目的を見失いたくない〈1〉 遠さから話す

 「言い方」の話をする。何かを伝えようとするとき、内容と同じくらい大切な伝え方の話を、これからさせてほしい。

 いま、パレスチナでイスラエルがおこなっている前代未聞の虐殺を受けて、これを止め、パレスチナに連帯するための運動に参加しているが、参加する中で違和感を覚えることが複数あった。内実はいろいろだが共通点をいうと、目的は一緒なのに、そのための言葉の選び方や、そこに表れる態度に賛同できない、という違和感。理由もケースごとにいろいろだが、おもに、声の上げ方によって別の差別や対立に与してしまうのではないかというものだ。それはやめなくてはならないし、批判するべきだと考えて、書くことにした。「言い方を多少間違えても、発言の真意(自分が中心に据えたい意図)だけがまっすぐ伝わってほしい」という願望はわたしにもむろんあるけれども、わたしたちが思想や観念で話すのではなく言葉で話している以上、言葉選びは軽い問題ではない。

 なんかこう書くと偉そうだし、個別の言い回しについては既に批判されているものもあり(例えばイスラエルの残虐さを「狂気」「頭がおかしい」「人間じゃない」などと表現することの問題点)、わたしが今さら書かなくてもという気もするが、動機はもうひとつある。
 早くからこの問題にかかわり行動している人の中には、周囲の無関心さに苛立ったり失望したりしている人もいる。わたしがパレスチナ連帯行動に参加し始めたのは昨年12月後半で、自分でも遅すぎると思ったし(他の人が同じ感覚を持っていたらそんなこたないよと言いたくなるが)、その時点で既に行動を起こしていた人を立派だと思い、恥じ入り、気後れしている。けれども例えばもし、デモ隊から聞こえた言葉や、SNSで見かけた言葉や、運動の参加者から直接言われた言葉に、なにかいやなもの、頷けないものを感じて、つまりわたしと同様「目的には同意するのに言い方が」という違和感から、連帯に加わることを躊躇している人が、もしいるなら、その違和感を抹消せず、むしろ活かす形で参加する選択肢があることを、自分のやり方を通して示したい。
 もちろん参加しないのも自由ではある。その上で、どうしたら連帯を広く長く持続させられるのかも、まじめに考えたいと思っている。だから批判はしても今ある運動を挫くつもりはない。協働のために書く。

 もう気づかれているかもしれないが、わたしはこの文章を、多くの前置きと回り道と訂正と同じところの往復をしながら、書くことになる。誤解や単純化や自己正当化をできるだけなくしたいからだ。読みにくくわかりにくい箇所もたくさんあると思うけど、わかりやすくすることで重要なものを切り捨てる場合があることもふまえてそう決めた。焦りはかなりある、「重箱の隅をつつくような暇があるならもっと別の」と思う。でもこれもわたしにできることのひとつだと信じる。
 最初は全部整理できてから公開するつもりだったがきりがないし、パレスチナのこと以外の問題にもつながるから、広げられるようタイトルに通し番号をつけた。公開後も必要があれば適宜加筆修正をする。そのときには、自分が書いたことをなかったようにするとか、書いていなかったことを最初から書いていたようにするとかいった修正はしないよう気をつける。
 そして重要なことだが、この文章を読んでいて、私の言い方によって「傷ついた」と感じることがあれば、教えてほしいと思っている。「かもしれない」「なんか嫌」程度のことでも構わない。それ以外の疑問や批判も、わたしが長々と書いた論点に関して「既にこういう議論があるよ」という指摘も、あればどんどんもらえると助かる。これを書く前にも複数の人に話を聞いてもらい意見をもらったが、どうしても偏りは消えないので。

