Flare(自己肯定について・2)

 まずはじめに、前回のを書いてはっきりしたことを示しておく。
 近年とみに見かけるようになった「そのままでいい」「だめでいい」「逃げてもいい」という自己肯定的言説がある。わたしはいっときはそれを受け入れていたし、外に向けて反復的に発信してもいたが、このやり方ではわたしはわたしを肯定することができないと気づいた。あの言説が切に必要な人もいるんだろうが、わたしは違う。真に受け続けていたらおそらく無限に堕落する。自己肯定とは易きにつくことではないし、現状追認とも異なることを銘記しなければならない。

 外から与えられる「自己肯定」は、もちろん大多数の人に受け入れられやすい柔和な顔をしているだろうから、それに頼るのはらくである。けれどもそれを峻拒しなければ肯定できないものもある。

 その視角を明確に持っている作品を今回は取り上げたい。

 大きなテーマを挙げておくなら、「生活」である。やりたいこともやりたくないことも含む具体的な生活。全部自分のためにやっているはずが、仕事に行きたくないとか、食べるのがめんどくさいとか、止めたい、楽になりたいと思ったり、でもそうはいかなかったり、次の日になったら忘れていたり、忘れていなかったりする、矛盾や対立にみちた生活。

「Flare」が浮かび上がらせているのは、そのような生活から編み出される、世界を拒否しつつ参加するという主体性である。この曲が全体として表している自己、そして自己を包む世界のありさまを追いながら、このままならない生活のなかで自己を肯定するとはどういうことかを考えたい。


1、内部と外部

 まず、この曲がもつ「自己」の形を確認する。この曲での歌い起こしは、そのまま自己の立ち上がりでもある。

もう一度起き上がるには やっぱり
どうしたって少しは無理しなきゃいけないな
一人じゃないと呟いてみても
感じる痛みは一人のもの

「やっぱり」や「どうしたって」という言い方が背後に滲ませているものに注意が必要である。ここでは、「無理しなくていい」「一人じゃない」といった慰めを想定し、先回りしてそれらを暗に拒んでいる。自分で呟いてみることができるまでにそれらは内面へ染み込みかけているけれども、いまここにある「痛み」はそのような決まり文句を弾き返している。
 固定化し決まり文句になった慰めの言葉を仮定し、それにぶつかることで、差異としての自分の状況や痛みを明確化するという動き。これによって主体が立ち上がっていることを重視したい。また、全体を通して見ても、この曲には一人称がない。「わたしは」「ぼくは」と話しだすことが可能な確定された自己はここにはいない。つまり、確固とした自己が先にあるのではなく、外部への反応として自己が現れてくるのであり、この曲そのものが外部と内部のずれの中から始まっているのである。
 もっとも、決まり文句を相対化する表現はこの曲に特有ではない。「周りと比べてどうのじゃない わかってるんだそんなことは」(ラストワン)「夜を凌げば 太陽は登るよ そしたら必ず また夜になるけど」(望遠のマーチ)などの例を見る通りである。ではこの曲の特異性はどこにあるか。相対化のうちに立ち上がった自己が、何度も外部との関係のうちに置かれ直し、その差異が積み重ねられていくところである。

自分にしか出来ない事ってなんだろう
終わったって気付かれないような こんな日々を
明日に繋ぐ事だけはせめて繰り返すだけでも繰り返すよ

何が許せないの 何を許されたいの
いつか終わる小さな灯火

 外部との差異のうちに自己を発見するという動きには苛酷な面もある。「自分にしかできないこと」とは、自己実現といえば聞こえはいいが、常に他人と比較し続けることを要求する概念でもあるからだ。その結果見つかったのが、「終わったって気づかれないようなこんな日々」というもの。自分が認識している自己というものが、外部の広さに比すれば限りなく小さな存在であり、まったく重要ではない、ということが確認されている。同時に、「繰り返すだけでも繰り返す」というところに、自己の微弱な意志もまた見出すことができる。

 この歌における主体の支点は、外部と内部のあいだを行ったり来たりしている。外部によって内部が誘発され、それが再び外部へ向かうまなざしを呼び起こし、それがまた内部に意志を喚起する。「何が許せないの 何を許されたいの」も同様、「許せない」という他動的な感情、怒りが、「許されたい」という内的・受動的な感情に読み替えられ、最後に「いつか終わる」という自分の非重要さに返ってくる。
 自分は外部に対して差異のある内部をもち、何かを感じたり考えたりする確かな主体であるのと同時に、外部から見ればまったく重要ではない、多くの中の一でしかない、代えのきく一部として存在してしまっている。この両極の間のシーソーのような往還が、この歌が示す「自己」の姿である。

 ではこの自己は外の世界に対してどのように関わっていくのか。そもそも、この曲における外部とはどのような世界なのだろうか。


2、関係ない世界と「僕ら」(small world)

