Twisted Maple Trees(自己肯定について・1)

 自己肯定の方法を知りたいとながく思っており、他の人のやりかたを調べたりもしてみたがしっくりくるものがないので、自分で考える。好きなものやひっかかっているものから。だから徹底的に自分のために書くつもりでいる(=他人への浅ましい媚をできるだけ捨てる)。いきおい内容は偏るがしかたがない。

 したがって、重要な前提として、ここでは、自己肯定感という感覚ではなく、自己肯定という行為を問題にする。自己肯定感をもつための方法ではなく、自己を肯定するための方法を考える。

 the HIATUSのTwisted Maple Trees(作詞:細美武士、作曲:細美武士・masasucks、『Trash We’d Love』フォーライフエンターテインメント、2009)の話から始めよう。


https://youtu.be/7oCwh2d58Uc

 前向きな歌ではない。でも暗いの一言で済ますこともできない。とくに後半にかけてどうしても引き寄せられてしまう光がある。共感するとはとてもいえないし、自分の中にある不明瞭なものを明瞭にしてくれたという類のものでもない。曲がもっている感情の大きさがわかってくるのに比例して、その感情が聴いている自分のものでは絶対にないというわからなさが迫ってくるのに、離れることができない。どんな言葉も及ばなくて「好き」というしかない。感情を主張せず、情報にもせず、表現するとはこういうことなのではないかと思う。

 どういう動機で作られた曲なのかは知らない。曲と密接にかかわる経験があったのかもしれないし、なかったかもしれない。わたしがひかれて仕方がないのはその部分ではなく、まず、自己否定が残酷なほど明確な構成をもって描かれていること。しかし、あるいはだからこそ、陰鬱で倦怠した感情では決してない、積極的な方向性をもったものだということである。

自己否定による自衛

 この曲に刻まれた自己否定には二段階ある。ある種類の自己否定が別の種類へ深化するありさまが描かれているということである。ここでの「深化」とは、静かな内省の過程ではおよそなく、むしろ皮をガッと剥がされて生肉が露出するような容赦ないものだ。そしてこれが他者との逃れられない対峙を契機としていることも重要な点である。
 このことを、歌詞と曲との両面から順を追ってかんがえていきたい。

 この曲は静かなギターの繰り返しで始まる。なにかの予感にみちているが、明るい期待を持たせるような予感ではない。そこにボーカルがすべり込んでくる。声は細く、どこか幼く、単調なメロディの上で不安定さが際立つ。

Inside my mind
I wonder where we’ll go
You walk two steps ahead of my bare feet

Dark sky is seen
through twisted maple trees
I don’t know why but
I hope you don’t look back

〈対訳〉
僕の頭の中で
僕らはどこへ行くんだろう
君は裸足の僕の2歩先を歩いてる

ねじれた楓の木々の間から
暗い空が見えていて
なぜだか僕は
君が振り返らないことを願ってる
the HIATUS「Trash We’d Love」歌詞カードより。以後同じ

 「僕」の心象風景のなかである。暗い森を「僕」と「君」は二人で歩いている。二人の関係は、横並びではなく「2歩」のずれを含んだ不穏なものであり、すれちがいや関係性の不全を匂わせるが、「僕」は”wonder where we go”(どこへ行くんだろう)とか、”I don’t know why”(なぜだかわからないけど)とかの曖昧な言い方でそのひびわれに(無意識に/意図的に)蓋をしている。”two steps”や”through twisted maple trees”をとらえるクリアな視界やむきだしの”bare feet”をもつにもかかわらず。むしろこれらが描きこまれることによって、「僕」のぼんやりした心境は、思考停止状態として痛ましく浮かび上がる。

You are fine
I'm wrong
It's always on my side
I'm dead
My fault
You can not forgive me