1、前提

 まず、パレスチナで起きていることに関する情報をぜんぜん仕入れてない、という人にむけて。持続的に情報を追っている人にも、前提を共有するために読んでほしい。

 今、パレスチナのガザ地区をイスラエル軍が連日爆撃して多数の人を殺傷し、大学や病院を含む多くの家屋を破壊し、人道支援も届かない状態にして生き残った人も餓えさせている。これは10月7日のハマスによる襲撃に端を発する二国家間の紛争ではなく、宗教戦争でもなく(まったく無関係ではないにせよ)、「テロ組織」殲滅・人質救出のための戦いというイスラエルの言い分も建前でしかなく(イスラエル軍は民間人どころか自国民も巻き添えで殺している)、イスラエルによる75年以上の占領と、違法入植、16年以上のガザ封鎖のすえの、パレスチナ人をかの地から一掃し歴史と文化を抹消するという目的のもとの虐殺である、とわたしは理解している。そして、イスラエルの態度はもちろん、虐殺を止められない・止めようとしない諸国家の態度も、ムスリム嫌悪、人種差別、植民地主義を根づかせており、日本を含む現在のいわゆる「先進国」が抱え続けているそれらこそが問題の起源だ、という認識もある。
 この問題を理解するためにわたしが頼ったものを列挙するので、まだ何も知らないという人は手に取りやすいものから見てみてほしい。

早尾貴紀「ガザ地区崩壊のプロセスを辿る」(この問題に特化しておりわかりやすい)
・臼杵陽、鈴木啓之 (著、編集)『パレスチナを知るための60章』明石書店、2016(パレスチナを文化的・歴史的に概観できる)
岡真里、藤原辰史「人文学の死 ガザのジェノサイドと近代500年のヨーロッパの植民地主義」(京大での公開セミナーの動画。現状の問題がよくわかる。とくに岡の話はこの問題の「語られ方」から問題の根源へ迫っており重要)
・現代思想2024年2月号「特集=パレスチナから問う ―100年の暴力を考える」青土社(現在の虐殺に様々な角度からフォーカスする複数の意見が読める)
・エドワード・W・サイード、ジャン・モア『パレスチナとは何か』岩波書店、1995(文庫版あり。パレスチナの人々の写真と一緒に、そこで生きることの意味を広い視野で考えている本。少しむずかしい)
・内藤正典『イスラームからヨーロッパをみる 社会の深層で何が起きているのか』岩波新書、2020(パレスチナについてはわずかだが、それも含めて戦後欧米がムスリムにどう対峙してきたかの文脈がわかる)
・ナージー・アル・アリー『パレスチナに生まれて』いそっぷ社、2010(パレスチナの国民的作家の風刺画集。パレスチナの人々が何に脅かされ、何に抵抗してきたのか、絵を通してわかる)
・ガッサーン・カナファーニー著、黒田寿郎・奴田原睦明訳『太陽の男たち/ハイファに戻って』現代アラブ小説全集7、河出書房新社、1988(中短編小説集。パレスチナの人々のいろいろな苦しさを想像するきっかけになる)

(いま読み中)
・イラン・パペ著、田浪亜央江・早尾貴紀訳『パレスチナの民族浄化 イスラエル建国の暴力』法政大学出版局、2017
・ミーダーン〈パレスチナ・対話のための広場〉編『〈鏡〉としてのパレスチナ』現代企画室、2010

 虐殺を止め、イスラエルの占領を終わらせるために具体的にしていることは以下。有志の方ができることをまとめてくれているので参考に。
・イスラエル産の製品・農作物の不買
・虐殺に直接・間接に加担している企業の商品の不買(対象はBDS Japanのガイドラインに沿っている。BDSはイスラエルへの抵抗のためにパレスチナの人が始めた運動)
・それらの企業、自国の内閣・外務省、現在最も虐殺加担度合いの大きい国であるアメリカの大使館へメッセージを送ること
・デモ参加
・人道支援への寄付
・ネット上での発言も含めて身近な人とこの話をすること

 ここで書くのは、上記のうち言葉にかかわるもの、とりわけ最後のひとつにおいて、注意深く言い方を考えたいということである。
「そんな悠長なことをやっている場合か」という焦りもあるが、場合なのだ。「注意深く」というのは、敬して遠ざけるとか、中立を装い冷静さを誇示するとかの態度とは違う。「虐殺をやめろ」「占領をやめろ」という直接的な物言いを控えはしない。イスラエルを批判しパレスチナに連帯する中でも、よけいな対立や分断を生まないように注意することはできるし、そうするべきだ、ということだ。この虐殺を止めることに加えて、将来にもう繰り返さないために、この観点は必須と思う。