今 世界のどこかで 青に変わった信号
跳ねて音立てたコイン 溜め息 廻る車輪

巨大な星のどこかで いくつの傷を抱えても
どんな落とし物しても 全部 塗り潰す朝


 サビの後半部についてはあとで論じるとして、前半部を見よう。「どこかで」という言い方は「自分には感知できない遠さ」を含む。世界は、自分には見えない合図によって動き始め、自動的に続いていく。そこにあるすべてのものを歯車として巻き込みながらも、個々の変化のために立ち止まることは決してなく、全体としては何事もなかったかのように進んでいくのが外部の世界である。それが機械的な冷たい権力などでなく、すべて人間の生活でできてしまっていることを「Flare」は踏まえているからこそ、やるせないのだし、またそこから「誰も知らない 命の騒めき」を導き出す手つきが重要になってくるのだが、それはひとまず措いて、外部世界の自動性、あるいは自分との「無関係さ」について、「Small world」を参照したい。

まぶた閉じてから寝るまでの
分けられない一人だけの世界で
必ず向き合う寂しさを
きっと君も持っている

秘密のため息は 夕陽に預けて
沈めて隠していた事
どうしてわかるの 同じだったから

散らばった願いの欠片で照らされた夜も
どこかへ向かうパレードも 誰かの歌う声も
僕らにはひとつも 関係ないもの
一緒に笑ったら その時だけは全部
僕らのもの

「Small world」2021.11

 人称の使い方からしてFlareとの違いは明らかだが、先に述べておくと、わたしはこの「僕ら」に嘘っぽさを感じずにいられない。他者の根源的なわからなさは維持されているようでも、その表現は自己模倣的であり、「どうしてわかるの 同じだったから」という部分はどちらがどちらの台詞なのかわからず、あるべき境界が融解しているからだ。
 とくに考えたいのは結末部である。

どうしてわかるの 同じだったから
まんまるの月が 君の目に映る 夜が騒ぐ
ポップコーン転がっている クライマックスのパレード
関係ない世界が 僕らを飲み込む ルララ ルララ

 まひるはこの曲を「セカイ系」を補助線に解釈している。「セカイ系の発動」を「擬似熱中のパターンの一つ」としたうえで、「Small world」は「相手の孤独を想像するという「想像力」をもって自分の孤独を乗り越える契機を見出す」点で、「セカイ系」が行き着く「現実逃避」とは一線を画すと述べ、結末については「小さなセカイに「他者を想像する」という仕方で没入することで、世界に没入する契機を見出した」とまとめている。

 セカイ系について今詳しく論ずることはできないが、「君」との関係に自らを閉ざすのではなくそれを基に「関係ない世界」との関係を回復する試み、という解釈にはある程度同意できる。作詞作曲者である藤原基央も次のように発言している。

 世界中の人が何かを共有するなんてことはできなくとも、少なくともこの音楽を受け取ってくれて、この音楽を目印に集まったヤツらと見ることができる何かがあるっていうか………”Small world”の最後で〈ポップコーンが転がっている〉って歌ってますけど、多くの人はそのポップコーンに気づかないかもしれない、だけどそいつとだったらそのポップコーンに気づけるんですよ。「あそこにポップコーンが転がってる」、「わかる、俺も気になってた」って、きっとそいつとだったら一緒に言えるんですよ。俺はそういう気持ちをこの”Small world”という曲の歌詞に書いたと思います。

藤原基央インタビューより。「MUSICA」FACT、2022.4

 中山元がスピノザからカント、フロイト、ニーチェ、バタイユまを通して「笑いの共同体の理論」とまとめているように、「笑い」が外部への積極的で喜ばしいかかわりを作りだすものなら(※1)、「一緒に笑ったら」という動作も、「僕ら」を小さな共同体として成立させ、さらに外部へ手を伸ばさせる要件として見ることができる。

 しかしわたしはこの曲の結末をそのような前向きなもの、あるいは幸福なものとは捉えられない。「ポップコーン転がっている」がそれまでの「僕ら」の関係を急激に異化していること、「関係ない世界」の「関係なさ」が解除されていないこと、「飲み込む」という受動的な表現がわざわざ選ばれていることなどから、ここには避けられない亀裂が入っているように見えるし、それこそが重要なのではとも考えているからだ。

「関係ない世界」を端的に表した「パレード」という語から考えてみたい。この語をそのままタイトルにもつ曲があるが、あれも自分とは関係なく進む世界を表した言葉であり、「心だけが世界」という認識によって「弱く燃える灯り」であるところの自己を守ろうとする行為が、切迫した防衛戦として示されたものだった。しかし「Small world」との違いとして重要なのは、「パレード」に自分も参加しているということだ。

途中のまま 止まったまま 時計に置いていかれる
歩かなきゃ 走らなきゃ 昨日に食べられる

「パレード」2014.11

 いまある自己に確信を持てないまま日々に追い立てられて進んでゆくしかない状態に、華やかな「パレード」という語を用いること自体、重要な批評性をもっている。外からはきらきらと楽しそうですべて順調に見える「パレード」だが、中へ入ってみれば、全員を疎外しながら全員を走らせ続ける巨大で空虚なうねりなのだ。この曲の過剰なほどグロテスクなMVは、そうした視点でとらえた世界の不気味な増殖性を押し出したものなのだろう。また、MVの冒頭で焦点のあたる鳥のような生物は、はじめこそ悠々と飛んでいるが早々に羽を失って墜落し、ほかのヒト型の生物のように奇形化する未来が示唆される。この世界を俯瞰する視点はもはや不可能であり、「パレード」の狂騒をひとり逃れていることはできないのである。

