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存在の密度

 豊田市美術館でやっていたゲルハルト・リヒター展を見てまざまざと感じたのは絵が存在であるということだった。「アブストラクト・ペインティング」では、色が、具体物の要素としての従属性から解放されて、具体的な何ものをも指示しない色そのものになって現れる位置にいる。赤とか緑とかの名前による認識がはねとばされていくスピード感と同時にその使い慣れた回路が使えず遠回りしなくちゃならないようなじれったさもあって、速いんだか遅いんだかわかんない、絵を見てるのに時間の感覚が襲ってくるのは不思議な感じだ。色は、われわれの世界にもあるけど、それに取り込まれきらないところに色そのもののおどろおどろしいまでに混沌とした、人間の尺度を適用できない世界があり、その一端がいま見えている。という印象だった。

 大きい「アブストラクト・ペインティング」が三枚並んで、天井の高いひろびろした部屋に置いてあった、その真ん中の一枚の前に立って、中央あたりを稲妻のように走る色と形とその周囲の絵具の層を見たとき、「わたしはこの絵に生まれることができなかった」と思った。この絵になりたかったとかなりたいとかより先に「なることができなかった」と思った。自分とこの絵がまったく別の存在で、この世界にそれぞれに立っており、かつ、この存在のもっている密度に自分のそれが遠く及ばないと思った。

「なれなかった」と思ったのはつまり、少なくともわたしにとって、自分と別の存在をそれとして認めることは、「自分は相手になることができなかった」という、気づいたときには既に挫折していて永遠に取り返せない「失敗」の経験を含むのかもしれない。「わたしはあなたになれない」という言い方で普遍化できそうだが、そういう時間を消去した命題的な言い方ではなくて、たしかに「なれなかった」という完了形がわたしを訪れていた。わたしはあの絵になれなかった。わたしはあなたになれなかった。自分がここにあるということは、ほかのあらゆる可能性にことごとく失敗した結果なのかもしれない。今も失敗し続けている、すごいいきおいで。

「アブストラクト」の何層にもなった色は、色が色を隠す/隠れる、もしくはのぞかせる/のぞくというふるまいによって、どこまでいっても決して把捉しつくせない大きな遠い全貌をかぎりなく背後に曳いている。かなわねーと思ったのはかずかずの失敗の累積である自分に対して「アブストラクト」がほかの可能性をそうして保存しているように見えたからだろうか。具象になる手前にいる色たち。

 同じようにあることが自分に可能かどうかはわからない。正直できないと思っている。いつまでも可能体でいられるはずがない。ただわたしはあの絵を見たときに「この絵になることに失敗した自分」という自己認識をひとつ手に入れた。そうやって未来でなく過去に向かって広がっていく可能性もあって、それは郷愁や悔恨ではなくていわば下向きに積み上がっていく地層みたいなもので、自分がここにあることの根拠を言外に示してくれるような気がする。かのものが存在するということはそれに失敗したわたしもここに存在する、という形で。

 リヒター展、というよりリヒターの作品によって、絵が画家のイメージを見る側に届けるだけの媒介ではなく絵そのものがそこに「ある」ということを、鮮やかに知らしめられた。言葉が意味へ送り届けられる手前でふと立ち止まることがあるのと同じだ。絵と詩とを等位のものとする詩人や画家の言葉をはじめて肌でつかむことができたのもこのときだった。そういえば「詩は必敗の歴史」と田村隆一の詩にあった。考えられることがまだたくさんある。

本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います