2、この問題への距離 

 まず、わたしが、①どういう動機でこの問題にかかわるのか、②この問題へかかわるときどのような限界があるか、について書く。これは、①どの程度「当事者」であるのか、②どの程度「当事者」ではないのか、とも言い換えられる。
 この問題に関心のない人たちへ関心をもつよう呼びかける場合、わたしのみる限り現状では、①みんな「当事者(無関係ではない)」なのだから声をあげるべきだ、という論調が主流である。これには一部賛成するが、同時に、②わたしたち(今日本に住んでいる人たち)は狭い意味での「当事者」ではない、という点も忘れられてはいけないと思う。詳しくは後述。
 むろんこれはみんなにも同じ立場をとってほしいという意味ではない。それぞれに異なる動機がある中のひとつのサンプルとして見てほしい。自分の立っている位置を分析してみることは、運動をひとつの流行に終わらせないで続けるための、また違う立場や違う意見の人との共通点と相違点を明確にして話し合うための、足場を確保してくれると思う。

 では、①について。これにもいくつか層があるので、分けて書く。うまく分けられているかどうかわからないし、実際は分けられるものではないんだけど、便宜上。

〈個人的な嫌悪〉
 戦争が嫌い。個人でなく国家の動機によって人が人を殺す状況が嫌い。法によって許される殺人と許されない殺人があるのも嫌。

〈公正ではない〉
 いまガザのひとびとは明らかに人権を侵害されている。人権は、どんな場所のどんな人にもある不可侵の権利として認められるはずだ。それが護られていない場合があるなら、わたしは批判し、是正のために努力する必要があると思う。

・「正義」とは、各人が追求し、対立しうる「善」構想から区別され、つねに合意されうる構想として導入されている。
・「公正」とは、わたしたちが正義について合意するために、場に求められる条件であり、各人に課せられる責務である。

朱喜哲『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす 正義の反対は別の正義か』太郎次郎社エディタス、2023

 上はジョン・ロールズの「正義」についての考えを朱喜哲が整理したものの一部である。公正であることは、「内心がどうあれ、社会という『みなでとりくむ命がけの挑戦』に参画するからには遵守を求められ、それはふるまいの次元において具体的に反映されなければならないルール」(太字は原文では傍点)である、とも朱は述べている。
 すべての人の人権が護られることは「公正」であるために最低限必要なことと思う。だから、重大な人権侵害を放置することは、「正義」について合意するための条件が崩れているにもかかわらず、それを是正する「責務」を果たさず、社会参画者として守らなくてはならない「ルール」を守っていないことになる、とわたしは考える。

「いずれ自分もされる側になるかもしれないから虐殺に反対」という見方は、想像としては当然ありえるし個人的な動機としては悪いと思わないが、多くの人と共有するための理念としては少し問題があると思う。自分に不利益が及ぶ可能性があってもなくても、現時点で抑圧されている人がいるなら、それ自身として、その人は不利益を取り除かれなければいけない。「自分がされたら嫌だからしない」は極端には「自分が嫌じゃないならやってもいい」の抜け道へつながるから、「いま相手が嫌がっているからしない」のほうがよい。個々人の想像力に依拠する論理は結局「人それぞれ」になりかねないので、そうならないための共通基準として人権という概念は機能しうる(※「世界人権宣言」外務省による仮訳を参照)と考える。

〈日本国民として〉
 日本はいちおう民主制をとるので、わたしは主権の一部をもち、したがって日本の国家単位のふるまいにも相応の責任がある。いま、日本政府はアメリカへ追従するかたちでイスラエルに偏った態度をとっており(ハマスの資産凍結や、パレスチナ難民を支援するUNRWAへの拠出金停止の一方、イスラエル側には制裁なし※、防衛省はイスラエル製の兵器を買おうとしている)、結果的には虐殺を容認してしまっている。日本の主権をもち税金を払っているわたしもそれに加わっていることになる。
 また、帝国時代の日本の朝鮮半島や台湾への態度、いま抱えているアメリカ軍基地や原発の立地を考えれば、この国にも過去から現在を通して植民地主義が生きていることがわかるし、アイヌ民族や在日外国人のひとたちが直面する問題は明らかに人種差別的見地に基づいている。この虐殺を支えている思想的なしくみを日本社会も(個人のレベルから制度のレベルまで)採用していて、その住民であるわたしは意識せずともその思想に則り、恩恵を受けてしまっている。そういう意味で、わたしは無関係でも無垢でもなく、いまパレスチナの人々を殺している社会の一員である。
※UNRWAへの拠出は今月再開することが決まった。また日本が議長国となって国連安保理でイスラエルに即時停戦を求める決議を出し、採択されたが、これは「イスラエルが人質を取り返してから攻撃を再開するのに都合のいい文言だ」と批判されている。

