これが ぼくの まち
友達がグラバー園の近くに住んでいる。築70年くらいの古民家を改装した その家は、ひとことで言うと「おばあちゃんち」。
とても静かで、のどかで、落ち着いていて、いつ行っても まるい時間が流れている。坂道の途中に建っているから冗談みたいに眺めがいい。ただ眼前に広がる風景を見ている時間は、とても贅沢だ。
ときおり船の汽笛が響いてきたり、学校帰りの子どもがランドセルを鳴らして通り過ぎたりする。
あぁ、長崎ってこれだよなぁ、とぼんやり思う。
そう、長崎とは そういう まちだ。
このまちには何もない。
海があって、山があって、空がある。そこに人々が暮らしている。それだけのまちだ。
だから私は、このまちが好きだ。
何もないこのまちでは、ここに暮らす人たちの息づかいが ちゃんと聞こえる。
外から届くよく分からないものに左右されながらも、自分たちの生活をまっとうに続け、つないできた。その生き方は職人の仕事みたいだとも思う。
そうして細々と残った足あとが、歴史や文化になっていった。
きっと私たちの小さな暮らしも、足あとのひとつになっていくのだろう。消えたりなくなったりするわけではなく、大きな何かのひとつになるのだろう。
そんなささやかなことを、このまちでは信じられる。
何もないこのまちでは、何もしないことができる。
目的もなく歩き、ちいさな電車に揺られ、海を眺め空を眺め、人々が暮らす音を聴いていればそれでいい。どこかに溜まっていたものがいつの間にか流れ出して、自分が空っぽに、フラットになっているのが分かる。それは このまちが、何でも受け入れてくれるからだ。いつだって このまちは そうしてきた。
風景をこだわった写真に収めなくったって、SNSに誰かを気にした文章なんかアップしなくったって、もう満たされている。特別なことは何もいらない。
そんなまちだから、私は好きだ。
どうしても私たちは、物質的にたくさんのものを求めてしまう。
都会と同じ店、都会と同じ建物、都会と同じ交通網、都会と同じ娯楽、都会と同じイベント…。
でも そうやって出来上がったまちは、魅力的なんだろうか?
既にあるものを なぞって似せて、都会をもうひとつ作ったところで、私たちは満足するんだろうか?
どこかで手に入るものは、その『どこか』に行けばいいんじゃないだろうか。
ここにしかないものを大事にして、『ここであること』を大事にするほうが、ずっと満足できるんじゃないだろうか。
このまちには いつまでも、このまちらしく いてほしい。
そのために知って欲しいことや、やってみたいことがあって、それを ひとつずつ形にしていきたい。ときには ひとりで、ときには 仲間と。
いつか あなたが、長崎に恋してくれたら うれしい。
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