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現在と回想

「大人なんだから任せるよ。」

 初めて言葉に出して言われた。
 働くようになり、心配をかけながら生きてきて、心配をかけまいと生きてきて、言葉として初めて貰った。もしかしたら、以前から態度としてはそうだったのかもしれないけれど、思っていたよりずっと感慨深い。


 "人間は社会性を持つ生き物である"なんてことをよく聞くけれど、人のコミュニケーションは、言葉であったり、態度であったり、いろいろなものを脳が解釈して行う。同じ地域にいる場合は、共通言語が多いのだと思うし、背景が違えば異なってくる。
 極端な例で言えば、国が異なれば一つのジェスチャーをとっても、国々により捉え方が大きく異なるなんて話がよく話題に出てくる。小さな話で言えば、同じ地域の個人においても、ニュアンスが違っていて意図したように伝わらないこともある。そうしたすれ違いは"社会の最小単位"と言われている家族でも有り得ることだと思う。

 だから、本当は言葉の解釈なんて個人レベルで違っているのが当たり前なのかもしれない。私が受け取った言葉の解釈も発言者からすれば違うことなんて往々にあるだろう。
 子供の頃はそこまで考えていなかった。徐々に年を重ねるにつれ、そのような思いが強くなった。頑張って共感しなくちゃ、と躍起になっていた昔を思うと、他人の心が"正確に"理解できなくて当たり前だと思えるようになった。自分を通して世界を見ているから仕方ないと思えるようになった。ようやく、自分と他人の境界線が出来てきたのだと思う。


 そこでふと、"理解できなくて当たり前"を突き詰めてしまうと、他人を思いやらない考え方になってしまわないかと不安になった。「自分を大切にできなければ、相手も大切にできない」そう伝える文章を目にする度、自分を大切にした結果、自己中心的な考え方をしてしまうのではないかと不安になった。余裕を持てるようになりたかったけれど、人に嫌な気持ちをさせてまで余裕を持ちたいとは思わなかった。
 だから、私なりの努力として、その人の立場を考えるようにしようと思った。ルーティンで考えることはまだできないけれど、その回数を多くしようと思った。思いを馳せること、想像を巡らすことならできる。それが的を射ている場合もあるし、間違っている場合もある。なんたって、考えたところで出てくるのは、全て私の頭が考えつくケースだけなのだから。でも、考えないよりは思いやれるのではないか、冷静に考えられるのではないか、そう考えた。


考えているけれど、出てくる言葉が違うことがある。
常に考えているから、出てくる言葉もある。

 思考面が雁字搦めだからか、私自身はなかなか言葉に出せないことが多いけれど、そんな時は尊敬する友人や先輩・後輩、上司をお手本にしよう、そう思っている。


今日は何気ない言葉が嬉しかった。
個人の解釈だとしても、自分が貰って嬉しかった言葉は覚えておきたい。
同じ言葉にはならないかもしれないけれど、いつか、誰かに伝えられるように。

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