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マルタ

(66番)  2012年   1月

マルタへ行ってきました。
今回の参加者は全員が女性で16名でした。
想像したよりも寒くてダウンコートを持参して正解。
観光客は我々日本人の3つのグループがどこへ行っても出会い、他の国からの観光客はちらほら・・・

マルタ島は大昔より地中海のヘソと呼ばれ、交通上や戦略上の重要性から多くの民族や勢力が行き交った場所でした。
その為、小さな島にも拘らず歴史のエピソードに富み、遺跡・史跡も多く、そこがマルタの魅力の一つとなっています。

1日目 1月6日
✈ 22:00 発 成田: エミレーツ航空(777-300ER)

機内で隣に座った人は目がご不自由な方で、最初は驚いたが、ご友人の方が細かく説明をされていて全く何の問題もなく旅行をされた。

2日目 1月7日
  05:00 着 ドバイ

✈ 08:15 発 ドバイ: 同上(A330)
  09:35 着 ラルナカ (キプロス)時差2時間

✈ 10:40 発 ラルナカ: 同上
  13:20 着 マルタ国際空港

国の説明
正式名:マルタ共和国
首都:ヴァレッタ
3つの島で構成:マルタ島、ゴゾ島とコミノ島
人口: 約41万人
宗教:ローマン・カトリック(教会の数は400ヶ所もある)

🚌 スリーシティーズの観光へ

その名の通り、ヴィットリオーザ、セングレアとコスピークワの3つの町の総称。

スリーシティーズ
マルタ観光局のホームページより

1530年に「聖ヨハネ騎士団」がギリシャのロードス島から追われてマルタに移転した際、オスマントルコ帝国と戦うためにここに本拠地を構えた。
聖ヨハネ騎士団とは中世の十字軍時代の宗教騎士団で聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するために発祥し、現在まで続いている。
尚、現在は「マルタ騎士団」と呼ばれる。

1834年には本拠地をローマに移し(スペイン広場の近くにある)現在も存続している。領土は持たないが国はあるという不思議な立ち位置で、治外法権も認められており、門には「マルタ主権騎士団・治外法権の地」とプレートに表示されている。
約10万人のボランティアなどが、紛争地や被災地の救済と医療奉仕活動を行っている。👏

セングレア監視塔
セングレアの半島の先端に位置しており、グランドハーバーをはさんで、
対岸にはヴァレッタ、右手には本陣を置いた聖アンジェロ砦が一望できる。
塔には目と耳のレリーフが彫られていて、オスマントルコ軍から町を守るという固い決意が込められている。

監視塔
マルタ観光局のホームページより

アラゴン城門(1565年に対オスマントルコ軍に勝利したことに由来する)
戦争博物館 →プロヴァンス門(城塞の階段は重い鎧を付けた騎士や馬の為に段差は低く作られている)→赤いポスト出窓の多い路地 →異教徒の宗教裁判所跡 →騎士団の分館通り 
マルチーズクロスマルタ十字)とはためく白赤のマルタ国旗 
地区の守護聖人ローレンス像と勝利の女神像 →聖ローレンス教会 
対英独立自由記念碑(第一次世界大戦時に日英同盟の為に地中海に派遣された日本人海兵約70名の慰霊碑が立つ)

日本海軍慰霊の碑
マルタ観光局のホームページより

夕食:エビのリゾット、ブラジオリ(牛肉のソテー)、プロフィットロール(チョコシュー)

🛏 サン・ジュリアン泊

3日目 1月8日
ゴゾ島の観光へ

🚌 マルタ島の北端にあるチェルケウア港まで移動。右手には遠浅のビーチが見える。

🚢 フェリーに乗船。距離的には6km離れている。
右手にはコミノ島(ハーブのクミンが由来とか)が見える。
島民はおばちゃんが3人のみ(添乗員さんが訳した通り)

25分ほどで自然豊かな人口3万人のゴゾ島に到着。

🚌  ゴゾ島は冬季が最も緑豊かで今は鮮やかな新緑と野花の季節だそうだ。

水道橋跡
騎士団時代の井戸水を流した跡

アズールウィンドウ
小舟に乗ってインランドシーを抜けた先の島の西端にあり、数千年の風と波の浸食によってできたアーチで高さが40m、奥行き20mでアーチの下は海。いたって普通の景色のように見えるが・・・)