〈対訳〉
君は大丈夫だよ
間違ってるのは僕だ
いつも僕の側の問題なんだ
僕はもうおしまいだ
やっちゃった
君は僕を許せない

 一回目のサビ。音域は少し上がるがサビらしい解放感や高揚はなく、イントロと地続きの暗さのままである。
 ここに連なる言葉はいっけん悲劇であり自己犠牲的だが、独善でもある。「君」との対話になっていないからだ。「僕」はなにか「君」にとってひどいことをしでかしてしまったのだろう。そこまではわかる。けれども、「君」は(少なくとも歌の中では)なにも言っていないのに、「僕」は「君は僕を許せない」と決めてしまう。「僕」は問題を自分ひとりで囲い込むことでその具体性をなしくずしに消去し、「君」を切り離して自己完結してしまう。このふるまいの背後には他者恐怖があるだろう(「君が振り返らないことを願ってる」)。「僕」は対峙を恐れている。二人の関係にとって決定的ななにかとの対峙を。それは二人の関係上での、あるひとつの具体的な問題であったり、複数のできごとであったりするかもしれないし、あるいは「僕」自身のひとつひとつの欠点や、言動の非であるかもしれない。なんにせよ「僕」はそのように「君」を拒否し、自分との向き合いを拒否している。相手から何か言われる前に体中を自ら傷つけ、本当に傷つくべき問題を回避しているようにみえる。

「僕」のそのようなふるまいの本質はしかしまだ露見しない。抑揚の少ないメロディと低く静かな歌いぶりに抑制されたまま、最後の”You cannot forgive me”は、広がりを抑えられたイ音のロングトーンが解決されない和音に乗るという、なだれるような終わりへ向かう。「僕」の思考停止と自衛のための自己否定は、こうして浮き彫りにされ、次へと引き継がれる。

他者としての「君」

You shade your face
And murmur something like
"Should I regret the color of my dress"

〈対訳〉
君は顔を曇らせて
「違う色のドレスが良かったのかな」
みたいなことをつぶやく

 二番に入ると、曲は雰囲気を保ったままやや明度を上げる。ギター2本と雨だれのように散発的なピアノだけだったところに、Aメロからベースが加わり、ひそやかだがシンバルが入り、ピアノも音数を増やし、音像は輪郭をはっきりさせてゆく。
 こうして、もとあった予感がじわじわと膨らみ始めるが、”Should I〜”から曲は急展開を迎える。ボーカルは突如ファルセットも混じえたオクターブ上の高音に切り替わり、スネアとフロアタムが八分音符で強いリズムを刻み出し、ベースはメロディと絡まるように大きな動きを見せる。Aメロ〜Bメロ〜サビというなだらかな上昇ではなく、Aメロの途中から大サビへ駆け上がるという形で、曲が急激に抑制を取り払われていく。

 突然強い光を当てられたようなこの展開は、「君」の言葉が現れると同時に到来する。振り返らないようにと願った「君」が無情にも振り返る、いやおうない対面のその瞬間である。

Should I regret the color of my dress

 謎めいた言葉であるが、聴き手に文脈を示さないことでむしろ、二人の個的な関係を強烈に暗示する。これまでの、二人しか知らないできごとやそれにまつわる感情が、この言葉の背後に積み重なっているとわかるだろう。さらにまた、”color of my dress”という言葉のもつ鮮明なイメージは、暗くぼんやりした”Inside my mind”に「君」を溶解させずきっぱりと実体化させている。華やかな”dress”とむき出しの”bare feet”との対照によっても、「君」と「僕」とは明白に異質な存在になるといえる。
 ここにいたって「君」はようやくはっきりと実像を結ぶ。「僕」にとっても聴き手にとっても。

 E・レヴィナスの他者論に「顔」という概念がある。

 他者を前にして私は倫理的対応が求められているのを感じる。もしそれに応えないなら私はそのことの責任を負う。レヴィナスの「顔(visage)」という概念は、事象としてはこのような、私に道徳的対応を求めるものとしての他者の、対面の場での現出だといってよい。
佐藤義之『レヴィナス 顔と形而上学のはざまで』

「顔」とは他者の現前である。所有や支配を拒み、かつ、主体の有責性を告発してくるものである。レヴィナスの「顔」は身体的部位としての意味に限定されないが、振り返る「君」の表情の描写はまさにこの「顔」の現出ではないだろうか。
「君」が初めて他者として現れる。“inside my mind”にもかかわらず、「君」は「僕」の願望に取り込まれない。「僕」が覆い隠そうとしたまさにその場所から「君」は現れる。「君」の動作も言葉もささやかだが、このささいな具体性こそ、「僕」にとって重大なものだ。「僕」はなしくずしの自己否定に甘えることができなくなり、「君」との具体的な関係のなかに引き戻される。自己完結を破られ、他者に向き合わされてしまう。そしてこの場合の他者とは、ただ自分と違う人間であるだけではなく、「僕」との個的な関係の中で、「僕」との具体的なできごとによって、あるいはもしかすれば「僕」の具体的な言動によって、傷つけられ損なわれた他者であり、「僕」が責任を持たなくてはならない他者なのである。

