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2020年10月5日のこと:須藤圭太

読書感想文 No,5
「語りきれないこと~危機と痛みの哲学~」
著者 鷲田清一

来年の3月で東日本大震災から10年になるのか。3ヶ月ほど前にふとそう思ってから震災について考える機会が増えた。
鷲田さんが震災について言葉を残しているのを知ったのは2ヶ月前に読んだ「あわいゆくころ~陸前高田、震災後を生きる~ / 瀬尾夏美 著」の帯にコメントを寄せていたからだった。
「あわいゆくころ」は被災地、陸前高田市の人々が震災直後の壊滅的な状態から復興へと向かっていく様子を7年間にわたって記録したもので、著者の身近で起きた出来事を主に徹底したミクロ視点で丁寧に書かれている良本だった。
ではマクロ視点で物事を捉える哲学者はあの出来事についてどのようなことを語っているのか、そのあたりに興味があった。

2012年2月発行の本書は阪神淡路大震災を機に臨床哲学を提唱した著者がその経験をもとに東日本大震災からの1年を振り返り、語り直すという内容になっている。
その中でも特に心に残った一節を二つほど紹介したい。

「死者」として生まれる
死を受け入れるというのは、どういうことなのか。
社会学者の内田隆三さんが書かれていたことなのですが、死を語るときに、生体か屍体かという二分法考えないほうがいい。そうではなく、生体と屍体・遺体に、「死者」という三つ目のカテゴリーを入れて三分法で考えたほうがいい、と。
そして命がなくなったときに、生体が屍体に変わるけれども、死者というのは、人が死んで初めて生まれるものだというのです。
「死者として生まれる」ということです。

わたしには熱心に信仰している宗教はないが、この一節を読んで、宗教の必要性について少し理解できた気がした。
死を肯定するのではなく、死者を迎え入れる、という考え方は残された人にとっても、死にゆく人にとっても救いになると思った。


絶対になくしてはならないものを見分ける
よく言うのですが、わたしは「教養」や「民度」ということについて、次のように考えています。  
なにかに直面したとき、それを以下の四つのカテゴリーのいずれかに適切に配置できる能力を備えているということです。
まず、絶対に手放してはいけないもの、見失ってはいけないもの。二番目に、あったらいい、あるいはあってもいいけど、なくてもいいもの。三番目に、端的になくていいもの。なくていいのに商売になるからあふれているもの。そして最後に絶対にあってはならないこと。
ー中略ー
いろんな社会的な出来事や人物に触れたときに、大体でいいから、この四つのカテゴリーに仕分けすることができているということが、教養がある、民度が高い、ということなのです。
わたしはこれを経済学者の猪木武徳さんにならって「価値の遠近法」と呼びたいのです


”教養”はこの本の掲げるメインテーマの一つだと思った。或る日突然目の前に迫ってくる抱えきれない程の痛みを伴う出来事。それに備えるための手段、それが教養なのではないだろうか。

2011年の3月、わたしは日本に居なかった。留学中のため国外に居たからだ。つまりわたしはあの揺れも、あの混乱も、何一つ経験していないのだ。
わたしの家族も親戚も友人もみんなそれを経験していて、わたしだけし損ねてしまった。そんな感覚が今でもある。
あの日、どんなことが起こったのか。もし当時日本にいたらどのような経験をしていたのか。わたしが震災関連の本を読むときにはそのあたりを想像しながら文字を追っていることが多い。
本書もそう思いながら読んだ。
震災とはなんだったのか、震災で社会はどう変わったのか、本書で語られたのは2012年の著者の考えであるが、大筋で今にも通じるような内容であったし、むしろコロナ禍でその意味がより強まったようにも感じる。
危機と痛みを哲学することで、見えてくる未来というのが確かにある。


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