〈あるミュージシャンのファンとして〉
 好きなミュージシャンが何組かいて(だいたい日本に住んでいる/いた)、その歌に新しい視点や生きるエネルギーをたびたびもらい、大なり小なり助けられてこれまで生活してこられたという自覚があって、とても感謝しているし恩を返したいが、それを金では実現したくない。いわゆる「推し活」を資本主義が取り込もうとしている流れに乗りたくないし、チケット代やグッズ代をギリギリまで下げて、金儲けを重視しない態度を明示している人もいるからだ。なので、自分とその人たちとの関係の中で恩返しを完結させるよりも、その歌がくれ、わたしの一部になっている視点なり力なりを、その人たちも住んでいるこの社会を少しでもよくするほうへ開いて使いたいと思う。好きな音楽の中へ逃げこむのではなく。

 次に②について。
 わたしはまずいま、ガザにいない。直接的には爆撃に関与していない。わたし個人は過去に爆撃を受けたこともしたこともなく、爆撃で家族や友人を失ったこともない。そして、わたしはパレスチナ人ではなく、イスラエル人ではない。パレスチナの占領にも、直接的には(あくまで直接的には)関与していない。その点で、狭い意味での「当事者」ではない。
 また、同じ状況にいても、パレスチナに行ったことのある人、そこに友人や親類をもつ人とわたしとでは、切迫の度合いは違って感じられるだろうし、人の痛みを感じやすいたちの人と感じにくいわたしとでは、また異なる距離感をもっているだろう。わたしはその気になれば虐殺のニュースから離れて、そんなことまるで起きていないかのように過ごすことさえできる(しないけど)。任意に無関係になれるということではなく、わたしは強い激しい感情を持っていないし、それをあえて作り出す理由ももたないということだ。
 虐殺のニュースを毎日見ていると、いやだ、苦しい、早く終われと思うけれども、その苦しみは、現地にいる人びとの苦しみ(その中にだって人の数だけ違う苦しみがある)と同じものではない。自分や自分の大切な人がもしそこにいたらと仮想することはあっても、わたしは実際にはそうではない。これも間違いないことだ。
 地理的にも状況的にも、感情としても、自分はガザからある程度遠いと自認する。

 前述のとおりここでは②を、つまり遠さを、より重視したいと思う。とくにネット上での連帯行動においてわたしが問題だと思う現象には、この遠さが見失われたせいで起こったのではと思われるものがあるためだ。
「遠くあれ」といいたいのではない。遠さは近さを無効にするものでもないし、遠いから「どっちもどっち」的に中立を装うとか、パレスチナに対して冷淡になるとか、行動を起こさないということにはつながらない。つまり、「当事者」やその近くにいる人にしかわからないこと、できないことがあるように、「当事者」ではないからこそ、遠いからこそ、見えるものやできることはないか。逆に、「当事者」に過剰に重なり、自分の遠さが失われることで、見落とされてしまうものはないか。そこに焦点を当てたい。

3、遠さを利用する/「歴史の消去」に抗して

 ひとつの例を挙げよう。
 パレスチナのヒップホップムーブメントを映した「自由と壁とヒップホップ」というドキュメンタリー映画がある。そこでの中心的存在であるラッパーグループDAMの曲「Min Imhabi」(原題のアラビア語の読みをアルファベットに置き換えたもの。「誰がテロリストだ?」の意)から、冒頭の歌詞の日本語訳を引用しよう。(アラビア語の原文も引用したいが、わたしが読み書きできず、検索のしかたもわからないので。すみません)

誰がテロリスト?俺がテロリスト?
ここは俺の祖国だぜ
誰がテロリスト?お前だよ
お前が横取りしたんだろ

先祖を殺し 俺を殺し
法に聞け?
敵のお前が弁護士で裁判官
それで俺は?死刑囚だ
少数派のままでいろと?