「Small world」の「パレード」もこの皮肉を引き継がずにはいないのだ。だから、「パレード」の華々しさを相対化する「ポップコーン」へ目が向けられるし、「飲み込まれる」エンディングへ向かわざるを得ない。つまりこの曲は、「パレード」を用いた時点でその生々しさを引き込んでしまっており、「僕」も「君」も実はそこへいやおうなく与していることを認めてしまった。ゆえに「関係ない」と(一時的にでも)断言した「僕ら」のユートピアには嘘くささがつきまとう。

「パレード」が表すのは「無関係ではいられないのに主導権を持てず当事者でもない」というもどかしい位置である。「全部僕らのもの」と「僕らにはひとつも関係ないもの」という両極から成る、「関係しないまま見る」という特権的な立場が揺るがされるのは当然だろう。ショーや映画の観客を暗示する「ポップコーン」が「転がっている」さまは、この「観客」の立場の終わりを象徴的に示してもいる。

「Small world」という曲が、「飲み込む」終わりよりも「僕ら」の関係に重心をおきたがっているのは明らかだ。それでも「僕ら」が解体に至ったのは、「僕ら」を「僕ら」たらしめる外部世界の見方が、「パレード」という語に引き込まれた現実認識に勝てなかったからではないのか。むしろ、そのような現実認識が「パレード」という語を選択させ、ふわふわと浮いた「僕ら」を「関係ない世界」へ引き戻したのでは。先に引用した藤原のインタビューでは図らずもそのことが語られているように見える。「僕ら」が「僕ら」として本当に何かを共有できるのは「ポップコーン」の瞬間、つまり「クライマックスのパレード」のきらきらした膜がはがれると同時に虚構の「僕ら」が終わる瞬間なのである。

 音楽の機能を「伝える」ことへ集約させた結果、バンプの表現は、生理感覚を欠如した抽象性の中へ逃げ込んでしまう。言葉の持つ異物感を恐れるが故に、安易なメタファーとイメージに安堵するのだ。(中略)
 バンプが持つ〈斜め〉の色気。その鋭さは温存された欺瞞に切れ目をいれるような、生理感覚を帯びているはずだ。にもかかわらず、彼らが「伝える」という意志を貫徹するとき、現れる音の切れ味は鈍くなり、匂いや気配の欠いた平板さが幅をきかせる。具体的な異物感を除去したコミュニケーションの輪が、自家中毒を起こす。皮肉にも、このバンドが自らの美質を発揮できるのは、彼らの目指す、「伝える」ことの「正しさ」が失敗するときだ。

伏見瞬「米津、ボカロ人気の背景をなす…「BUMP OF CHICKEN」その本当の魅力 彼らが〈失敗〉した時に見えるもの」現代ビジネス、2020.10.18

 上は「Small world」のリリース前に出た批評だが、この曲にある亀裂を言い当てているように思われる。「レム」「キャラバン」「イノセント」などを聴けばわかるように、バンプは個人のレベルでは冷徹なほどの客観性を発揮することもあり、そのまなざしが抽象性を突き破って現れてしまったのが、「Small world」の結部なのだろう。

 世界は僕らに一つも関係ないものではないし、全部僕らのものでもない。「僕」も「君」も、それぞれが世界を構成し関係する者であり、その中に身をおかずに生きてゆくことはできない。
 「Flare」という曲が焦点化するのはまさにその部分である。

3、確定しない

「Flare」で描かれた外部世界をもう一度振り返ろう。

今 世界のどこかで 青に変わった信号
跳ねて音立てたコイン 溜息 回る車輪

「散らばった願いの欠片」や「パレード」や「歌」は出てこない。断片的ではあるが、すべて人間の作った具体物でできている、地味な色彩の世界である。

 青信号は「進め」ではなく「進んでもよい」を意味する。だから止まっていてもいいはずだが、止まる理由もないし、一人だけ止まっていたら周りに迷惑になるので、みんな進む。自分の意思で進んでいることになっている。これは生活そのものを象徴する語であろう。嫌なら仕事も学校も辞めればいい、食事もしなくていい、布団から出なくていい。けれども、嫌になったからといってすぐに放り出せない暮らしがある。行きたくなくても仕事に行き、食事をし、がんばって布団から出る。それもすべて「やりたいからやっている」ことになっている。「ごはん食べて偉い」「ちゃんと起きて偉い」などのその場しのぎの自己鼓舞が流行るのも、このシステムの圧力に耐えるのにみんな必死になっているということなのだろう。自分がいなくても回っていく世界に、それでも身を置き続けなければならない。

