思考を言葉にするときに失われるふわふわと、箱について

思考停止しないと思考できない。
頭の中にふわふわとした観念があるとしよう。(もちろん、思考の場としての頭の中、も、ふわふわした観念、も、誰も観測したことがないから比喩表現だ。)ふわふわはあらゆる方向の仮説を連れてくるので、「考える」とは、思考の方向性を見定め、他の気になるふわふわをばさばさと断ち切る作業でもある。

さらに思考を言葉にするときはもっと沢山のふわふわを殺す。内容は表現物に置き換えられて初めて形をもつので、表現物を曲がりなりにも他者にとって解読可能なものにしたいと思うなら、内容と表現のつながりが安定している言葉、自分が使える数少ない言葉の箱にばっさばっさとふわふわを切って詰めて、なるたけ開けやすく梱包して手渡す必要がある。もちろん、当初のふわふわとその箱=表現したいと目論んだものと表現されたもの、の間には乖離がある。私はできるだけ乖離の方向性を誠実に選びたいし(選べるのが乖離だけだとしても)、できれば、できるだけ乖離を少なくしたいと思う。

世の中で言葉になっているものと、なっていないものがあるとして、ちらちらと目の端に見えているような、言葉になりそうでなっていないものが気になる。車窓を流れる雨を見るのが何より楽しいこと、人が大勢黙っている場で1ミリも手を動かしたくない時の安心感、秋の夕暮れの数日は5歳の時のアパートの床を連れてきて、今がいつなのかわからなくなること。自明であるはずの状態の輪郭がぶれるとき、「ほんとうに何が起こっているかわからない」という未視感がやってくる。そしてその時感じたことを、つぶさに確かめたいと思う。

世界をよりよく見るために画家が絵を描くように(人はモノを見るときにたくさんの情報を捨てている、と絵を習った時に教えてもらった。執拗に「見る」ためにするのがデッサンなのだと。デッサンは目を鍛えるためのものなのだと。)、世界をより知るためには、それを再現することだ。完成度は置いておくとして、わたしのマンガのいくつかはそういう動機で描かれている。あったことをより分かりたい。分からないまま消えてくのはちょっと、納得がいかない。

そんなことやってどうするの?と言われたことは幸いにして無いけれど、気になる、できる、やる。以外に意図はない。経済合理的な動機はない。そして、他の人が「気になって、出来てて、やってる」作品を見ると、ふるえるし、私もやりたいと思ってしまう。世界を知りたい。

もしも、芸術とは何かと問われれば、記号を更新する仕事だと答える。私たちは記号を使わなければ思考すらできないけれど、記号が古くなって錆ついたり、記号になってないために存在しないことにされているところを、極めて主観的に独善的に切って貼って箱に詰めて、自分に(他者に)みえるように設えて差し出し、ああ、世界はこうなのか、と思わせてくれる仕事。

だから作るためには目をきたえて、はさみを磨いて、箱を増やす必要があるなあ。何にも書けないのは文体がないから、何にも描けないのは絵柄がないからだ。(この文章も苦労しているよ…。)

作家活動を続けるには経済的なことも考える必要があることは承知の上でも、一番やりたいのは売れるとか役に立つとかより、上のことだ。何にもあの世には持っていけないけど、あの世の一歩手前で手に持っているものが、交換可能で役に立つものばっかりだったら恐ろしいと思う。わたしにしか大事じゃないものを集めたい。世の中なんてこんなもんかと思うたびに、未知に殴られ続けたい。

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