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モロッコ、西サハラ、モーリタニア、セネガル

(49番)  2013年   2月

モロッコ、西サハラ、モーリタニア、セネガルへ行ってきました。
今回はアフリカ大西洋海岸ルート「カサブランカ~ダカール」間を走り抜けます。
参加者は男性2名、女性9名の計11名でした。
その内知っている人は1名でした。
モロッコは1988年、1996年に次いで3回目の訪問です。

今回のルート

1日目 2月17日
✈ 22:00 発 成田 エミレーツ航空 (A380)

2日目 2月18日
  05:00 着 ドバイ(UAEの首長国の一つで首都ではない)

✈ 08:50 発 ドバイ エミレーツ航空 (777-300)
  13:45 着 カサブランカ (モロッコ最大の都市で首都はラバ                                                                                                                       ト)

モロッコはアフリカ北西部に位置する国でアルジェリアと西サハラと国境を接しており、ジブラルタル海峡をはさんで、スペインと向かい合う位置にある。
1912年からスペインとフランスに領有されていたが、1956年に王国として独立をした。
アトラス山脈が横切っており、最高峰は4千メートルを超える。
褶曲山脈であり、地層が曲がりくねっている。

🚌 古都マラケシュへ向けて出発
  黄色やオレンジの綺麗な花が咲く道路をまっしぐら。

ホテル到着
荷物を置いてすぐにジャマ・エル・フナ広場へ。
ここは2009年に世界無形遺産に登録されている。
所狭しと並ぶ屋台、大道芸人や水売りなどで活気にあふれている。
名物は搾りたてのオレンジジュース。
ここで三葉虫の化石を買ったが、本物かどうかは不明。と言うのもモロッコには化石工場なるものがあって、偽物が多発しているから。
作っている様子をネットで見たことがある。皆さん、ご注意を。

2011年4月28日にテロ事件が発生して観光客ら40名近くが死亡、負傷した。

3日目 2月19日
午前はマラケシュ市内観光
バヒア宮殿
19世紀末の大宰相の邸宅で王妃や側室など20名ほどが住んでいた。
天井、壁や柱には鮮やかなタイルや彫刻が施されており、見事と言うほかはない。

ベン・ユーセフ マドラサ
「マドラサ」とはイスラム教の神学校のことで、ここは当時北アフリカで最大であった。
1565年にサアード朝のスルタンによって建てられ、1956年まで使われていた。
最盛期には900人の学生が寄宿生活をしながら学んでいた。
ここも天井や壁の彫刻が素晴らしい。

クトゥビーアモスクのミナレット
1147年に建築されたが一度壊れた為に1199年に再建された
高さ77mのミナレットで、ランドマークとなっている。
イスラム教徒以外は入れないので、写真ストップのみ。

昼食:トマトときゅうりのサラダ、チキンタジン、ヨーグルト

🚌 その後、230km走ってアガディールへ。
オートアトラス越えルートは数年前に中国によって建設された。
道中にはモロッコ南部にしか自生しない「アルガン」の木が一帯に見られた。

アガディール到着
ここは大西洋とアトラス山脈に囲まれていて、観光と農業が中心。
近年、アルガンオイルが評価されるようになった。
アルガンオイルのビタミンEはオリーブオイルの4倍、不飽和脂肪酸、オレイン酸などを含み、美容にとても良いと言われている。日本でも認知度が少しずつ高まってきている。

アルガンオイルの店
スプレーやボトル、更にクッキングオイルなど流石に質のよさそうな品物がたくさん置いてあった。女性が多かったので、皆さん、こぞって買っておられた。

ホテルへ。

夕食:野菜のクリームスープ、魚の串焼き・ポテト添え、フルーツバスケット

4日目 2月20日
🚌 南下して西サハラのライユーンへ630kmを移動。
東京と大阪間(直線で約400km)よりもずっと長い距離。

アガディールの浜辺
この町は16世紀にポルトガル人によって造られた。当時築かれた砦も丘の上に残っていた。

アンティアトラス山脈を越え、ラスオムリルの町で昼食:
サラダ、ビーフタジン、チャイ、オレンジ、ヨーグルト

タンタンの町 →チェビカ川(川と大西洋が合流するポイント)
バスの給油の間に断崖から荒々しい大西洋を眺めた。足元には何と化石を発見。
平べったい小石に花の模様がついていた。
これこそ自然の物なので、ラッキー!
道中には前カンブリア紀にアフリカ大陸とユーラシア大陸がぶつかり合い、隆起してできた山々の見事な地層が見られた。見ていてちっとも飽きない光景だった。