 この世界を、「Flare」はどのように相手取っていくのだろう。

何回もお祈りしたよ 願い事
どうしたって叶わなくて 諦めてしまった
忘れやしないけど思い出しもしない事
あなたのための月が見えるよ

昨夜 全然眠れないまま 耐えた事
かけらも覚えていないような顔で歩く
ショーウィンドウに映る よく知った顔を
一人にしないように 並んで歩く

 引用部の最後二行に顕著なのは、自己の複数化、そして外部化である。わたしがわたしに寄り添うという表現は「Smile」で結晶化されたものだが、この曲においては、自己を孤独のうちに逃げ込ませないための綱の役割も持つだろう。自分対世界ではなく、自分の外側に自分を発見することで、自分は世界に関係づけられ、世界との関係性において存在しはじめる。

あなたのための月が見えるよ

 この部分は、「Small world」の「まんまるの月が 君の目に映る」と対照すれば特徴がわかりやすい。シャボン玉のなかに二人でいて、内側から外の世界を見ていれば、すべてがシャボン玉の色に染まって見えるだろう。月でさえこの中に取り込んでしまえる。これに対し「Flare」では、外にある月を介して、さらに遠くにいる相手に思いを馳せる。「あなたのための」からは、自分の願いは叶わなかったが「あなた」の願いはせめて叶わないだろうか、あなたにとっては優しい世界であってくれないだろうか、あるかもしれない、という形での、小さいが新しい願いの生起が感じられよう。
 願いをもつことはそもそもがこの世界への期待であり、親密な働きかけである。それは一度は断たれてしまった。けれども叶わなかった自分の願いを他者のための願いへ転化することで、なおこの世界への呼びかけを保ち、つながりを断ち切るまいとしている。失望をしぶとく拒否しているように見える。

「Flare」において、自分を一人にしないというのは、自分の「ありのまま」に寄り添って我慢をほどいてやることではなく、自分の我慢や強がりに付き合ってやることであり、強がりを嘘ではない強さとして認めようとすることだ。そして強がりとは、痛みを押し隠すことではあっても、無視したり抹消したりすることではない。それは藤原が「同じことを伝えようとしている」と述べる「なないろ」に明らかである(「Flare」とほぼ同時期の制作。※2)。

昨夜の雨のことなんか 覚えていないようなお日様を
昨夜できた水たまりが映して キラキラ キラキラ
息をしている

「なないろ」2021.5

「昨夜の雨」の痕跡である「水たまり」が、「覚えていないようなお日様」を映し、そのことによって自身も光る。痛みは、それを隠す強がりを眩しく光らせ、自身もまた痛みとしての鮮やかな輝きを得る。
 藤原はこの「水たまり」を「消えてしまうもの」とも言っている。痛みはいっとき痕跡を残すが、消えてしまうということは、物語化されないということだ。代わりに、痛みから起き上がるための強がり=今日を進む意志を惹起する。都度の痛みと、それを「覚えていないよう」にふるまう強がりとの間に、そのときどきで自己は立ち上がる。ここにおいて強がりは強がり以上の積極的な表情を持ち始める。

 さらに、次の部分に注目したい。

忘れやしないけど思い出しもしない事

 忘れやし「ない」、思い出しもし「ない」という否定形の反復。これによって、中心にある概念は、それを分類しようとする言語を掬い上げながらも拒んでいる。そうして、意識化されながらも固定化をのがれ、言語の届かない場所を漂い始める。言語化されないことによる消失も、言語による変質も免れるのである。
 これは、「覚えている」でも「覚えていない」でもなく「覚えていないような顔」をわざわざ表明するという微妙にねじれた位置どりと重なるだろう。自らの奥行きをすべて曝け出すことはせず、それでいて、奥行きがあるというその暗がりの入り口は開けておくこと。不眠の中で降り立ったであろう摩擦や違和、不安を、忘れるのではなく、「覚えていないような顔」のそばに揺らめかせておくのだ。

 第一節では、内外の往還の上に現れる自己を見た。それは、「わたしは」「ぼくは」と話し出す主体にはなりえない、確定されない自己であった。確定されないという点においては変わらない。しかしここでは明らかに、不確定の場所を自ら作り出そうとしている。自分をそのようなものとして表出しようとしている。

 無痛文明においては、苦しみやつらさというものは、われわれがみずから選びとることのできる選択肢としてのみ存在する。そこではどうしようもない苦しみに襲われるということはない。苦しみは、つねに、文明の基盤をこわさない程度にまで薄められた「刺激」「趣味」として、社会の側から選択肢として提示されるのである。無痛文明とは、「本物の苦しみやつらさ」を「選択肢としての苦しみやつらさ」へと果てしなく内部化していく運動のことである。

