Run for your Life.

《小説》

『リキは言った。

「境界線がさ。」

「境界線って?」

サキは聞き返した。

「子供の頃に、」

リキはいつもそうであるように、サキの問いかけには答えずに、何かをその意識の焦点で捉えたかのように続けた。

「(子供の頃に、)父さんが買ってきてくれた、ヨーロッパの木版画の画集のあるページに描かれていた絵を見てさ。それが何年ものあいだ、頭を離れなかったんだよ。」

「どんな絵だったの?」

「昼の国と、夜の国の境の絵。その境界線が、ゆっくりと東のほうから西に向かって進んでいくんだよ。ゆっくりって言っても、結構な速さだよ。

境目はちょうどカーテンみたいになっててさ、世の中が知らない間に、あっという間にそのカーテンの中に飲み込まれちゃうと、そこから先は夜の世界なんだよ。

夜の世界ってったって、悪いもんじゃない。楽しいことがいくらだってある。

でも僕が言いたいのはそこじゃなくてさ。」

「うん。」

「昼の国の、終わりの終わり、本当の端っこを、必死になって西に向かって走っている男が描かれていたんだよ。

ビロードの帽子をかぶって、金髪の巻き毛で、鼻は高くて瞳は碧い。服も帽子とお揃いの、ボルドー色のビロード製の服。中には白いフリルの付いた襟のシャツを着ていた。

彼は、必死になって夜の闇に飲み込まれないように、西へ西へと走り続けているんだよ。

最初の見開きは、広い野原の向こうからやってくる昼と夜の境に背を向けて、必死に西へと走っているんだ。その先には町があって、オランダの風景みたいな家がいくつもいくつも並んでいるんだ。

彼はその石畳の道を西へ西へと走って逃げているんだ。

ページをめくると、やがて彼は港にたどりつき、そこから昼を目指して、太陽のある方向に向かって船を進めるんだ。とても綺麗な帆船だったよ。綺麗なしかし触ると肌を切り裂きそうな、そんな波頭を超えて、船は西へ西へと進むんだ。

ページをめくると、彼は見知らぬ国へと辿り着いて、そこで馬を手に入れるんだ。煉瓦で出来た、城壁に囲まれた中世の街を彼は馬に乗って、西へ西へと進むんだ。黒いカーテンが後ろから迫ってくるのが不気味に描きこまれているんだよ。」

それから、リキの話は3時間続いた。サキもリキも食事をしながら、そしてワイングラスを傾けながら、ずっと西へ西へと逃げ続ける男の、冒険譚に夢中になった。

「そしてさ。」

リキは言った。

「森を抜けると、その男の目の前には、広い広い草原が広がっていたんだよ。風がビューって音を立てて吹き抜けて、草原の表面に風のかたちをすぃ~っと滑らかに走らせたんだ。

それを観た途端、走る男はもう逃げるのを止めたんだ。』


そこまで言うと、受話器の向こうのヲキは、ガチャリ、と受話器を置いた。

ツー、ツー、と機械的な音が、受話器の向こうから聞こえるだけで、それを最後に、ヲキは一切の連絡を絶ってしまった。


時々、ガラス越しに広い海や高原なんかが広がる景色を眺めながらウヰスキーのグラスを片手にあてもなく闇を見ると、不意にこのヲキが話してくれた、リキの物語が頭に浮かんでくる。

逃げ続けた男は、草原に何を見たんだろう?

世界をひとまわりしたら、そこには何があるんだろう?


多分、人生には、その解釈が永遠に開かれた物語が必要なんだと思う。



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