 薄暗い森は急速に晴れる。サビへ駆け上がるにともない、「僕」の意識も暴力的な加速度で明晰になってしまう。

You are fine
I'm wrong
It's always on my side
I'm dead
My fault
You can not forgive me

 一回目のサビと言葉は同じだが、それらが写真のネガのように全く違う顔で向かってくるところにすさまじさがある。自分を守るために使っていた自己否定の言葉が、ふりむいた「君」と向き合ったことでいっせいに方向を翻し、一語一語にごまかしようのない実感の重さがこもってしまう。自分は相手を傷つけてしまった。やったことは取り返しがつかない。しかも自分は自己否定によってそこから逃避してきたのである。他者と直面したことで自己否定はその表層を剥がされ、切り裂くような罪悪感へ変貌する。

 このような言葉の鮮やかな転覆を可能にしているのは、なによりも曲調の展開である。
 この歌詞を、曲のつかない言葉だけの詩として読んでみた場合、サビの繰り返しに深化を読み取ることは難しい。むしろ自己否定感情の自傷的な反復として読まれるだろう。振り返る「君」の顔や動作もループに飲み込まれ、亡霊じみた不気味な色調を帯びる。大サビ前の急展開があってこそ、字面としてはまったく同じ二回のサビが、それぞれ異なる次元にあることがわかるのだ。

 以上のようにこの楽曲では、歌詞と曲とがきわめて強くリンクすることで、罪悪感を克明に描き得ている。ところがこの後、歌詞はとぎれ、曲だけが、アウトロと呼ぶには長すぎるほど長く遠くへ続いてゆく。このリンクの中断とそのあとに残された音だけの空間が示すものはいったい何か。

決着なし

 前述の疑問を考える準備としてふれておくべき問題がある。この歌詞の世界があくまでも”inside my mind”であることと、歌詞がつねに現在形で書かれているということだ。
「君」のふりかえるシーンについて「他者の現前」と書いた。予測も操作もできない他者である。しかしそもそも、その他者を「僕」は自分の頭の中に登場させているわけで、これは結局「君」が見せかけの他者にすぎないということになりはしないか。

 そうではない。ここには罪悪感というものの性質が関係する。

 他者によって裁かれているという意識、たとえば羞恥では、私は私自身を他者によって限定されたものとして引き受けるのである。 特に罪悪感においては、私は既に述べたように、私は一方的に裁かれ、まなざされるのであり、逆に他者を裁き返すことは出来ない。もちろん日常生活においては、ひとはまなざし合い、裁き合うのであるが、罪悪感においては、このまなざしの相互性は失われる。 まなざしの相互性のこの喪失こそ、罪悪感の本質である。この喪失の故に、まなざされている、 裁かれているという私の意識は、不在の他者の意識を志向し、推量的想像力によって、私を裁く他者のまなざしを想像するのである。
強調論者。久重忠夫『罪悪感の現象学 『受苦の倫理学』序説』弘文堂、1988
推量的想像力の介入とともに、他者の私への面前への現前は、不可欠のものではなくなる。と同時に、私が直接には知らない他者の苦、私の行為波及性によってひき起こされた苦を想像することが可能になり、またそれが必要になる。

 他者どうしであるかぎり、「僕」は「君」の苦しさを直接に知ることができず、想像し推量することしかできない。“You cannot forgive me”「君は僕を許せない」、この言葉は二度目の時点では、「許されないことをした」という「僕」の自覚の言葉である。自分を裁く「君」のまなざしを「僕」が想像している状態のあらわれである。
 この「推量的想像力」には終わりがない。なぜなら他者の内面は把捉不可能であり、推量にも想像にも最終的な解答などないからだ。決着がつけられないからだ。

 これが歌詞全体を貫く現在性にもかかわってくる。
 引用した久重によるジャンケレヴィッチ『やましい良心』の記述の分析を見よう(この本には訳書がないため引用箇所は久重からの孫引きになることを許されたい)。ジャンケレヴィッチによる「後悔」と「悔恨」の区別を、久重はこうまとめている。