アズールウィンドウ

後記:と思っていたら、2017年の3月に大嵐でものの見事に崩れてしまいました。
ニュースでも見ましたが、海側を支えていたアーチは土台さえ完全に無くなってしまい、影も形もありません。マルタの人達は大変悲しんだそうです。

陸に戻って村の周辺を散策していたら、住民の方がお庭でお喋りを楽しんでいた。
庭の周囲には「ウチワサボテン」がびっしりと生えていて、花が終わって実がついていた。
手招きされたので、行ってみるとそのサボテンの実を食べさせてくれるという。
よく熟しており口に入れると「ま~、美味しい!😋」。
ヴァレッタに戻った際、サボテンの実のジャムを購入したのは言うまでもない。瓶入りで200円ほど。

中心部にあるヴィクトリアへ戻る。

チタデル
町の高台にあり、要塞として築かれたので360度見渡せるようになっている。
1551年にオスマントルコ軍の海賊によって人口9千人のうち、6千人が連れ去られた。
残りの住民はそれ以降86年もの間、ずっとこの大城塞の中に住み続けた。

チタデル
マルタ観光局のホームページより

ゴゾ大聖堂
建築当時、資金難でドーム型の屋根を作ることができずに、中の天井にだまし絵が描かれていて、錯覚でドーム型に見せる工夫がされている。
大聖堂の向こう側には95km離れたイタリアのシチリア島が見える。
丁度、日曜日の為にミサが行われていた。

ゴゾ大聖堂
マルタ観光局のホームページより

昼食: オリーブの前菜、タコ料理(名物)、ヤギのチーズ、ビギリア(豆とニンニクのペースト)、ゴゾソーセージとケーキ

シュガンテーヤ神殿
マルタとゴゾ両島には合わせて23の古代神殿跡が発見されており、そのうち6基が世界遺産に登録をされている。この神殿はエジプトのピラミッドよりも千年も古くてB.C.3,600年のもの。
全長6m、重さ約20トンの巨大な石で建造されていて圧倒される。
中は祭壇や永遠の命を表す渦巻き模様の壁と「オラクルホール」(神託の穴は神様のお告げを神官が聞いた)があり、祈りや集会の場所だったと言われている。
また、ここが地中海文明の始まりだった場所という説もある。

シュガンテーヤ神殿
マルタ観光局のホームページより

ベツレヘム村
まだクリスマスの特別イベントが行われており、屋台もたくさん出ていた。
ハチミツ、シナモンと黒砂糖が入ったクリスマスのお菓子を試食。美味しかった。
辺りは白いアーモンドの花が咲いていて綺麗だった。

スタッフの皆さんは服装が当時のままであたかも自分が今エルサレムにいるかのような錯覚さえして不思議な気分だった。全部が本物の人間で再現されているのだ。
「Daily life in Bethlehem」というコーナーではキリストが生まれた時の様子を再現していて、当時の格好のままの赤ちゃんキリストがと~っても可愛くて思わず笑みがこぼれる。
丁度「東方の三博士」がやってきたが、船の時間が迫っており、お祈りが見られずに残念。

因みに1970年代に世界でヒットしたハーブ・アルパートとティファナブラスによる「マルタ島の砂」という曲はゴゾ島北部にある「ラムラ ビーチ」が由来だとか。
当時は毎日のようにラジオから聞こえてきて、大変懐かしい。
ここは赤い砂が特徴の美しい砂浜で、ビーチを見下ろす丘にはホメロスの抒情詩の一つであるオデッセイアでオデッセウスが妖精に7年間引き止められたと言われるカリプソの洞窟がある。

ラムラ湾&カリプソの洞窟
マルタ観光局のホームページより

サン・ジュリアン泊

4日目 1月9日
ヴァレッタの市内観光

🚌 ヴァレッタの町
1523年にオスマントルコ軍によってロードス島を追われた聖ヨハネ騎士団はあちこち放浪した後、シチリア王によってマルタ移住が認められた。
年に一羽の鷹を年貢料として納めることが条件だった。
以降1530年までの間に誰も住まない岩だらけの湾に突き出している8つの半島全てを要塞化していった。
騎士団長ジャン・ド・ヴァレッテ・パリゾンが町の名前の由来。