ジャッキー・リーム・サッローム監督「自由と壁とヒップホップ」2008より引用。訳は字幕翻訳:吉田ひなこ、字幕監修:田浪亜央江による

 この曲は、2000年にイスラエルの支配に対して起きた大規模なパレスチナ民衆蜂起「第二次インティファーダ」に共鳴してつくられ、2001年にネット音楽サイトで公開、100万以上のダウンロードを記録した。
「誰がテロリスト?お前だよ/お前が横取りしたんだろ」と彼らが責める相手は、明らかにパレスチナの占領・違法入植を続けるイスラエルである。パレスチナ人たちの抵抗運動をイスラエル政府はたびたびテロと名付けて弾圧してきた(いまの虐殺も「テロとの闘い」を名目にしている)し、9.11を大きなきっかけとして広まった「テロリスト=アラブ人、ムスリム」というイメージは、アラブ人差別・ムスリム差別を助長し、その弾圧の正当化に加担している。抑圧され差別されてきたパレスチナ人でありアラブ人である彼らが、「俺がテロリスト?」「お前だよ」と歌うとき、それは抑圧者・差別者からの暴力的な定義をはね返す、強烈なカウンターの表現として受け取ることができる。

 1で挙げた「現代思想」中の金城美幸・早尾貴紀・林裕哲の討議において、次のような発言がある。

早尾 (略)今回ハマースを歴史的な分野や国際的な政治交渉の文脈から切り離し、ガザ地区はどのような目にあってもいいというレッテル貼りがイスラエルを中心に溢れていますが、こうしたヘイト言説は、必ずしも他人事ではありません。日本では朝鮮民主主義人民共和国に対して、彼らの政治的な文脈あるいは自決権を全く無視して悪魔化するような「北」という言い方がなされます。「北の独裁」と言えば、どのような悪口を言ってもいいというような雰囲気が日本に溢れているのではないでしょうか。(略)
林 (略)日本が朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」と呼ぶことと、イスラエルがパレスチナ人ではなく「アラブ人」と呼ぶことは非常に類似しています。どちらも、相手の主体性を歴史的な存在として承認しないという姿勢です。(略)相手を歴史的存在だとは考えず、むしろ自らと相手との間にあった歴史を消去して初めて、悪魔化が成り立つのです。(略)
金城 (略)悪魔化が歴史の消去から始まるというご指摘はその通りだと思います。日本のメディアはハマースに言及するとき、「イスラーム組織」と呼びますが、ハマースの正式名称は「イスラーム抵抗運動」です。この語順の中でイスラームだけを取り出し、「抵抗」の歴史をそぎ落としています。またそのイスラームを、ハマースの軍事的な側面にだけ結びつけることで、イスラームを暴力の宗教だとするステレオタイプを再生産しており、非常に問題です。こうした文脈のそぎ落としで、歴史が消去されるのでしょう。(略)

前掲「現代思想」。強調は論者による

「歴史の消去」「悪魔化」の例がいくつか挙げられているが、いずれにおいてもその過程で「呼び名」が重大な力を持つことがわかる。
「テロリスト」という呼称もその一つであろう。つまり現在では、「テロリスト」と名指されたものはその瞬間に、背後にもつ歴史を消去される。なぜそのような行為に至ったか、至らざるを得なかったかという背景は無視され、「許されざる悪」として塗り潰され、共存など到底不可能な、排除するしかない存在として認定されてしまう。10月7日のハマスによる攻撃に対する世界の反応がそうだった。「テロは断じて許されない」。だからこそ、このハマスの行為を早尾は「〈10.7〉ガザ蜂起」と呼び、岡は「脱植民地化を求める者たちの抵抗」と呼んでいる(前掲セミナーの動画を参照)。
 言語を介したこういう広範な暴力があるとき、DAMが発した「誰がテロリストだ?」という疑問形と、「お前がテロリストだろ」という告発は、イスラエルに限らず広く国際社会の住民にも向けられている。誰が、誰を、どんな権限で、どんな意図のもとに悪者あつかいしているのか。そこにわたしはどう関係しているのか。わたしは自分がテロリストでないといえるか?そういう内省を迫ってくる表現として。

