さまにされ、落ちていく表現をしているのが面白かった。僕は奥さんにオペラグラスを借りて、時折覗いていたのだけど、逆さまにされたからといってセリフの声量にムラがでたりとか、苦しそうな呼吸などはまったく聞こえてこなかったので、すげえ、と素直に感心した。オペラグラス関係ないな。まあ苦しそうな顔はしてたけど、そりゃあロシアの兵隊に抱えられて、頭から井戸に放り込まれた苦しいに決まっているので。

③原作の印象的なシーンの表現

はたまた、印象的なのシーンとして、ホテルのプールも面白かった。僕もそのシーンは小説の中でもかなり印象に残っていて、いま手元に本がないので(行方不明なので、裏の路地に探しに行かなければならない)うろ覚えだが、すごくよかったんである。そいつが舞台で再現されるとなると、どうなると思いますか? プールを舞台で表現するって普通に面白かったです。思い入れのあるシーンだけに。梅梅松竹の、メイちゃんとバイトした原作シーンと混ざってしまっておるけれど、実は小生一瞬寝落ちしてしまって、ちゃんとバイトしてるって観客に断りいれてたのかな、と心配している。最後の方で、メイちゃんが「一緒にアルバイトしたでしょ」と手紙に書いているので、観客的に「バイト?」ってなってないか、という心配である。メイちゃんと主人公は、薄毛の人のランク付けをするアルバイトを一緒にやったのです。確かどこかの駅の構内か、駅階段のはすに陣取ってやっておった記憶がある。これも印象に残る名シーンであったので、舞台でやってくれて嬉しかった。そういう舞台化するにあたって、「ここ!」っていう選択が素晴らしい。

クレタの犯され具合も小説と異なり、踊りとして表現されていて良かった。綿谷ノボルという、奥さんの兄である人物は、何かしらの力を持っており、クレタという予言者の妹を犯したとの事であるが、何度か読み返しても「どのように」というイメージが掴めなかった。確かじっと手を当てるだけ、みたいなものがあったと思うのだけど、それが舞台上で音楽と踊りで表されると「まじかよ・・・やばすぎじゃん・・・」ってなるんである。人として、とか、人間の根源って、とか、オールヘビー美味かったな・・・とか、色んな感情が喚起され、今回の踊りの中で1、2を争う良さがあった(争うのはプールの背泳ぎである) これを観ただけでも観劇してよかったし、改めて原作を読み返したいと思った。今は行方不明だが。

④門脇麦さん

門脇さんのメイがとにかく良かったんである。とても明るくて、声に感情がのっていて、溌溂としていながら、どこか影のある「笠原メイ」が笠原メイだった。主人公を井戸に閉じ込めて反省を促すところが特に良かった。また、手紙を送り続けるところの朗読も、どこか涙を誘われてしまうようなあどけなさが含まれており、もう僕の中の笠原メイときたら門脇麦さんの固定で決まりである。


とても良い体験をしたと思いました。舞台版「海辺のカフカ」も機会があれば必ず観に行きたいと思います! なんつったって、一番好きな長編だからな! 猫とかどうなってんだろう。想像が膨らむ。楽しみ!(再演はまだ決まってないみたいだ・・・っていうか無理な気がする)


キリエのうた書籍を、岩井俊二のサイン入りで買った。
ブラックフライデーで、初めてノイズキャンセリング機能付きのものを買って、驚きの性能にぶっ飛んだ。

さすがに長くなったので、後半はこれくらいにしておきたい。
小説書かなきゃなんで。

それではみなさん、よいお年を!
最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました!


観たやつ

すずめの戸締り(再)BD
天空の城ラピュタ(再)DVD
レッドスパロウ
わたしは金正男を殺してない☆
ゴジラ-1.0

べ、別にお金なんかいらないんだからね!