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私は詩の可能性に棲んでいる【エミリ•ディキンスン#657】

アメリカの詩人エミリ•ディキンスンの代表作のひとつ『I dwell in Possibility』を訳してみよう。まずPossibilityとはなんだろうか。当初、可能性には二つ意味があると思った。自分の詩作が認められる可能性と、もうひとつは詩という表現形式の可能性である。まず原文をあげよう。

I dwell in Possibility —
A fairer House than Prose —
More numerous of Windows —
Superior — for Doors —
Of Chambers as the Cedars —
Impregnable of Eye —
And for an Everlasting Roof
The Gambrels of the Sky —
Of Visitors — the fairest —
For Occupation — This —
The spreading wide my narrow Hands
To gather Paradise —
(#657)

一行目を先輩諸氏はどう訳しているか?
わたしは可能性に住んでいる(新倉俊一訳)
私は可能性の中に住んでいるー(千葉剛訳)

どちらの訳も抽象的だ。どちらの訳でも家や窓やドアが何なのか、判然としない。第一連の二行目に「Prose=散文」とあるので、やはりこれは詩文と散文のちがいを詠っているのだろうと思って、Helen Vendler女史の『DICKINSON』の「I dwell in Possibility 」を参照すると、ずばり散文との比較と読みきって解説をしている。それを参考にしながら、ポイントをまとめた。

第一連の最初にあるのは、散文よりも美しい家とは建物全体や外壁のイメージ。数えきれないほどの窓というのは、詩作の数である。生涯に1800も詩作をしたディキンスンの面目躍如だ。ドアはきれいというのは、詩のタイトルのことだ。

第二連では、杉の部屋という表現が出てくる。家のなかにはいると、美しい杉板でつくられた部屋があるのだ。二行目の「Impregnable of Eye」が何か、ずいぶん考えた。「目も侵せない西洋杉(新倉訳)」「眼には難攻不落(千葉訳)」のどちらもしっくりこない。

ずっと考えて閃いた。目は杉板の節目のことだ!そう考えれば、Impregnable=難攻不落という意味もつうじる。ここはあえて城をイメージしてみた。屋根の表現は素直に読んだ。切り妻型の屋根の形状が空を切るように立っている、という情景である。

第三連にある「訪問者」とはだれだろう?これは、この家の窓やドアから入ってくる詩作の素をいっているようだ。それはときに人であり、ときに動物であり、ときに風であり…。それをもとに詩にするのが詩人の仕事。それが彼女にとってパラダイスなのだ。

訳してみよう。

私は詩の可能性に棲んでいる
散文よりも 美しき家(ルビ:かまえ)
もっと 数多い窓(ルビ:表現)
もっと 素晴らしき扉(ルビ:タイトル)

部屋の杉板には節目あり
孤城を守る鉄砲穴のよう
永遠につづく屋根の稜線は
空を合掌形に切りこんで

すばらしき訪問客(ルビ:詩のもと)
そのはたらきは
私の細い手を広げて
天国をにぎらせること
(ことばのデザイナー訳)

散文と詩文の違いとは…
詩の家は感情の家 自分から湧き出るもの
散文の家は感動の家 対象から感じ取るもの

詩人エミリはアマーストの家にひきこもった。その家は両親が亡くなってから、ますます「詩の家」になった。詩への賛美歌にとどまらず、詩の散文に対する優位性にまで高めた素晴らしい詩である。

余談だが、ぼくは中学生の頃、友人からこういわれた。「きみは詩を書くべきだ」と。ぼくが下手くそな散文をだらだらと書いているのを見かねたのだ。湧き出る一行にすべてをこめろ、といったのだ。今でもそのアドバイスは有効であるのがシャクだ。

※2020年7月3日に公開した記事を全体的に見直し、再度掲載しました。


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