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人生の苦しみの中で

しばらく更新が止まってしまいました…すみませんm(_ _)m

先週金曜日からおとといまで、福岡県に行っていました。目的は、福岡にある教会で開かれた集会に参加することと、北九州に住む友達に久しぶりに会うことでした。

福岡での様子については少しずつアップしていこうかと思いますので、まずは今回の集会で心に響いた、とある先生のメッセージを、自分自身に改めて言い聞かせる思いでまとめてみたいと思います。

というわけで、手始めにこちらの聖書箇所から。

わたしは、わたしの名のために怒りを抑え/わたしの栄誉のために耐えて/お前を滅ぼさないようにした。 見よ、わたしは火をもってお前を練るが/銀としてではない。わたしは苦しみの炉でお前を試みる。 わたし自身のために、わたし自身のために/わたしは事を起こす。わたしの栄光が汚されてよいであろうか。わたしはそれをほかの者には与えない。
イザヤ書 48:9-11 新共同訳

「練る」というのは精練のことで、つまり金属を火で溶かして不純物を分離し、より純度を高くしていくというわけです。そして「試みる」にも、同様の意味があるというのです。

そう、クリスチャンになったからといって、全てがハッピーになるのかというとそんなことはありません。けれども、クリスチャンにとって、人生における苦しみは、決して神様の嫌がらせではなく、むしろ神様が私たちを愛しているからこそ、より純度の高いものにしていくためのものだというのです。

苦しみの意味がそこにある事を、常に忘れずにいくべきなのです。なぜそうなのかは、以下の箇所にあります。

主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つ者が多く、 「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかたです。 わたしが声をあげて主を呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。
詩篇 3:1-4 口語訳

ポイントは、「しかし」なのです。
神の助けなどないのではないか、と思ってしまうことは本当に多いものです。しかし、神様が助けてくださるということと、み言葉をしっかり信じ、神にしっかり祈ることで、そうすれば神様がしっかり応えてくださるということ。だから、「しかし」以降が鍵になってきます。

そして、神様の与える試練については、聖書ではこうも言っています。

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。 あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
ペトロの手紙一 4:12-14 新共同訳

私自身も、現在の状況ははっきり言ってかなり苦しいものです。人生の苦しみというのは、まさに「魂の暗闇」の中を通っているものです。こんな状況ですと、まるで雑草のように疑いの気持ちが出てくるのです。
そんな中、先ほどの箇所にあったような「しかし」の信仰で、必死で疑念を取り去り、神様によって試されているという事実を再確認し、ひたすら信じ祈っていくということ。そして、これによって最終的に神様の与える喜びに満ちあふれていくというわけです。

どうか、この事を常に心に留めて、日々を歩んでいくことができますように。




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