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 フェス、好きなバンドが三組以上いないと行く気にならないくせに行くときは一バンド目当てのが見れたらあとはなんでもいいみたいなゆるい構えであんまやる気なくて、でも結局めしくっててもステージの方から音が聞こえてきたら楽しくなってお箸持ったまま見に行ってしまう。メリーロックパレードに行った。今日もテンフィートだけ見れたらいいや〜と思って行ったんだけど、ヤバTやっぱり楽しかったし、キュウソでは久々にでかいサークルとサークルの間の人になって気まずかったし、まったくノーマークだった秋山黄色がいい緊張があって好きな感じだったし、w.o.d.が自分にはかなりヒットだった。友だちの荷物番しながら座ってリハ見てたらスモーキン・ビリーが始まって座ったまま腕突き上げてウワー!と言ってしまった。テンフィはやっぱり、もちろん、むちゃくちゃかっこいいしやさしかった。5年ぶりくらいに見たアレキサンドロスがWaitress,Waitress!とKill Me If You Canを立て続けにやってくれたのが嬉しすぎて(むかしハマったアルバムの曲だった)アホみたいに踊り、Creepy Nutsでもアホみたいに踊り、満足しきって帰ってきた。ミスドで坦々麺食べながら今日の感想をあれこれしゃべっていて、ふと友だちが言った。
「やっぱりフェスがいい。この前USJ行ったけど、その日だけの楽しさで、次の日には何もなかった。同じように並んだり待ったりするなら乗り物より音楽のほうがいい。あとに残るし」
 わたしは冗談半分で「フライングダイナソーは『しんどくなったらまたライブ来いよ』(今日のタクマの言葉)とか言ってくれないもんな」と返したが、半分は、いやたぶん半分以上は冗談じゃなくて、つまり自分は、誰かのただの飯の種じゃない、この文明が次から次へ生み出す刺激につられて資本主義のエサになってるだけの存在じゃないと、思えるからなのかもしれない。もちろん音楽フェスだって金銭とか馬鹿でかいシステムを前提にして成立してるし安くないチケット代をみんな払って行ってるわけだけれども、むこうにも人間がいて、演奏してるほうも楽しいとかそうじゃないとかの感情や調子の良し悪しや気分があること、それでも「しんどくなったらまたライブに来い」とか言ってくれること、誤解を恐れながら言えば「大切にされている」という感覚。もちろんそれは非常に狭い意味というか錯覚に近いものなのかもしれない。やってる側がどんなモチベーションでやってるか本当のところはこちらに知る由もない、完全にビジネスと割り切ってやってる場合もあるかもしれないし。でも、そういう思惑とかを完全に包み込んでしまう形で、音楽は本質的に他者を不可欠の成立条件として求めている。そうである以上、そこへ行くとお互いに出会わざるを得なくて、こちらとしては自分が、音楽を好きでいる気持ちが、相手にとってどんなものかをまったく考えずに相手の前に裸で投げだす、無意識に全身を賭けている、そういう出会いが、そこにないことはできない、というとき、サービスとか対価とかが一瞬消える。踏み越える。ライブのあとの生活がしんどいのは、そこで見えたものや聞こえたものがいつもの消費生活に戻ってきても偽物にならないし、むしろこの生活をうしろから照らすからだ、足が重いぬかるみに取られそうになっていたことを教えてくれるからだ、堕落した「リアリスト」へ続く陥穽の多さを警告してくれるからだ。この一連、持続する総体的な感覚が、わたしが言葉にするなら「大切にされている」というものなのだ、おそらくは。むこうに相手がいる、人がいる、わたしはその目の前にいると確信できること。そういう場を与えられていること。そういう場を強く望む気持ちを持ち続けられること。たった一人で暮らすうちに実体のないいろんなものに体を少しずつ分割され占領されてばらばらになっていなくなっていく存在では、おまえはない、その感情と体の王は、おまえだよ。王としてもう一度ここに立ってくれ。と、言ってもらっている。そう思っている。

本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います