 では、字面はほとんど同じ次の場合はどう考えるべきか。
 2月、東京で行われたパレスチナ連帯デモの中で、”Israel is terrorist”というコールがされていたことを、ツイッターに投稿された動画で知った(その動画はある女性を中心に映しているが本人に許可をとっていると思えないし、ポストの文言にもその人を貶めるような含みがあるのでリンクは貼らない)。
 このコールを主導したのがどのような人なのかはわからないが、かりに、わたしならどうだろうか。占領・差別の「当事者」であるパレスチナの人々が同じく「当事者」であるイスラエルに向けて放ったのと同じ表現を、状況の異なる国で、状況の異なるわたしが使えば、その表現も異なる意味を帯びる。先述したような「遠さ」をもつわたしが、日本のデモで、大勢で繰り返し叫ぶためにこの表現を選択するとしたら、それはどんな意味をもちうるか。
 DAMが叫ぶときのようなカウンター的意義もなくはない。日本ではこの虐殺を、ハマスの「テロ」とそれへの報復という図式でのみとらえる人が少なくないからだ。けれどもわたしは、それよりも、善悪を単純化して敵味方を固定し、自問を忘れさせ、次の差別を用意する懸念のほうが大きいのではないかと危惧する。

 イスラエル軍の残虐な行為を目の当たりにして「あいつらテロリストだ」と言いたくなる気持ちはわかる。けれどもそこから「悪魔化」が始まる。同時に、「テロリスト」を裁こうとする自らへ向かう目──自分は知らなかったのか、傍観してきたのか、支援してきたのか反対してきたのか、自分は彼らに対して構造上どんな位置にいるのかという自省──も当然、鈍くなる。たとえばじゃあわたしは、今まで「テロ」とされてきたさまざまな行為の背景について、どれほど深く知ろうとしてきたか。日本が過去に自国の植民地に対してふるった暴力は?現在もこの国で続いている、沖縄や「地方」を大都市のくいものにするような植民地主義については?自分には思案があるつもりだとしても、復唱する人たちにそれも込みで伝えられるだろうか?
 件のコールは、イスラエル政府/国家のことを言っていて「イスラエル人全員が」というつもりはないのだろう。としても、コールの復唱者やそれを聴いた人のイメージする範囲まではコントロールできない。“Israel is terrorist”というコールを日本で大勢でしていたら、そして同じことが他の国でも起こっていたら、将来、「イスラエル人は全員テロリストだから追い出してしまえ」になるかもしれない。イスラエル建国のひとつの要因がヨーロッパにおけるユダヤ人差別だったことも、イスラエルのした虐殺の背景にアラブ人差別があったことも、自分や自国が歴史的にイスラエルとどう関わってきたか、その思想と自分の思想にどれほどの距離があるかということも、「テロリスト」という絶対悪の名付けの下に反省を忘れられて、いろいろな国でイスラエル出身者への迫害が起こるかもしれない。そうしたらまた同じことになってしまう。
 歴史の消去とはそういうことではないだろうか。

 急いで補足をいくつか。
 これはあくまで今回「当事者」ではない人(たとえばわたし)がデモでのコールとして言った場合にどんな問題が起きうるかという話であり、「テロリスト」という語を絶対に使うなというのではない。被抑圧者であるパレスチナの人々(たとえばDAMのメンバー)が抑圧者に対してそれを使うことをわたしが「偏見になるからやめろ」などと非難したら、それこそ正しさを盾に彼らの抵抗を無化し、抑圧を強化温存することになる。
 テロリズムを擁護してもいない。「テロリスト」という名付け行為が、問題の単純化と思考停止に結びつきやすいことを危険視している。
 また、パレスチナの人たちが命を脅かされている状況で「未来に起こりうるイスラエル人差別」の心配をするのは、両者間の非対称性を補強する行為だと思われるかもしれない。しかしこれはあくまで「虐殺をやめろ」「占領をやめろ」という主張を中心に置いた上でのことと思ってほしい。最優先は今起きている虐殺を止めること、今命が危ない人を助けることだ。その上で、抑圧・虐殺を可能にしている言葉づかいを繰り返さないようにすることも、かならず必要だと思う。この虐殺を止めるためならほかの差別やほかの不当に構わなくていいということはないはずだ。

