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時を重ね、近くに、此処に住まうもの。

子供のころ、歳をとるということは神さまに近づくことだと思っていた。
近所のおじいさんおばあさんはみんな夢の中で、家から見える山のてっぺんまで登る。
死んだら魂だけになってまっすぐ上へ上へと天の向こう、生きてたら絶対観ることのできない高いとこへ上がってゆく。
天の天に着く頃には、神さまになってそこからずっと私たちのことを見守ってくれてるんだと、至極当たり前に思ってた。

わたしにとって、近所の腰の曲がったおばあちゃんは神さまに一番近い人だったから、どんなにゆっくり歩いていても、かならず追い抜くことはしなかった。
だから、友達がサッと追い抜いて次の遊び場に向かうと、驚いた。
え!神さまに一番近いんよ。
ええのん?
どんどん背中は小さくなって、カーブの先へ消える。
待ってな!
でも、このおばあちゃんはこしたらいけん。
どうしよう。よう、こさん。
行き先は分かるから、ゆっくりついて歩いた。
…だって、神さまじゃもん。

どの時点でそうなったかも覚えていない。
ただ、昔の地域の伝承を読むと、すごくじぶんの感じてる神さま観にしっくり馴染む。
岩や樹や山や生物、風や光や火など、さまざまなもの.ことを依代にして、神さまが人とやりとりする。そんなことは、まったく当たり前の感覚がある。

死ぬってことは自然に還ることなんだと、川や山で日暮れまで遊びながら、頭や身体を越えた自分のどこか奥底でいつの間にか醸成されていったんだろう。
そして、還る先は神さまの住処。
もうその一歩一歩が神さまのところへ還る道。だから、その前へ越したら…。
あゝ、すこし解った。一部だけ。
こわかったんだ。代わりに先に連れて行かれるんじゃないかって。
そればかりではないけれど、その一歩には、天への道と地の底への道とふたつ、ある気がする。

いまはもう、すこし会釈してゆっくりと越すようになっている。そして、くっと爪先に地面を感じながら歩くのだった。
つい時間に追われ、あたふたと駆けまわる日々だが、このときばかりは、わたしの時計もゆっくり慎重に針を刻む。
うつむいた目の裏に、山の稜線と頂上に吹く風を思いながら。

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