見出し画像

人生の責任を取らずに逃げ続けた者の末路⑨



■やっと自分と向き合う時が来た


前回まではこちら


◆自分と対峙する覚悟を決めた

一連の出来事を整理したくて、私は潜在意識や無意識の部分の《とくに自分が見たくない》部分と対峙する覚悟を決めた。

そんな覚悟を決めると、現実ではまたそれに紐づく現象が起きるのだ。

なんと、母親が痴ほう症だと診断されたのだ。

母親は、今の自分が一番見たくない部分の本丸だ。

母の痴ほう症発症と共に、これまで二世帯住宅で一人で好き放題暮らしていた85歳の母親と、50歳を過ぎた兄妹3人で対峙することになった。

母の痴ほう症が発症したのと同時期に、一人暮らしをしていた妹の腎臓病が悪化し透析が必要となり、退職を余儀なくされた。

そして妹が実家の空いている二世帯住の離れに引っ越すことになったのも、私だけではなく、兄も妹も人生の責任を取る時期が来たのだと思った。

この母親問題をクリヤーにすることは、50歳を超えた私たち兄妹3人の、人生の課題なのだ。

妹の引っ越しにかこつけて兄妹3人と兄嫁の合計4人で、毎週のように実家へ片付けに行った。

戦前生まれの物に乏しい時代を生きた母は、『不安感』から物に対する執着が異常なほどに強く、一人暮らしの二世帯住宅は、誰彼かまわずもらってくる物から買い物依存で溜め込んだ物まで、じつにトラック4台分以上の物で溢れかえっていた。

(業者に依頼したら50万円では済まないだろうというレベル)


所狭しと置かれた服や物たち⇒これはほんの1室

たまたま兄嫁の稼業でトラックを所有しており、それを借りて私たちが片付けに入ったのだが…

そこからは鬼の形相で怒り狂った母親から、「お前ら人の物に勝手に触るな!!」と怒鳴られ、「帰れ帰れ!」と蹴られたり、酷い罵声を浴びせたり、私たちは皆いい大人なのに、みんなで泣きながら片付けをした。

捨てても捨ててもまた拾ってきて隠すので、一年以上かけてやっと半分くらいまで減らしただろうか。

母の行為は病的で、溜め込み症という病名もある精神疾患だ。

私たち子ども3人がいなかったら、おそらく行政執行の対象になっていたくらいのレベルだった。

片付けと並行しながら「行きたくない」とごねる母親を無理やりメンタルクリニックに連れていき、認知症の診断結果が出てからすぐに車を取り上げた。
(車を乗ると言って聞かないから病院へ連れていったのだった)

免許返納に至るまでに半年以上かかった。

◆母親を赦し自分と向き合う

私は3人兄妹の真ん中だった。

4歳上の兄は初めての子で長男ということもあり、私から見たらいつも特別扱いだった。

そして4歳下の妹は、小さな頃はおっとりしていてとても可愛らしく、家の中ではちょっとしたアイドルだった。

真ん中の私は兄と喧嘩をすると、いつも「お兄ちゃんの言うことを聞きなさい」と叱られた。

そして妹と喧嘩をすると「小さな子をいじめるな」と叱られ、なんとも理不尽な扱いを受けて育った。

親の言う理論であれば、妹と喧嘩をしたら妹の方に「お姉ちゃんの言うことを聞きなさい」と言い聞かせるべきだと思ったし、そうではないと言うなら妹と喧嘩をした時に言われた「小さな子をいじめるな」を、兄にも言うべきではないのか?