森岡正博『無痛文明論』トランスビュー、2003.10

 この歌はそもそも、外部から与えられる慰めを拒否するところから始まっていた。森岡の言葉を借りて言うならば、「本物の苦しみやつらさ」を既存の表象に預けないことで、無痛文明の「内部化」=外の世界に苦しみが取り込まれることを拒んでいるのである。不確定の場所は、不確定であるがゆえに、外部世界が手出しできない場所として抵抗の拠点となりうる。閉じこもるための場所ではなく、そこからなお外部への呼びかけを発生させるための場所として。それが「あなた」への願いであり、「歩く」という行為である。
 こうして、外部との関係のなかに、強いられるだけでなく自ら創造される余地がひろがってゆく。それはレトリック上で「全部僕らのもの」と嘯くよりもずっと強靭なありかたに思われる。

何か探していたの そして失くしてきたの
細く歌う小さな灯火

 灯火、すなわち自分の命の、何かを探したり失くしたりしてきた足取りのかぼそい「歌」。自分以外の誰かの歌ではなく、自分以外の誰かのための歌でもない。それは自らの問いかけによって生起するが、物語でもない。言語化できないというよりも、言語化を拒むことによって生まれる不確定の場所が託されるところ、それが「歌」である。

 もちろん、不確定性は制御不可能性でもある。外部と関わりを持とうとすれば、自分の望んでいない関わりも生まれてしまうし、つながっていたいという気持ちの一方には、つながりに対する恐怖や虚しさもあるだろう。しかしそのような苦しみもまた、この歌を続けさせてゆく力なのである。

4、心と体

 バンプにしばしば見られる「心」や「体」は、自分に属するが自分から独立したものとして表象される。「体は本気で答えている」「思いを一人にしないように」(GO)「体と心のどっちにここまで連れてこられたんだろう」(話がしたいよ)など。際立っているのは「Smile」で、「心の場所」を「鏡の中に探しに行く」と始まり、「写った人」との対話が紡がれてゆく。「鏡の中」とは自分の中であり、「写った人」とはむろん自分だが、自分に尋ねる、ではなく「写った人に尋ねる」と自分を他者化している。これらも自己の外部化であり、つまり外部の世界に自分を関係付けるひとつの方法といえるが、これは諸刃の剣である。
 今あげた例と、「Flare」の次の一節を比べてみよう。

壊れた心でも 悲しいのは 笑えるから

 初めにあげたいくつかの例では、「心」「体」は自分から独立してはいるもののあくまで自分と協力関係にあった。「Flare」ではもう少し複雑になる。「笑える」という反応の基礎にある「体」という要素、これに焦点を当てて考えてみたい。

 冒頭に挙げた「生活」というキーワードは、実は作詞者である藤原が「なないろ」についてのインタビュー内で出したものである。

 生きるっていうと、もう少し情緒の部分が揺さぶられるっていうか。生活っていうともう少し行動っていうニュアンスが強まる。(略)多くの人はやっぱり、自然に起きられない時間に目覚ましをかけなきゃいけなかったり、眠くもないのに明日早いから寝なきゃと思って寝たりとか。あるいは、久しぶりに会ったこいつと飲んでる時に、もう少し遅くまで遊んでいたいのに、明日あるから早く帰んなきゃってなったりとか。全然笑える感じじゃないんだけど、笑顔で対応しなきゃいけなかったりとか。それ全部、生活だと思うんですね。生活において、人はかくもドラマチックであるというか。ほんとはひとりの人間の中にすごいコンパクトにいろいろ詰まったまんま、とっちらかって全然整理ついてないまんま、でも整然としたそのメカニカルなサイクルの中に無理してでも当てはめていくしかない人たちがたくさんいると思うんです。

藤原基央インタビューより。『ROCKIN’ON JAPAN』2021.5


 先述の通り「なないろ」と「Flare」は同時期に制作されており、歌詞も近いところに根をもつとされるが、上の発言は「Flare」によりよくあてはまるように見える。「生きる」よりも具体的な「生活」のレベルに降りてきたとき、視線はよりドライになり、存在感を増してくるのが、身体である。「モーターサイクル」や「ホリデイ」を例に挙げてもよい。このとき身体は、自分の外から自分に寄り添うというだけではない、生々しく重い抵抗体となって現れ始める。

 身体と世界との関係は両義的である。身体は物質性を備えた物としては世界に内属しているが、世界やそのなかの事象を対象として認識するという点では、世界から距離をとっているからである。

 身体的存在としての人間は、純粋な意識でも純粋な物質でもない。意識と身体とが分かちがたく一体となった存在である。なぜなら、身体自体が、ときには意識によって動かされたり認識されたりする受動的なものであり、ときには意識のように能動的なものだからである。

太字は論者による。長滝祥司『メディアとしての身体 世界/他者と交流するためのインターフェース』東京大学出版会、2022.8

 身体は自分のものではありながら決して思い通りにならない。病や怪我はわかりやすい例だが、「Flare」はそこに「笑い」をあてはめる。「笑い」は身体の動きであり、習慣の蓄積でもある。「全然笑える感じじゃないんだけど、笑顔で対応しなきゃいけなかったり」する場面では、ちゃんと笑うことができてしまう。先に引用した中山の「笑いの共同体の理論」は次のように逆転できる。どんなに内にこもりたくても、「笑える」かぎりは外部とのつながりを断つことはできない。