 後悔は引き延ばしたいと思い、悔恨は(過去を)無にしたいと思う。「後悔は不在の過去を嘆き、反対に、悔恨はあまりに現在的である過去を嘆く。
強調論者。前掲久重。鉤括弧は久重によるV・ジャンケレヴィッチ『La mauvaise consciense』の訳出
 悔恨は、過ちによって引き起こされた感情である。「悔恨の本質は、あらゆる瞬間に、われわれの心の内によみがえり、新しくなる過ちの継続である」。かくして、悔恨は、過去でもなく、現在でもない。後悔が過去の単なる痕跡であるのに対して、悔恨は、「われわれの内の過去」であり、常に現在とともに生きる過去である。
 ジャンケレヴィッチはそれをたえず現前する過去、「過去の寄生」として表現する。 「悔恨はわれわれの現在に侵入者として住みつく」のである。
同上

 ”Should I regret…”が指し示す二人の関係およびできごとは、二人の過去、と言い換えることもできる。「僕」の悔恨のもととなる過去である。当事者以外に知る由もないその過去が、「僕」のなかでは「たえず現前する過去」として、決着不可能なまま現在形で繰り返されているのである。I was wrongではなくI’m wrongという形で。

 不在の他者によって裁かれつづけ、ゾンビのように蘇る過去にとりつかれる。「僕」にとって自閉した地獄になってもおかしくないこの表現が、しかしそうはなっていないと考えられるのはなぜか。罪悪感をなまなましく描いていても、ただ悲惨で鬱屈した印象ではどうしてもない。楽曲にさす光はどこからきているのか。
 それが、このあとへ続く長い長い後奏である。

失語の刻印

 詞の波形と同期してきた曲の動きは、二度目のサビのあと、その同期を振りほどいて続いてゆく。 かき鳴らされるギターの轟音と、畳みかけるドラム、ベースの重厚な重なり。ぎらぎらした激しさはあるが疾走感はない。這いつくばりながら息をきらして階段をよじのぼるような重々しい足取りである。ぼんやりと薄暗い”inside my mind”の森から、そうしてどうにか出ていこうとするように。

 この長い後奏は何を示しているだろう。
 わたしには、言葉を失ってしまった主体の、その失語の中でのもがきとして、提示されているように聴こえる。

 取り返しのつかないことをしたと「僕」が悟ったこの瞬間は、「僕」がはじめて、「君」という他者によってはっきりと傷ついた瞬間でもある。あらかじめ自分でつけた傷ではない。自分が他者につけた傷に向き合ったことで、はねかえって自分にも傷がついたのである。「僕」についた傷は、自分が「君」につけた傷の反射だ。だから「僕」はそれを容易に治癒させてはならない。見ないふりをしてもならない。かといって、これ以上の言葉によって変質させるわけにもいかなかった。“You cannot forgive me”「君は僕を許せない」の上に重ねるべき言葉などひとつもなかった。甘い自己否定を自責が突き破ったとき、おそらくこの物語は、言葉で決着をつけようとすれば欺瞞でしかなくなる地点へ来てしまっていた。主体は言葉の果てへ投げ出されてしまったのだ。

 そのために音が続いていったのではないだろうか。言葉が抱えきれなかったものを引き受けるために。言葉が行き着いてしまったデッドエンドとしての沈黙の先を照らすために。
「先」というのは、もちろん楽観的な未来などではない。沈黙が沈黙として存在する空間のことだ。言葉を基準にすれば沈黙はゼロになってしまう。けれども失語はけして虚無ではない。何もないのと同じではない。失語という状態が確かに存在しているということを、音は証明しようとしている。
 これは、言語化不可能な傷を、言葉の外へ逃がすことを拒んだ楽曲の姿である。言葉では決着のつかない傷を未決のままに照らし出し、抱え込む道を、この楽曲は選択している。

 「音楽ってそういうものですよ。 最初に提示された主題の行方を最後まで見届けた時、 振り返ってそこに、どんな風景が広がっているのか? ベートーヴェンの日記に、『夕べにすべてを見とどけること。』っていう謎めいた一文があるんです。(略)あれは、そういうことなんじゃないかなと思うんです。展開を通じて、そうか、あの主題にはこんなポテンシャルがあったのかと気がつく。 そうすると、もうそのテーマは、最初と同じようには聞こえない。 花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、 未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できなければ、 フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」
強調論者。平野啓一郎『マチネの終わりに』文藝春秋、2016