そう両親に指摘すると、「子どものくせに生意気だ!」と頭を殴られ、「女のクセに可愛げがない」とガミガミ言われて、いつも悔しくて泣いていた。

こんな環境で育った私は、いつしか「親(大人)は都合の悪いことは認めない嘘つきだ⇒親(大人)は信用できない⇒自分以外は信用できない」という観念が強固になっていった。


母親には、物心ついてからこれまで、一度も私の話を聴いてもらったことがない。

母にうっかり話しかけようもんなら、いつも自分の話を被せてきて、最終的には(○○のせいで)いかに自分が不幸な人生なのかを、延々と語り出す時間泥棒であった。

(母は被害者意識と自己憐憫の塊だった)

母親と接している間の私の時間は、いつも母が(愚痴を言って)スッキリするための時間だったのだ。

3人の兄妹がいる中で、この役割は長女である私が一番大きく担っていた。

そんな母のことを、私はなかなか赦せなかった。

母を憎んでいる自分、母を赦せない自分を赦していなかったし、自分で自分をずっと責め続けていたのだ。

心理カウンセラースクールの初めての授業で、親は子どもに対して条件つきの愛を与えるが、子どもは親に対して無条件の愛しか与えないと習ったことが、とても衝撃的だった。

つまりどんなダメ親であっても、子どもは無条件でありのままの親を受容しようと一生懸命に愛を表現するのだ。

なので、ありのままの親を受け入れられないと感じると、そんな自分が赦せなくなり自分を責めてしまうのだ。

赦せない自分を見たくない状態なので、自分を掘り下げることなんてできなかったし、自分を責める氣満々で自分の過去を振り返るワークなんてとんでもなかったのだ。

そして「風の時代」と言われ始めた頃から、次々と起きたネガティブな出来事は、私にとっては膿出しであり、心の浄化であり、デトックスであり、今世の課題に氣づいて、人生を終えるまでに乗り越えなければならないことを明確にするためのものだったのだ。

別の世界線に行くためにはこの課題をクリヤーし、心を整える必要があるのだ。

◆被害者意識を手放す

人生の責任と取らずに逃げ続けた者の末路と題して、ここまでざっと数日で書いてきたのだが、読んでみていかがでしょうか?

出来事の視点が被害者だとお感じにならなかっただろうか?

逃げずに自分の人生の責任を取るためには被害者意識を捨てなければならないのだが、意識は思いっきり被害者目線だったことにお氣づきになった方も多いのでは?
(当時を回想しながら書いたというのもあるが)

デヴィット・R・ホーキンズ博士の『意識レベルのマップ』によると、被害者意識はレベル20~30で、意識レベルで言うと一番底辺なのだ。

最低でも、意識レベル200勇気(許認)までは上げないと、目の前の現実は上手くいかないのである。


精神科医デヴィッド・R・ホーキンズ博士の著書「パワーか、フォースか」より引用して作成


意識レベルが底辺のままだといつまでも向いている意識は底辺なので、上手くいかないのは当たり前だし、いつまで経っても今の世界線から抜け出せない。

しかもこれを無意識で選択し続けているのだから、コワイなんてもんじゃない!


では、どうしたら被害者意識は手放せるのだろうか?

ここで自分を認めて癒すという行為が必要となってくるのだ。

傷ついたままの状態で時が止まり、心がまったく癒されていないから、いつまで経っても被害者のままなのだ。

その時に感じた怒りや悲しみを、感じないふりをして封印してしまったままでは、いつまで経っても心はまったく癒されない。

例えるなら、体に深い傷があるのに、上から絆創膏をペタっと貼ったとしても、何かの拍子に絆創膏が剥がれてしまったら…
そこを触ればまた傷口が開いて血が出てくるよね?

それと似ている。

深く傷付いた感情があるのに痛みを感じないように誤魔化すこと⇒絆創膏を傷の上からペタっと貼る行為

この【痛みを感じないように誤魔化すこと】の中に、占いやらヒーリングやら、浄化やご祈祷(宗教も)なんかが含まれている…と、私は思っている。

(これがスピリチュアルに逃げている状態)

何かの拍子で絆創膏が剥がれてしまうのはどういう状態かと言うと、似たような体験をした時かな。

それをフラッシュバックともいう。。。

被害者意識を手放すには、まず自分がこういう状態なのだと知って、それを認めることから始めないとね。

⑩につづく・・・


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?