ヴァレッタの町
マルタ観光局のホームページより

アッパーバラッカ・ガーデン
展望台になっており、エレベーターで昇っていくことができる。
2日目に訪問したスリーシティーズがよく見える。ここに来ると有名なマルタ猫たちがたくさんいる。🐈

聖ヨハネ大聖堂
1577年、騎士団がその名前を冠したキリストの受洗者聖ヨハネを称えるために建てた。
外観はシンプルなのに、中に入ると金色に輝く壁、天井のフレスコ画や礼拝堂など圧倒される豪華さである。
主祭壇には洗礼者ヨハネのキリスト洗礼、アマルフィの紋章と教皇から贈られた紋章が並ぶ。
礼拝堂は8つの勢力の順番にイルド(フランス)、オーベルニュ、プロヴァンス、イタリア、アラゴン、カスティーリャ(ポルトガル)、ドイツ、イギリスの順で配置されている。

聖ヨハネ大聖堂
マルタ観光局のホームページより

カラヴァッジョがマルタの刑務所滞在中の一年間に描いた6枚の絵画のうち、「聖ヨハネの斬首」と「執筆する聖ヒエロニムス」の2作品が架けられている。
前者は1950年代の修復中に偶然見つかった彼の唯一の血糊サイン入りだそうだ。

カラヴァッジョはローマで活躍をした画家。
生来の乱暴な気質で殺人を犯し、追放を逃れてマルタ騎士団を頼り来島した。彼は功績により、騎士の称号を与えられたが、のちに剥奪された。

カラヴァッジョの光と影の絵は心に響いてくるから、いつ見ても感動をする。薄暗い教会の中でもずっと見ていられるので、ここに来られて超がつくほど嬉しかった。🤩

後記: 後者は現在ローマのボルゲーゼ美術館に収蔵されています。

考古学博物館
もともとはマルタ騎士団のプロヴァンスの宿舎として使われていた建物なので、中に入ると壁や天井には美しいフレスコ画が描かれていて、レプリカではなく本物。
石器時代(B.C.5,200年から4,000年頃人々がマルタに住み始めた)
小型象(ポニーくらいの大きさ)で大陸と陸続きだった時代
巨大神殿が建てられた時代(神殿跡から出土したマルタのビーナスやスリーピング・レディーなどの豊満な女性像が見ごたえがある)
等の展示がされている。

考古学博物館
マルタ観光局のホームページより

マルサシュロック
夏になるとサハラ砂漠から吹く猛烈に暑い風の「シロッコ」が由来の港。
漁船の船首には目が描かれていて魔除けを表すとか。

マルサシュロック
マルタ観光局のホームページより

1989年12月にブッシュ大統領とゴルバチョフ書記長による冷戦終結のための米ソ首脳会談「マルタ会談」が行われた場所。冷戦は44年間も続いた。同じ年の11月には「ベルリンの壁」も崩壊している。
東西冷戦は1945年の「ヤルタ会談」から始まったことから、「ヤルタからマルタへ」と言われる。

後記:同じ年の10月にヤルタに行くことができました。滞在の様子は15番の「ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ」に記載しております。
ご興味のある方はそちらをご参照ください。

昼食: 魚のスープ、シーフード・プラッター、ケーキ

午後はフリータイム

夜19時ごろ、雹が降ったそうだ。普段は雪さえも降らない土地なのに、さぞや地元の人達は驚いたことだろう。

🛏 サン・ジュリアン泊

5日目 1月10日
マルタ島東部の観光へ

ブルー・グロットー(青の洞門)
🚤 冬季は波風が強く小型のエンジンボートは運航される可能性はかなり低いと聞いていたが、大丈夫だった。
ここは波が大地を侵食した結果、巨大なアーチが造られた場所で、小さな洞門がいくつもある。我々が向かった先にあったのは深さが4mで奥行きが60mの広い空間で、海底の石炭岩に陽光が反射してエメラルドグリーンに見える。
丘の上を見上げると黄色い野花が咲き、おいしそうなウチワサボテンの実がずらり。

青の洞門
マルタ観光局のホームページより

🚌 タルシーン神殿
マルタ島では現在23基以上の巨大神殿が確認されている。
ここはB.C.2,800年頃に建設された場所で、1914年に農民によって偶然発見された。
「Fat Lady」という巨大な石(2,7m)の銅像が上半身のない状態で発掘された。スカートのようなものを穿いており、脚は大根のように太い。