 まとめよう。
 件のコールが、DAMの曲をなぞっているのか、それとは関係なく発されたのかはわからないので、それへの指摘にとどまらない提起として聞いてほしいが、「遠さ」を失わないということを具体的な行動のレベルで言い換えると、たとえば次のようになる。
 狭い意味での「当事者」でないときは、「当事者」たちの状況や考えや感情をどれだけ理解し同意し共感したとしても、「当事者」の言葉を自分の言葉としてただちに反復することは自制しなくてはならない。同じ言葉でも、異なる者が異なる状況で発せば異なる意味をもつということが忘れられてはならないし、それが「当事者」と「当事者」でない者という違いであればなおさら注意が必要ではないだろうか。
 これは「当事者」の言葉を広めるな受け取るなということではまったくない。あくまで「自分の言葉として」使うことを警戒すべきという話。いま切迫した状況にあるパレスチナの人びとの「言い方」をわたしは非難できないし、しない。同じ表現を同じ意味で自分が使うこともまたできない。これはむしろ、「当事者」の声だけが持ちえる深度や背景を(「Min Imhabi」にあるような)を、過度の一般化・普遍化によって漂白したり奪ったりしないための注意でもある。
 また、「当事者」が直接的にはもう一方の「当事者」へ向けた言葉であっても、「当事者」ではないわたしが聴きとったとき、そこにはまた別の、わたしが受け取るからこその意味が生まれる。わたしがもし「Min Imhabi」をDAMの一人称に重なってのみ聴いていたら、「イスラエルがひどいことをしている」「パレスチナ人の怒りは正当である」ことはわかっても、「では自分は」という自省は生まれなかった。文脈を重視することは、その文脈上の解釈しか許さないということとは違う。
 つまり、「当事者」間の言葉であれ、それが「当事者」以外へも向く潜在的な射程をもっているなら、「当事者」ではない者の手できちんと受け取ることもまた、わたしがすべきことと思うのだ。

 あるいは次のようにも言える。
 わたしのもつ「遠さ」は、思い切って言い換えれば「余裕」である。わたしには(恐ろしいことに)「余裕」がある。だから、他者の一見暴力的な行為や発言の背景を考えたり、自分の選択しようとしている言い方が含むさまざまな可能性を考えたりできる。そうして誰かを踏みにじらないよう努めることが可能である。本来は余裕がある人だけがやればいい話ではないかもしれないが、明日の生死もわからない状況で、大きな怒り、悲しみ、憎しみを抱えている人や、目の前のことでいっぱいいっぱいな人が目を向けにくいことは確かにあって、そこへ視線を向けるためにわたしはわたしの「余裕」を使おうと思う。
 繰り返すがこれは慎重さを盾に何もしないことではないし、中立を装うことでもない、冷笑やマウンティングのためには絶対に使わない。「虐殺をやめろ」「イスラエル国家に制裁を」という主張およびそのための具体的な行動と並行してやっていくことで、運動の目的を維持したいのだ。
 また、遠いほうがいいということでももちろんなくて、人の立ち位置がそれぞれに違う以上、その活かし方もいろいろあって当たり前なので、わたしは自分の立場からできることをしたい。キャパオーバーを避けるためでもあるが、より実感に忠実な言い方をすれば、わたしにはこの遠さに立つという役割があり、それを果たす義務がある、と感じている。