タハの町(モロッコと西サハラの境界)

西サハラは北にモロッコ、東にアルジェリアとモーリタニアと接し、サハラ砂漠の西の端に位置している。主に「サハラウィ」と呼ばれる遊牧民が暮らしており、面積のほとんどが砂漠に覆われている。
帰属については議論があり、アルジェリアが支援する亡命政権であるサハラ・アラブ民主共和国とモロッコが領有権を主張している。モロッコがほとんどの地域を実効支配している。
日本は国家として承認していないために所謂「地域」となる。

ホテル到着

夕食:野菜スープ、シーフードプレート(ロブスターも)、チョコレートケーキ
本日はKさんの誕生日でチョコレートケーキでお祝い。このケーキが抜群に美味しくて、これまでの人生で一番と言えるほどだった。

5日目 2月21日
🚌 更に南下してダクラまで530km移動。
西サハラに入るとひっきりなしに検問があった。

ラムシッドの町

ブジュドゥールの町
町の入口には巨大なダチョウとカジキマグロのオブジェが建っていた。
バスを降りて大西洋の海岸を岬まで散歩。たくさんの貝殻が落ちており、皆さん夢中で拾っておられた。
添乗員さんがお昼ご飯を調達しようと市場に行ったものの、一般人は立ち入り禁止。
諦めて帰ろうとしたら、後ろから冷蔵庫をバイクに積んだおじさんが通りかかり、タコを購入。

ポルトガルのエンリケ航海王子は15世紀にユーラシア大陸の西の果てであるサグレスに航海学校を建てて40年間に渡り新しい海路を切り開くべく人材を養成した。

昔、この町はポジャドールと呼ばれており、岬には魔物が住む海域と船乗り達から恐れられていた。
王子の「岬を越えて南進せよ」との命令に誰もがそっぽを向き、なかなか海路は開けなかった。しかし、遂に一人の門下が立ち上がり、
自身の「臆病の岬」を超え、実際に岬も越えた。
これがきっかけとなって、後継者が続き、1488年にアフリカの喜望峰に到達、1498年にはヴァスコ・ダ・ガマがインドへの新航路を発見、
1522年にはマゼラン一行が世界一周に成功するなど、偉大な成果が生まれた。これによってポルトガルが世界一の海洋王国となった。

五百数十年前には越えるに越えられぬ恐ろしい場所だったのに、我々が行った時は穏やかな海だった。
因みにポルトガルの時にも書いたが、エンリケ航海王子は船酔いが酷いために一度も航海には出ていない。

レストランにて昼食:タコの唐揚げ、魚のフライ、イカのフライ、ヨーグルト
自分はタコは柔らかすぎて噛み切れず四苦八苦したが、他の皆さんはこれが「固すぎる」と表現されていたので、こういう場合は「固い」と言うのだと人生で初めて知った。😅

途中、スピード違反で罰金を取られた。(おい、おい・・・)

クラーの町で写真ストップ(多くのヨーロッパ人がキャンピングカーで訪れるキャンプ地。この日はフランス人が多かった)

ダクラに近づいた17:40頃、入り江で色とりどりのパラセーリングをしている人達が見えた。20人くらいかな。
それまで、薄茶色の砂漠ばかり見てきたので、カラフルな色が映えてそのコントラストが実に綺麗だった。タイへ行った時、パラセーリングを経験したことがあって、自分もあの人達の仲間に入りたかった。

ホテル到着
やれやれ、今日も長い道中だった。

夕食:サラダ、魚のグリル/ピザ/チキン、イチゴ/チョコケーキ/プリン

6日目 2月22日
🚌 さらに南下し、モーリタニアのヌアディブまで450kmを移動。

モーリタニアへと続く道

キャンピングカー村より海を眺める(ぎっしりと車が並ぶ先の小山に上ると良い景色が広がっていた)

昼食:トマトサラダ、チキンタジン、ヨーグルト、りんご、チャイ

国境に到着(アムステルダム~ダカール間を走る車軍団と遭遇。
150mほどのデコボコ道をスーツケースを必死に運んでモーリタニアに入国)