Fat Lady
マルタ観光局のホームページより

赤ちゃんが授乳されている彫刻(多産の願い)や壺の中に入った人骨なども発見されている。
B.C.2,500年を境に古代マルタ人たちは姿を消してしまったらしい。

ヴァレッタに戻り昼食: マッシュルームスープ、メカジキのソテー、パンナコッタ

カーサ・ロッカ・ピッコロ邸宅
16世紀マルタ貴族で聖ヨハネ騎士団の一員でもあった人。
家族礼拝堂、図書室、冬と夏のダイニング・ルーム、地下にあるシェルターなど。

カーサ・ロッカ・ピッコロ邸
マルタ観光局のホームページより

騎士団長の館
1547年に造られた歴代の騎士団長の公邸で、現在は大統領府兼国会として使用されている。
一度海賊に盗まれた10枚のゴブラン織りタペストリーが壁を飾る「審議の間」や重要な会議で使われた「最高審議の間」では対トルコ軍との大包囲戦の攻防を描いたフレスコ画が迫力満点。
もちろん、歴代大統領の肖像画と共にトルコ軍を撃退したジャン・ドラ・ヴァレッテ・パリゾン団長の勇ましい肖像画もある。

騎士団長の館
マルタ観光局のホームページより

夕食: サーモンと魚の前菜、牛肉の煮込み、チョコレートムース

🛏 サン・ジュリアン泊

6日目 1月11日
🚌 古都イムディーナとラバトの観光へ

ラバトの町
870年、アラブ人のマルタ移住により作られた町。
もともとは一つの町であった隣町のイムディーナとは城壁内のイムディーナと城壁外のラバトとをギリシャ門によって分離がされている。
路地は迷路のように入り組んだアラブ特有の街並み。
10世紀ごろの一つの町だった頃の人口は約300人で、現在は700人ほど。

町のおじさん達が集う「パスティツィ」屋に立ち寄り、試食。これはマルタのお菓子でボート型のパイ生地の中にリコッタチーズを詰めたもので国民のソウルフード。パリパリしていてとっても美味。
他には豆を詰めたものもある。

聖アガサの地下墓地
聖アガサは3世紀、シチリア島のカターニア生まれで、酷い迫害を逃れてマルタ島に渡った。
カトリック教会のミサの中で名前が呼ばれる7人の女性の一人。
1551年にオスマン軍がマルタ島に侵攻した時、人々は聖アガサにとりなしを祈り、マルタ島は無事だったためにマルタの守護聖神となった。
フレスコ画も保存状態がよく残っていて、家族単位でのカタコンベ(地下墓地)となっている。

聖アガサの地下墓地
マルタ観光局のホームページより

イムディーナの町
騎士団がやってくる前の首都だった場所がイムディーナとラバトだが、彼らがやって来た後、城壁が築かれ始めた。

イムディーナの町
マルタ観光局のホームページより

メインゲート 

メインゲート
マルタ観光局のホームページより

→騎士団長マリエルの別荘 →一生建物の外に出かけられないベネディクト会の修道院 →カーマライト教会 →
大聖堂(4世紀に聖パウロの祈りにより、病の床に伏していた父を救われたことからキリスト教に改宗し、マルタ最初の司祭となった聖パブリウスの家の跡地に建築されたマルタで最初の聖堂。「聖パウロの難破」は一見の価値があるそうだが、残念、中には入れなかった)

大聖堂
マルタ観光局のホームページより

個人的にはイムディーナの町は雰囲気があってとても気に入った。

暫くフリータイムの後、帰国の為空港へ

✈ 14:45 発 マルタ: エミレーツ航空 (A330)
  16:25 着 ラルナカ(キプロス)

✈ 21:35 発 ラルナカ(キプロス):同上

7日目 1月12日
  00:55 着 ドバイ

✈ 02:55 発 ドバイ:同上(777-300ER)
  17:20 着 成田

今回はマルタ騎士団について理解が深まりました。
写真は海外旅行50回目くらいでやめたので、マルタ観光局のホームページより引用させて頂きました。お礼申し上げます。

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