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鐘が鳴り止むと 礼拝が始まる【エミリ•ディキンスン#633】

トーマス•ジョンソンの『エミリ•ディキンスン評伝』の第6章は難物である。翻訳が抽象的なせいか、何度も行きつ戻りつした。実は2ヶ月以上、第6章で立ち往生していた。飛ばそうかと考えたが、この章を無視して先に行くのは敗北感がある。なぜならこの章は本書のピークでもあるからだ。そしてついに正体がつかめてきた。ジョンソンの主張が間違っているからだと思い当たったのだ。

まず、この章の冒頭の一文を引用しよう。

ディキンスンがその後、いくたびも立ち帰る二つの言葉は、「畏敬」と「周辺」である。ひとつの次元では、彼女はそれらを宇宙の広がりと未知なるものに結びつけており、ディキンスンの宗教的な考え方として解さなくてはならない。しかし同時にそれは詩論としても展開されているので、それも意味に含まれている。詩をつくる彼女の意図は、自分が深い刺激を受けた事物や思考から「畏敬」を引き出し、それに「周辺」を与えることなのだ。(『評伝』P215)

畏敬とはなにか。「神の姿」「敬虔なる怖れ」であるという。それがエミリの詩作の源泉であると。それは正しいと思うのだが、問題は「周辺」である。エミリが師と仰いだヒギンソン氏への手紙にはこうある。

「たぶん先生は私をお笑いになるかもしれません。それでも口にしないわけにはいかないのです。私の仕事は周辺です」(同ページ)

周辺とはCircumferenceという語の訳だ。原意は「周り」で、たとえば湖の湖畔ぐるりはCircumferenceである。「畏敬(awe)」の周りのことだといわれても、よくわからない。もうちょっと言葉を掘り下げていこう。聖書は中心であり、エミリはその周辺にいるという。エミリは友達にこう手紙で書いた。

「聖書は周辺ではなく中心を扱います」その前後の文脈から考えると、聖書が戒律を並べたり、あるいは具体的な道徳を予言したり説いたりしたことを、彼女は指している。ディキンスンの思考の傾向や彼女の詩の内容のパターンから推測できる限りでは、「周辺」という言葉は人間や自然や精神などの一切の関係のなかに、自己の想像を投射することである。(同書P226)

せっかくエミリの思想の根っこまできたのに、ジョンソンは抽象論で逃げてしまっている聖書は中心なのである。それは戒律や道徳なのだ。そしてそれを伝える毎週日曜日の教会での祈りから彼女は去り、ついにキリスト教に帰依もしなかった。なぜならばそこにエミリの信ずる神がいなかったからだ。あえて引きこもりを選んだ。それがエミリ•ディキンスンという人間だ。

ここで、第6章でジョンソンが選んだ詩を1篇あげよう。

When Bells stop ringing — Church — begins
The Positive — of Bells —
When Cogs — stop — that's Circumference —
The Ultimate — of Wheels.
(#633)

新倉訳では「鐘が鳴りやむとき 礼拝が始まる 積極的な鐘がー 歯車がやむときーそれは周辺 究極の輪だ」と訳しているが、どういう意味かさっぱりわからないジョンソンが書く解説「この19語の四行連は、経験の真の意味は感覚の中に見いだせないという考えを表している。」も、そうとうに意味不明である。翻訳のせいだけじゃあるまい。私はこう考える。

この詩は教会を描き、自分の信仰のありかを告白したものだ。

「鐘が鳴りやむとき 礼拝が始まる」Positiveとは「積極的に教会に参加する」という意味であり、「鐘の音」とは「神を信ずること」ではないだろうか。一方で、鐘を鳴らす“機械”とはなんだろうか。教会あるいは聖書という「中心から外れた」ところで回っている歯車があるのだ。Cog wheelは「はめば歯車」という意味で、歯車のかみ合わせのことだ。

教会の鐘はどうやって鳴るのか?かつては人がロープなりを引いたりして鳴らした(オルゴール式もあったようだが)。エミリの故郷アマーストの教会の写真を見る限り、手動であった。

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この画像で鐘は歯車の回転で鳴るのがわかる。それが周辺で詩を書いているという意味なのではないか。教会の中ではなくて外で回っていても、それはエミリの考える「究極=Ultimate」の場なのである。

633番を訳してみよう。

鐘が鳴り止むと 礼拝が始まる
教会を信ずる人の鐘
歯車が止まると そこには異端

究極の信仰の環
(ことばのデザイナー訳)

エミリ•ディキンスンを理解するキーワード「awe(畏敬)」と「Circumference(まわり)」の尻尾をつかまえつつある。今後数回、第6章と格闘していく。



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