 自衛のための自己否定をまず描き、「君」という他者との対峙によってその浅はかさを突きつけるという構成をとっていたこの曲であるが、言葉の果てにまで踏み込んで傷を刻みつけようとする音の奔出を目の当たりにしたあと、楽曲全体をふりかえったとき、そこにあるのは、自分の過ちに打ちのめされる受動的なひとの姿ではない。確実にある能動性がきざしている。

 わたしはこの能動性を自己肯定の志向としてとらえたい。

 自己否定を解消するという意味のではない。なかったことにしないことである。
 自分が相手を傷つけたこと。傷つけたことから逃げていたこと。それを自分に示した瞬間の相手の表情。言葉。声。まざまざと思い知ったときのショックも、恥も、気の遠くなるような罪悪感も。自らが起こしたことすべてを希釈せず正当化せずに受け入れ、言葉が途切れてさえその空間を証明しようとする。「言葉にしきれない/するべきではない」のなかへ逃げ込まずに、決着をつけられないものを、決着のつけられないものとして認知し、抱え続けることである。
 一番最後のアウトロがイントロを反復しているのが象徴的だろう。大きな転回を迎えた「僕」は、この停滞した暗い森を抜け出していくだろうが、「君」の二歩うしろを歩いた裸足の足取りも、それにまつわるすべても、「僕」の中から消え去ることはないのだ。

ちゃんと傷つく(結びにかえて)

 過去はもはや存在しないと考える者は、過去の出来事によって、悲しみ苦しむことは無意味だと考える。そう考えれば、過去とは、捨てられ忘却されるべき存在の残滓、時間の残滓ということになる。私はそうではないと考える。 反復され、未来に提供されるべき供物なのだ。
山内志朗『過去と和解するための哲学』大和書房、2018

 わたしはこれを「供物」という言葉でいわないが、過去が「反復」されることで「未来」を形づくっていくということには同意する。
 起きたことは取り返しがつかない。けれどもそれは、だから悔やんでも仕方がない、意味がない、ということへ必ずしも結びつかない。人格に食いこむほどの深い悔恨を抱えたものにとっては、悔やむなという慰めこそ無意味である。なすすべもなく抱えこんでしまった悔恨を、ではどのように未来へつないでいけばよいのか。自らをひたすら罰し続けるしかないのか。それとも過去を解釈しなおしてしまえばよいのだろうか。どちらでもない方途を、この曲は指し示しているはずだ。

 わかるのは、重要なのは、「ちゃんと傷つく」ことの必要性である。自分が被害者である場合だけではない。自分が他者を傷つけてしまった、その事実を受け止め、傷つくことである。自己正当化やなしくずしの全面自己否定の陥穽に足をとられずに。

 加害者の痛みを「傷」とよぶことにはためらいや反発があるだろう。やった側がなにをいい気なと。もちろん苦しめば許されるわけではない。誰かを傷つけたことはチャラにならない。そうではなくてわたしが言いたいのは、何が原因であれ、「苦しい」と思ったのならその苦しさの存在は認められるべきだということである。何が原因であれ、だ。感情の生成が基本的には制御できない以上、美しかろうが醜かろうが、正しかろうが間違っていようが、生まれてしまったなら、感情の存在自体が抑圧されるべきではない。そう思っている。

 だから、Twisted Maple Treesという曲が剔抉した感情の動きと、それを剔抉しようとした意志に敬意を覚えるのだ。
 傷とは他との接触の証に他ならない。その傷を治癒させず、また「治らない傷」として俯瞰的に表象することもなく、痛みのままに現在のなかへ置き続けること。単なる自罰ではない。自分の前に現れた他者のなまなましい姿を、その他者が不在になってさえも、薄れさせないということだ。さらに、この傷によって立ち現されてしまった自己の姿を、何度でも新しく確認するという営みでもあるのだ。
 自己は自分自身で認識している姿でのみ現れるものではない。本人にとって望ましくない自己は無数にあり、それをときに残酷なしかたで指し示すのが他者である。自分の愚かさや浅はかさに「ちゃんと傷つく」ことは、そういう自己を否認しない(肯定する)ことであると同時に、それを教えてくれた他者を肯定することにもなる。たとえそれが、“You cannot forgive me”という形をとるのであっても。

本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います