モーリタニアは1960年にフランスから独立をした。
国土全体がサハラ砂漠に位置するために、90%が砂漠地帯。
主産業は鉱業でズエラットで産出される鉄鉱石が経済の柱となっている。
もう一つの柱はタコの輸出で日本向けのマダコは輸出額全体の30%を占めている。
帰国してからスーパーでタコを見てみるとほとんどが「モーリタニア産」とあった。やっぱり・・・

町はヌアディブと言い、首都のヌアクショットに次ぐ人口がある。
5台の四駆に乗り換えて出発。
ガイドさんはフランス語と英語(通訳)の二人がついた。

ここは西サハラ以上に検問が多かった。

ヌアディブは鉄鉱石の積出港である。
長い列の貨物列車が通り過ぎて行った。ここから、ズエラットまでモーリタニア鉄道が敷かれていて鉄鉱石を運んでいる。

ブラン岬
難破船が座礁している場所で無数の船が打ち捨てられている。エンジンなどの調子が悪くて港に入れなかったりすると、皆そのまま浅瀬に船を放置していったのだとか。
アザラシがよく見られると聞いていたので、よく目を凝らすと2頭ほどいた。

ブラン岬から眺める大西洋と難破船

ホテルへ
夕食:イカとエビのバターソテー、魚のグリル・バターライス添え、オレンジ、りんご

7日目 2月23日
四駆 砂漠の幹線道路を南下しモーリタニアの首都であるヌアクショットへ約475km移動

ガソリンの給油
道路わきにはラクダがたくさん。ミルクを取るために飼っているとか。
走っていると道路わきに、両脚を上げたまま死んでいるラクダがいたが、
車とぶつかったのだろうか・・・

又しても長い貨物列車が走っていたので、写真ストップしたが、警察に注意されて断念。

遊牧民のテントを訪問

ムハイジャラート漁村
海辺でテントを張っていてくれた。
ここで昼食:イカ、タコ、チキンの炭火焼、ピラフ、ラタトゥイユ

ホテルでチェックイン後、歩いて観光と夕食へ

グランマルシェ(日用品と衣料品が中心)

レバノン人が経営するレストランで夕食:サラダ、マクルーバ(レバノン風の炊き込みご飯で肉とアーモンド添え)、カップケーキ、アイスクリーム

ホテルへ

8日目 2月24日
四駆 さらに南下してセネガルのサンルイまで移動。

ティグント集落で散策
どんどん進むと辺りはアカシアの木が生えた景色と変わってきた。
幹線道路をはずれてデコボコ道のオフロードへ。

ディアウリング国立公園
ここは何千もの鳥の種類が棲息していて、野鳥観察小屋に行ってみたが遠すぎて良く見えなかった。ペリカンくらいかな。

ペリカンの群れ

フランス人が経営するテントホテルで昼食:魚の燻製、魚のソテー・ポテト添え、ヨーグルト、チョコレートケーキ、チャイ

国境へ到着
セネガル側のガイドさん達がまだ到着しておらず、しばらく待たされた。
国境になっているセネガル川を渡り、セネガルへ入国。

セネガルは1960年にフランスから独立をした。アフリカの最西端に位置する。人口の94%がイスラム教信者。
農業、水産業、鉱業に加えて観光業も盛んで世界遺産に7つ登録されている。

ホテル・デ・ラ・ポスト
セネガル川の畔にある郵便局の前に建つホテル
フランス人パイロットのジャン・メルモーズが本国からアメリカ大陸に郵便物を運ぶパイロットとしてここを定宿としていた。
彼は1920年から1930年代にかけてアンデスの山越え、南太平洋横断、初の夜間飛行をした空の英雄。
210号室は彼のファンで何年先も予約で埋まっているとか。
サン・テグジュペリは彼をモデルにして小説を書いている。

外のレストランにて夕食:エビとコーンのサラダ、魚のグリル・ごはん添え、アイスクリーム

9日目 2月25日
サンルイ市内観光

サンルイ


サンルイ北地区(商店が立ち並ぶ街並み)→バオバブの木 →モスク(一番古い)→軍事エリア →シンガーミシンの販売店 →フェデルブ広場(行政の中心地)→ラングドバルバリー砂州(漁民の人々が暮らすエリア。洗濯をしている人達が沢山いた)

サンルイの船着き場


魚を干したり、燻製にしたりする場所 →浜辺(漁から戻ってきた船に人が群がって買い付けをしていた)