「ラフメイカー」が好対照だろう。この歌の「俺」は内部に閉じこもって悲しみに浸っており、外からの呼びかけも意固地に跳ねつけているうちに、自分からは開けられなくなってしまうが、やっと外からの衝撃で開くことができたとき、最後は鏡に映った自分の顔を見て、「呆れたが 成程笑えた」と着地する。「笑える」ということが外部とのつながりの回復を象徴するものであり、ポジティブな現れを持っているのがわかる。
 けれども「Flare」ではそれが悲しみにつながってしまう。笑うという身体の動きが、自らを閉ざすことを許してくれない。「メディア」=媒体としての身体をもつかぎり、「世界に内属」することをやめることはできない。ありていにいえば、死ぬことを体が拒否している。

どれほど弱くても 燃え続ける小さな灯火

 この表現も、だから両義的に捉えることができる。RADWIMPSの「お風呂あがりの」によく似た箇所がある。

愛のない日々が僕らを包み 容赦ないバイバイに 張り裂けそうになる
それでも命のロウソクはキリよく その場でフッと消えてはくれない

あぁ 美味しいカレーが 食べたいな

シングル「記号として/’I’Novel」より、2015.11

「燃え続ける」ことは「消えてはくれない」ということでもある。灯火は「いつか終わる」もの、どうしようもなく有限なものでありながら、しかしそれまでは都合よく消すことができない執拗なものでもあるのだ。「笑える」という身体の反応はやがて生命そのものへ敷衍される。

壊れた心でも 息をしたがる体

 命は自分では制御できない。心がどんな状態であろうと、体は生きようとしてしまう。命は簡単に消えてはくれないのである。
 しかしこのとき、体が心と対立し、ぶつかりあうその火花こそが、おそらく心を生き返らせている。

 下西風澄は、西洋哲学史における「心」のメタファーの変遷を追いながら、「心」に課されたあまりにも重い役割が「解除」されてゆく過程を紡いでいるが、その終着点にメルロ=ポンティの思想およびフランシスコ・ヴァレラの「生命的な心」を置いている。

 人間的な心において、強さとは完全性の別名であり、弱さとは脆弱性の別名であった。しかし生命的な心はこれを逆転させる。心はふとしたことで崩壊してしまうという意味においてはかくも弱く、しかし逆に、心はどれほど崩壊してもまた自ら生成するという意味においてはかくも強い。心の弱さとは脆弱さではなく変様することの可能性であり、心の強さとは強靭さではなく再開することの可能性である。ヴァレラが生命から考えるといったとき、これまでの意識論のメタファーでは捉えきれなかったこのような思想が萌芽している。

 たとえ心がブレイクダウンしたとしても、身体や生命は自律的な活動をやめない。その運動の持続の中から、再び心は組織化されてゆくだろう。心の指令が滞ったとしても、世界が終わるわけではない。私たちはお腹を空かし、眠り、歩き出す。少しずつ稼動する身体によって環境は少しずつ調整され、またそこから新たなる心が立ち上がってゆくだろう

太字は論者による。下西風澄『生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる』文藝春秋、2022.12


 体が生きようとする限り、心は何度でも再生する。ここに先のフレーズを並べてみよう。「壊れた心でも 悲しいのは 笑えるから」。以前は感動したものに心が動かなくなったとき、悲しいはずのことを悲しいと感じられなくなったとき、「心が壊れてしまった」という実感をもつことはある。けれども、「なぜこんなふうになってしまったのか」と失望とともに顧みられるそのときこそ、心の輪郭はその綻びにおいてくっきりと現前するのではないだろうか。傷つき痛みを覚えたときに身体が意識されるように、「壊れた心」は、まさに壊れることによって「心」として現れる。そして身体とのずれから悲しみが呼び起こされ、不感を脱出する。蘇生する。心は壊れても続く。むしろ、壊れるからこそ続くのだ。

 この曲には、能動的な移動があり、あえて決めないという意志の見える部分があった。一方で、自分ではコントロールできない揺らぎがあり、両義性があり、苦しい対立もある。みずから歩きながら歩かされてもいる。変容し、再開し、しぶとく残り続けてしまう自分。残っていくことができる自分。どちらに重心を置くにしても、もう片方が消えることはない。これらは重なり合い、混ざり合ってこの歌を駆動している。

5、揺らめきを生きる

 最後に「騒めき」と「ひと粒」について考えてみたい。

今 世界のどこかで 青に変わった信号
跳ねて音立てたコイン 溜め息 廻る車輪
誰も知らない 命の騒めき 目を閉じて ひと粒
どこにいたんだよ ここにいるんだよ
ちゃんと ずっと

巨大な星のどこかで いくつの傷を抱えても
どんな落とし物しても 全部 塗り潰す朝
また目を覚ます 孤独の騒めき 落とさない ひと粒
壊れた心でも 悲しいのは 笑えるから

