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Ever losing memories.

彼女と別れてから、3年近く経った。

「別れても、友達だからね。多分、映画とか、音楽の趣味があなた以上に合う人なんていないから、これからも付き合ってね、友達として。」と、陳腐な台詞を言い放ったのは彼女の方だった。

僕は正直なところ、会えば、抱きしめたくなるだろうし、キスだってしたくなるだろうし、それに言うまでもなく、それ以上のことを望んでしまうだろうし、無理だよ、無理!って、思ってた。

国語の教科書で、"杞憂"という言葉を教えるためのよく練られた教材は、こんな感じかな?というほどに、これは不要なそして無用な心配だった。

彼女との"友達"としてのデート、いや、デートじゃないか。そのなにか不思議な待ち合わせは、その後、三回程で音もなく、あっさりと終わったからだ。彼女には彼が出来、僕には何も起こらないままで、あっという間に時が流れた。

最初のうちは変わらずに連絡を取り合っていた。そう思っていたのはどうも僕だけのようだった。ある日気付いたのは、メールも電話もよくよく考えてみたら、いつも僕からのみ。彼女はそのたびに如才ない返事をくれたけど、その返事はいつの間にか、少しずつ短いものになっていった。真面目に振り返ってみると確かに別れてこのかた彼女から始まったメールのやり取りも電話も一切来ていなかったのだ。

試しに、僕からの連絡を絶ってみた。やがては彼女からしびれを切らして連絡して来るだろうと思ったんだ。しかしそんなことは全く起こる気配もなく、ただ、僕の中のに残った彼女の残り香だけが、水彩絵の具のついた絵筆の先をバケツの中の水の表面に浸した瞬間みたいに、ぱぁっと広がり、どんどんその色を喪っていき、そして消えてしまった。

その間、胸の奥に宿っていた、光を放つ球状の塊が収まっていた空洞を埋めるために、何人もの女の子とデートを重ねて、そして、唇に触れ、やはり彼女とは違うと言うことを確認するということを繰り返していた。ひとつひとつのチェック項目をノートに書き連ねて、そして、その横にレを書いていくように。

ヨーロッパのホテルを舞台にしたとても素敵な映画を観た。しかし、その時隣の席で観ていた女の子は、

「何だかとても陰気臭くて、わざと難しく、謎を埋め込んでいたみたいな映画だったわね?」

と、真っ赤に塗った唇の口角をキリリと3段階ほど上げて得意気にいった。全然そうじゃない!僕は大きな声で騒ぎたかった。でも、外で騒ぐなんてことは出来ない。したくない。代わりにその夜僕は怨みを込めてその女をベッドの中で散々苛め抜いたのだ。しかし残念ながら、彼女は歓喜の声を上げ続けた。

全然そうじゃない!

そんな感じで、季節が三度巡った。僕の胸の中のぽっかりと空いた、球状の穴の表面は、小さな孔が空き、擦過傷でいっぱいになっていた。

東京を覆っていた染井吉野の花はすっかり消えて、街にはもう少しだけ色の濃い、紫っぽい八重桜がちらほらと見えていた。

そんなある日、僕は彼女と再会した。彼女は髪を切っていた。今まで僕が見た中ではいちばん短く。身体のラインがはっきりと判るピタッとした服で現れた。

不意に再会した、と書いたけど、彼女がを僕が1年半ぶりに2人の共通の趣味だったあるジャズ・ピアニストの演奏会に誘ったら、彼女が断らなかったのだ。開場の前に、僕らは静かなカフェに行き、桜のフレイヴァーの付いた珈琲を、湯呑みのような形の器で飲んだ。

僕は色々なことを聞いてみたかったのだけど、結局は彼女が、僕に色々な話を聞いて、あっという間に時間が過ぎた。

そして僕は、彼女と共有していた独特の距離感と、それが再会するまでにすっかり消えてしまうだけの時間の流れを充分に感じた。それがどうしようもないほどに僕の胸に空いた穴を埋めるぴったりとした直径を持つ唯一無二ものだと知ったのだけど、同時にその表面を覆うかすり傷によって、二度と埋まらないのだということも知ってしまった。

音楽が流れた。空気を響かせた。
インプロヴィゼイションをメインに聴かせるそのピアニストの演奏は楽譜に書き留めることはできても、その時その時のノートひとつひとつは、会場の中空の中に、絵筆を飛び立った絵の具の粒子のひとつひとつのように自由に泳ぎだしそしてその場かぎり、永遠に失われてしまう。

消えていくひとつひとつの音符を追いかけながら、僕は、桜の花が散るように、記憶の欠片を散らせていった。

桜蘂と花弁はしばらくの間は、道路のわきの排水溝を桃灰色に、埋めるだろう。しかし、何回か雨が降り、陽が射して、風が吹くと、みんな跡形もなく消えてしまう。

そういうことなんだ。

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