4、(いったん)結び

 最後にもうひとつ重要なことを書く。存在するのは理路整然とした言葉ばかりではないということだ。
 2で引用した朱は、ロールズの「憤激(resentment)を表明するひとびとは、なぜある種の制度が不正なのか、あるいはどのように自分たちは他者によって傷つけられたのかを説明する用意ができていなければならない」という一文と、これに対するスタンリー・カヴェルの批判を取り上げ、「理路整然と冷静に話せな」いことを理由に「ことばにならない叫び、憤激、不名誉の訴え」を排除するという、「正義をめぐる会話」のメンバーとしての「われわれ」が持ちうる暴力性を論じている。
 今回のことについて、わたしは狭い意味での当事者ではないが、いちおう論理をつかって長い文章を書く「余裕」があるという点で「われわれ」の側にいる。何をすべきか、しないべきか、何が望ましいかを話し合うことができ、「ことばにならない」声を締め出す力をもった「われわれ」である。
 そのうえで朱は、先のロールズの一文をむしろ「われわれ」側に向けられているものとみなす。

 会話における「われわれ」という単位においてはたらく「力」を警戒することは、そのはたらきを自覚し、みずからもまたこの力を行使してしまう責任をもつひとりとして、会話の正規メンバーである「われわれ」単位において抑止することでした。そして、そのためにも「正しいことば」によって表明される理念は欠かすことができないのです。
 わたしたちは、こうしたベクトルにおいて対立する複数のことばづかいのどちらも手放してはいけません。どちらのくぼみにも倒れこんでしまわぬように、せいいっぱいバランスをとって、蛇行しながらでも前に進んでいくために「正しいことば」を乗りこなさなくてはいけないのです。(略)
 この次なるメンバー──世代的なことだけでなく、現時点での「われわれ」にはいないとされていたアイデンティティを保持する存在をもふくめた、将来ありうる構成員──に対してわたしたち負っている義務として、わたしたちは「憤激」をもまた「正しいことば」によって表明できることが望ましいのだと伝え、またみずからがその使いこなしの手本を提示しつづけなければならないのです。

前掲朱。太字は原文では傍点

 この文章では「当事者」とそうでない者という区別を基準にしてきたが、「当事者」でなくても「憤激」を覚えることは当然あるし、「当事者」でない者すべてが冷静でいられるわけではない。そこにも濃淡がありそれぞれに個別の体験や性質がある。その中で、わたしは自分のもつ「余裕」と、話すこと書くことを苦手としない性質を生かして、できることをしたいのだ。
 朱の提言と、ここまで書いてきたことを合わせて考えると、わたしがすべきことはこうだ。「ことばにならない」声がある空間を押しつぶさず、そのような声を上げさせている「不正」にこそ目を向け、それがなぜ不正であるかを「理路整然と冷静に」説明するための多様なノウハウを学びながら蓄積していくこと。
 そしてこのことは、他者の言葉と自分の言葉との間に、優劣や支配や依存や同化や無視ではない緊張関係を保つことで可能になると思っている。

 ある問題に対する自分の距離を見定め、「当事者」の言葉に重ならず排除もせず、その言い方の背景と文脈を考え、自分の選択する言い方が抑圧に資することのないよう注意を払うことを、この文章ではとりあえず必要なこととして挙げた。わたしが「われわれ」の一部として果たすべき義務を、わたしなりの実践のかたちになんとか言い換えたつもりである。まだ続ける。

補足

・人権については以下を参照した。
申惠丰『国際人権入門 現場から考える』岩波新書新赤版、2020
申惠丰『友だちを助けるための国際人権法入門』影書房、2020

・朱喜哲『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす:正義の反対は別の正義か』は、「正義」とか「公正」とかの、現在の日本ではどこか空虚に響く「正しいことば」をうまく使うには?という課題のもと書かれている。わたしが買ったときは帯に「正義は暴走しないし、人それぞれでもない」と書いてあった。これを読むだけでも、本書と問題意識を共有していると感じる人は多いのではないか。異なる利害をもつ人どうしが一緒に営んでいる社会の「コミュニケーションという公道」において、どんなふうに話せば「事故」が起こりにくいのかについて、多くのヒントを与えてくれ、分断を起こさない言葉づかいを模索するのにとても助けられる本。おすすめ。

・次へのメモ。共感のデメリットについて、他のいろいろな「悪魔化」について、「ふつうの人間なら」という言い方の問題点について。

・ツイッターのスペースや電話で話を聞いてくれ、意見交換をしてくれたみなさん、本当にありがとうございました。またよろしくお願いします。
 はじめにも書いたが批判や疑問は小さなものでも歓迎します。

本買ったりケーキ食べたりします 生きるのに使います