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2021年所信表明

自分語りをしたいと思った。

誰かに聞かせるにはつまらないことは知っている。
自意識過剰だとか、ナルシストみたいで嫌だなという気持ちもある。
ネットに投稿するということに不安もある。
でも、誰かに聞いてもらいたいという欲もある。

それに、私は忘れやすい。
文章で残しておかないと、どんどん消えていく気がした。
私にとっては大切な思い出や記憶が薄れていくことに恐怖を覚える。
自分が何を考えていたのかも忘れてしまう。
たまに過去のtwitterの呟きを読むとそんなこと思っていたのかと驚くことがある。そして、当時の自分の暗さにもびっくりする(笑)
今回はそんな私の2021年最初のnoteである。
面白コンテンツとは相反するものですが、「時間を割いてやっても良いよ」って稀有な方は読んでもらえたら嬉しいです。

理由

まず、なぜ自分語りがしたくなったかと言うと、最近、TVに出ていた芸人さんが言った言葉が自分の中に引っかかっていたからだ。
以下のような内容だった。

自分が死んだら何も残らない。でも本は違う。後世の誰かが読んで、「こんな人がいたんだ!」って思ってくれるかもしれないじゃないですか。

この言葉で思い出したことがあった。
中学生時代、別に悲観的になったとかではなく、”死”について考えたことがあった。
もしも自分が死んだら、誰か悲しんでくれるのだろうかと。
そう考える時、決まって有名人や人気者はいいなぁと羨んだ。だって、たくさんの人が覚えていてくれて、後世に語り継いでくれて、人の記憶の中に存在として生き続けられるから。
生き物は必ず死ぬ。
死んだら、何も残らないなぁ。当時の私はそう思った。
生物学的には遺伝子を残すことで受け継がれると学んだけれど、じゃあ、もし、こどもを持たない人生だったら・・・
「もしも孤独に生きたら、ただ生きて死んで、自己満足で終わる人生だ・・・」
中学生の私は半ば諦めた気持ちだった。
そんな私も今ではもう良い大人になった。
“諦め”の気持ちを持ったまま、大人になった。


自分

人の言動に敏感な方だ。私は自分のことをそう思っている。
人に言う時には頑なに認めないし、他人事のように言うけど、本当はそう思っている。
自覚している自分はそうであっても、敏感過ぎるは良くないと思いながら生きてきたから“否定”する。

だから、人の反応に敏感な人の話を聞くと、良く分かるのに「気にし過ぎだよ。」と言ってしまう。
自分だったら、「そう言ったって、気にしてしまうからどうしようもないんだよ!」と言いたくなるだろうと思いながらも、共感や慰めの言葉を欲しているような気がしつつも、
「そんな時もあるさ、人間は完璧じゃないもの。」
「そんなに人は他人のことなんか気にしていないさ。」
自分に言い聞かせるのと同じように、相手にもそう伝える。
それは、気にならないようにできるのであれば、それが一番良いと自分が信じているから。
本人が変えたいと思わない限りは変わらないと自分が思っているから。
本人がどうしたいか関係なく、自分の考えをもとにして否定してしまう。
そうやって自分に言い訳をして、自身の嫌いな部分が他人から見え隠れすると「そうではないよ」と否定してしまうのだ。
そもそも、寄り添って聞く時と、ばっさり話を切ってしまう時とでは相手の反応が変わるようで、どうすれば良いのか分からない。
突き放すと少し悲しそう。
寄り添うとそこにとどまる。
そんな雰囲気を感じるのだ。


先日も同僚からの言葉に対して変に達観した言い方で返してしまった。
未だにどう反応すれば良かったのか悩んでいる。

誰かに相談する時、私自身は寄り添ってくれる人を探してきた。
寄り添ってくれる人はいたけど、その優しさに甘えてしまうから、時間が立つほどに重さに耐え兼ねるようだった。
重さを分散させれば良いかと思ったけど、それもうまくできなかった。
そもそも、他人を拠り所にしようなんて考えが”弱さ”を生むのだと思った。
人は揺らぐ。変わる。
絶対的な存在にはならない。
普遍ではないもので自分を支えようとしたら、それが無くなった時、転けるだろう。
支えられて歩いた時間が長いだけ、足腰も弱り、自分で立ち歩くことができなくなるだろう。
人はこれを”依存”と呼ぶ。
頭では理解していたけれど、無い物ねだりしたもの。
健全な関係ってなんだろうとずっと考えていた。

足掻き

それからの私は、人には依存しないように、自分が好きだったものを回収して回った。
好きだった作品、好きだったアーティスト。
好きだったのに、のめり込み方が分からなくて通り過ぎてしまったもの。
それを好きだと言うことに恥ずかしさを覚えて、離れてしまったもの。
いろんなものから手を離してきてしまった。
そんなことをしていても生きていけないし、自分には余裕がないと諦めてきてしまった。
もったいないことをしたと思うけれど、もうここまできてしまったのだから、また一から手を伸ばすしかない。
子供の頃の感覚ではもう触れることができない。
今更伸ばした手で、欲したものが掴めるのかも分からない。
空っぽの自分を満たしたいという渇望。
今のまま終わりたくない。

現在

実はそう思った後もやっぱりのめり込み方が分からなくて彷徨っていた。
多分それは、人と話すことで埋まるものだったのかなと今となっては思う。
アウトプットが苦手な私が無意識に避けてしまってきたもの。
努力を怠った結果だと思った。
だから、何らかの形で表現をしたくなった。
こんな文章を書いたって、何の役に立つか分からない。
だらだら書いても仕方ないのかもしれない。
そうやって思考ばかりして何もしない自分を少しでも前に進めるために。

私はアウトプットの練習をすると再度決意した。

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