レストランで昼食:シーフードのテリーヌ、牛肉の串焼き・ポテト添え、クレープ・ハイビスカスのジャム添え

午後はフリータイム

夕食:サラダ、チキン・ポテト添え、フルーツ

10日目 2月26日
いよいよ最終目的地のダカールへ280km移動。

🚙 朝、車で走っていると「ヒヒ」が現れてビックリ!
辺りは一面、バオバブの木だらけ。

ラック・ローズ
「バラ色の湖」と言う意味。海の10倍の濃度の塩水湖。
赤い色は塩分が強い水に生息するプランクトンや水に含まれる鉱物によって生じる。
近年は採掘のし過ぎで湖の水が濁り、ピンク色ではなくて赤黒っぽい色になってきている。
自分には泥水にしか見えなかったが。採掘現場を見ると相当重労働だ。
塩も売っていて、買え買えとしつこかった・・・

ここはダカール・ラリーを行っていた頃の最終地点だった場所。
以前は1月1日にパリからスタートし、スペインのバルセロナからアフリカ大陸に渡り、ダカールまでの約12,000kmを走った。
テロが相次いだために2007年に終了。
2009年からはアルゼンチンからチリ、ペルーを回るルートになった。

カンパメントのリゾートホテルにて昼食:サラダ、チキンのヤサ(セネガルの名物料理)、途中で購入したスイカ、チャイ

フラニ族の村 →砂丘

ホテルへ(立派なホテルでたまげた!)
夕食までに近くのスーパーへ行ったが、こちらも大型だし、近代的だし品数も多くて楽しめた。

夕食:ビュッフェ(豪華でこれまた驚いた)

11日目 2月27日
観光の最終日となったがメインがまだ残っていて、それはゴレ島だ。

ダカール港(遠足の生徒や白人の観光客で賑わうフェリーでゴレ島へ向かう)

ゴレ島
ダカールの沖合約3kmにある南北900m、東西300mの隔離された小島で奴隷貿易の拠点となった場所。16世紀から19世紀にかけてアフリカ各地からサトウキビ畑やコーヒー農園の労働者として奴隷が集められ、ここから新大陸へと送られた。
負の世界遺産として登録されている。

奴隷の館
各地から集められた奴隷たちは男女、子供などに分かれた狭い部屋に押し込められた。
そして奴隷たちは「帰らざる扉」を通って船に積み込まれていった。
この扉を通って出ていった人達は2度と生きて故郷の土を踏むことはなかった・・・

小学校訪問(日本企業の援助で建てられた。子供たちは元気いっぱい)

昼食:チヤプジェン(セネガルの名物料理)、フルーツサラダ

フェリーでダカール港へ戻る
船内でゴレ島に住んでいるという、ある男性から声をかけられた。
中学校で教師をしているとか。広島へ行った事があるとの事。
原爆ドームと原爆資料館にはショックを受けたとか。
恥ずかしながら、自分は一度も原爆ドームを見たことがなく、帰国してからすぐに行ってきた。

空港へ行くまで時間があったので、港近辺を散策。
日本の指導で牡蠣の養殖をしていた。

空港へ

✈ 19:15 発 ダカール エミレーツ航空 (A330-200)

12日目 2月28日
  08:10 着 ドバイ(ドバイ空港は今年の1月に改装が完了。
                                              120人乗りの大きなエレベーターがある)

ドバイの市内観光へ
シェイク・モハメッド宮殿(クジャクがたくさん)
バージュ・ハリファ(世界一の高層ビル、828m。いつ見ても神々しく光っている。写真ストップのみ)
アトランティス・ホテル
スーク・マディーナ・ジュメイラー
7つ星ホテルのハージュ・アル・アラブの写真ストップ
ドバイ博物館
スパイス・スーク
(鼻ガツンとくる)
ゴールド・スーク(この辺りはいつ見ても眩しく輝いている)

昼食:中華料理

ホテルにて休養

夕食:チキンのシーザーサラダ、ブロッコリースープ、魚のフリッター、
アラブのパンプリン

13日目 3月1日
✈ 02:55 発 ドバイ エミレーツ航空 (A380)
  17:20 着 成田

今回は長い、長い距離を南下していき、国境を超えるたびに景色や人々が違っていて変化にとんだ旅でした。時々、歴史にも触れることができたし満足です。

写真は旅行会社さんのパンフレットから引用させてもらいました。
お礼申し上げます。

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