「命の騒めき」といわれ、また「孤独の騒めき」とも言われるところから、「命」と「孤独」が同位であることがわかる。そうすると、「騒めき」とは、自分の中で入り混じる多様な声であると捉えられる。「騒めき」はやはり外部を認識することによって相対的に「誰も知らない」もの、「孤独」のものとして立ち上がるからである。

 騒めきは「多」である。拡散的でつかみどころのないもの。矛盾や不和を抱えて雑然と並び立っているもの。さきほどの自己の複数化、心と体にも通じるだろう。
 対して「ひと粒」は「一」のものだが、ひらがななので「個」といったほうが正確だろうか。量的に一であるだけではなく、質的にも、この世界でひとつの、特別な一だ。静かで求心的な、一個の完結した形、つまりなにかの部分ではない全体としての個。

 この二つの対照的なイメージの並びからわかるのは、「孤独」がすなわち自分の中の「騒めき」との向き合いになるということだ。多面的で矛盾もある自己の姿に向き合うことである。したいこと、したくないこと、望んだことと表裏にある望まないこと。多くの中の一でしかない自分、たった一人のかけがえのない自分。眠れなかったこと、覚えていないような顔をすること。痛むことと強がること。叶わなかった自分の願い、あなたへの願い。自分のものでありながらそうではない体。壊れた心と終わらない心。そのように生活の中でおびただしく現れる自己のいくつもの姿を、その中から一つを取り出すのではなく、まるごと「ひと粒」という全体性として感じ取りなおすのである。この行為に「Flare」という歌の際立った主体性がある。「ひと粒」というのだから、強固な全体性ではなく、その時々のささやかな、一瞬だけ現れるような全体性である。けれどもだから、「どんな落とし物しても」、その「落とした」という事実も含めて自己なのであり、「落とさないひと粒」なのだ。

 サビは計四度あるから「騒めき」と「ひと粒」の行き来も同じだけ繰り返されることになる。というよりもこれは、生活のなかで絶えず繰り返されていくことなのだろう。自己は絶え間なくほどけ、欠け、加わり、変容し、更新される。それをまるごとひとつの命として何度も編み直すのである。

 先述の通り、この世界は、いろいろなものを歯車として飲み込みながらも個々を疎外していくのだが、それはすべて人間の生活で作られている。

また 世界のどこかで 青に変わった信号
拾われず転がるコイン 瞬き オーケストラ
黙ったまま 叫んだ騒めき 掌に ひと粒
壊れた心でも 息をしたがる体

 一度目のサビから三度目のサビへはわずかな時間の経過が示されており、要はまったく違う世界ではなく同じ時間軸の上での世界の小さな変化があるのだが、ここにおいて曲の含み込んできた多義性が世界へも及んでゆく。コインが立てた音が、全体に影響を及ぼすことはないし、オーケストラは調和を目指すもので、不協和音を許容しない。しかし同時に、拾われないコインはせわしない交差点にひとり留まることを許されており、またすべてのパートがそれぞれで全体に有機的なはたらきかけをもつオーケストラのように存在する個人もある。世界は多面的に広がり、混沌としてくる。その多義性に呼応するように、「黙ったまま 叫んだ騒めき」が現れる。「忘れやしないけど思い出しもしない」という否定形の反復が不確定性を生み出していたことを思い出そう。ここへきて不確定性は否定形でなく肯定形の間に現れ、よって静的な漂いであることをやめて両極の間で白熱しはじめる。「壊れた心でも 息をしたがる体」、心と体とがぶつかり合い、この白熱は命そのものの燃焼になる。

鼓動が星の数ほど 混ざって 避け合って 行き交って
迷路みたいな交差点 大丈夫 渡れるよ
誰も知らない 命の騒めき 失くさない ひと粒
どこにいるんだよ ここにいたんだよ
ちゃんと ずっと

 世界は冷たく無機的なものではなく、ひとりひとつの心臓をもつたくさんの人間の、ひとりひとりの選択が分かち難く組み合ってできている。世界の自動性とは、関係なさとは、ひとがすべてそのように「誰も知らない」生命の固有の燃焼をもつことに基づくようになる。自分と世界との二項対立ではなく、一方向へむかう「パレード」でもなく、それぞれがそれぞれの方向を目指すカオスな「交差点」として世界は立ち現れる。こうして、「誰も知らない」は孤立を意味する言葉ではなくなる。さまざまな矛盾、対立、不確定の唯一無二の層は、自分のこの体の中にしかない。決められた自己ではなく、決まらない自己の、その決まらなさの歴史こそが、自分である。

「どこにいるんだよ ここにいたんだよ」の部分は最初のサビと時制が逆転している。自分の位置を既存の過去に求めようとすれば(どこにいたんだよ)、逆に現在に引き戻され、向き合わされてしまう(ここにいるんだよ)。しかし今、目の前の現在に向き合いそのなかで自分の位置を探ろうとしたとき(どこにいるんだよ)、これまで積み重ねてきた歴史としての過去が寄り添ってくれる(ここにいたんだよ)。自分自身にもおそらく把握しきれないその軌跡が、「ここにいたんだよ」という過去からの連続性をもって現在の自分に流れこみ、自分を形づくっているのだ。

