私記17(「うつくしい」)

 攻撃的な気分が続いている。どいつもこいつも!と思うが、そう思うときはたいてい自分が一番バカである。

「うつくしい」というひらがな表記が信じられない。いや、もう正直にいうとその書き方をする人が信じられない。こういう一面的なキャンセルはただの人付き合いの怠慢だとわかっていて、わたしにとって重大なのはそのことじゃなくて、ひらがな表記をするその人に問題があるのではなく、その書き方に問題があるわけでもなく、というかどんな表記にも、言葉には本来的に問題なんぞあるわけはなくて、いつでも必ずそれを使う側の意識というか心がけというかが問題なので、だからわたしが「うつくしい」という表記を、その表記に託された心性を受け取れなくなってしまったのは、過去、自分が、「美しい」よりも「うつくしい」と書いた方がなんとなく真実めくから、核心に近いような気がするから、含蓄があるっぽいから、などという浅はかな理由で、対象やそれに対する自分の感覚の大切さ、多面的な大切さをめんどくさがりないがしろにして、読んでくれる人にさえ媚びながら「これで納得してくれるだろう」みたいに軽んじて、そういう不実と怠惰の上に「うつくしい」と書いたことがあるからだ。一度ならずあるからだ。その時点では言語化できていないし、しようともしていないし、なんならいろいろ理屈をこねて正当化しようとしていたかもしれない。でもこれがすべきではないことだとわかってはいたはずだ。結果、わたしはいま、「うつくしい」という言葉を失い、それを失っていない、よく考えて使っているかもしれない人間への信頼までいっしょに失っている。これは、ほかでもなく自分、ある言葉とそれにまつわる感覚、それをめぐる思考をあなどり踏みつけにした自分への、当該の言葉からのまぎれもない復讐である。考えて、考えて、何度も立ち止まって、とにかく考えて、誠実であるように、というよりは不誠実を注意深く、不完全でも、できるだけ排除しながら言葉をさわらないと、同じようにぼかぼかと崩れていって、おれにはたぶん軽蔑しか残らない。言葉に見放されたら人を馬鹿にすることしか残らない。

本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います