 タイトルになっている「Flare」は炎の揺らめきを指す。炎そのものではなく、炎が風などでめらっとする動き、つまり外部に対する反応である。炎は雨風で繊細に揺れ動き、存在を脅かされる。けれども空気のないところで炎は燃えることができない。自分を脅かしてくる世界の中で、しかしそれを不可欠の要素として、炎は燃え続いていく。

 実を言えば、純粋とは、さまざまな異質のものを排除するところに生ずるものではなく、逆に異質のもののすべてを貫く、組織化された一つの秩序そのもののことだ。だから純粋さは強さと一致する。

大岡信「詩の条件」、「詩学」1954.12

 揺らめくことは不安である。自分の根本を掘り崩すような動揺はできれば経験したくない。けれども、この世界に体をもって存在し、生活してゆく以上、揺らめかずにいることができないならば、自分を能動的にも受動的にもゆらめくものとして表現することには、ある強さが認められる。脅かされること、制御できないこと、そのような弱さでさえ自分自身の不可欠の要素として数え、存在の条件として認めてしまえる、という強さである。飲み込まれもせず、逃亡もせず、自分を開け渡してしまうことなく、世界に参加し続けるという強さである。

6、おわりに

 はじめに、「生活の中で自己を肯定するとはどういうことか」と問いを立てた。生活とは揺らめいている自分のことだ。だから、生活の中で自己を肯定するとは、生活の中で現れるどんな自己もすべて自己として認めることである。これは本当、これは本当ではない、というふうに優劣をつけずに。「本当の自分はこれではない」という幻想に甘えずに。「ありのままの自分は別のところにある、我慢しなくていい」という物語が、今ここにある自分自身を抹殺しようとするのを拒むことが、生活を続けることである。望まない他者との関わりも、制御できない苦しみ痛みも、それらに耐えること、我慢することも、すべてが自分自身だからである。

 だがこれは、初めに退けたはずの「現状追認」と同じことにならないのだろうか。
 不都合な自己を正当化することが「追認」であり、不都合な自己の不都合さを消し去らないままでその存在を承認することは「追認」にはならない、とわたしは考えているが、ここには実は大きな問題があるように思う。最後にそれについてふれておきたい。

 この論では社会といわずに世界といってきた。ひとりひとりの生活の上には必ず社会があるはずだが、バンプの目にはおそらく、社会は自分の力で変えられるものとして映っていない。それは毎日必ず朝が来るのと同じような環境としてある。ゆえに、自身のありかたを変えることで、外部の捉え方、関係の仕方を変えていこうとする。それが豊かな自己の深まりに通じるのは確かだが、同時にこれは外からくる攻撃のロンダリングになりえる。逃げられなくなっているだけのことを「逃げないでいる」という能動性にすりかえ、不可視化し、自身を欺いてしまう可能性がある。これは広い意味でいえば現状の(積極的な、ゆえにより厄介な)追認であろう。「Flare」に限って具体的にいうと、「ちゃんとずっと」の部分。歌詞、コード進行、メロディに非常に説得力があるが、その「エモさ」にどことなく丸め込まれたような、曖昧にされたような感じがぬぐえない。何かが隠された、または放棄された。漠然と不安にさせられる部分である。揺らめきに大きな意義を見出している本論が「ちゃんと ずっと」という「確かさ」に吸い寄せられた結末をうまく消化できないというのが正直なところかもしれない。あるいはここに、第二節で引いた伏見瞬の批判点を重ねることもできる。「正しく」「伝える」という目的の遂行のために、それまでさまざまに湧き出していた揺らぎが「確かさ」へ、わかりやすい抽象性へ吸収されてしまったと。

 能動性を知らず知らずのうちに規定しているかもしれない制約や圧力、その不可視化について、また生活をかたどる具体性へ間違いなく手を伸ばしながらも最後にそれを手放してしまったのではという疑いについて、今すぐに答えは出せないが、これもわたしが自分自身の生活の中で解くべき課題である。だからこの論はまだ続くかもしれない。


【注】

※1 中山元『私たちはなぜ笑うのか 笑いの哲学史』新曜社、2021.8

人々は笑いあうことで、ある絆を伝えあう。笑うことで人々は自分たちを結びつける絆を確認する。そしてその絆は、笑いのなかで強められるのだ。人々は笑うことで、自分たちの生を享受するのである。
(略)
笑いはつねに小さな祝祭の共同体である。

※2 のちに引用の藤原基央インタビューより。『ROCKIN’ON JAPAN』2021.5


【謝辞】
手紙などで重要な指摘を惜しみなくくださったかむさん、電話でたくさん話を聴いてくれたあんさん、中途発表をコメダで聴いてくれた友人S、サイゼリヤで議論につきあってくれたTさん、ツイッターでスペースの感想を言ってくれたオハツさんの意見に大きな示唆をいただきました。貴重な時間をさいて話を聴いてくれたみなさん、意見をくれたみなさん、本当にありがとうございました。

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