見出し画像

イスラエルとシナイ山(エジプト)

(54番)  1993年   4月

イスラエルとシナイ半島(エジプト)へ行ってきました。
エジプトは7年ぶりの訪問ですが、シナイ半島なので雰囲気が全く違います。
行ってみたかった理由はイスラエルには世界の三大宗教の聖地があるからです。参加者は全員で16名でした。

投稿するかどうか随分迷いましたが、イスラエルに行った事のない方もおられると思い、どんな国か知ってもらおうと決断しました。一日も早い戦争の終結を望みながら・・・

1日目 4月27日
✈ 13:55 発 成田: 英国航空 (10時間の空の旅)当時はロシ                                                                          アの上空が飛べたのです    
                  ?  着 ロンドン: (3時間待ち)

✈   ?  発 ロンドン: 英国航空(5時間の空の旅)

2日目 4月28日
  
05:20 着 ロッド: ベン・グリオン国際空港(イスラエルの表                                                                                                         玄関)
                                                    パスポートに入国のスタンプは押されない。

ベン・グリオン空港

国の説明
イスラエルは西側がほとんど地中海に、そして南端は紅海に面している。
首都はテルアビブ。
後記:トランプ大統領時にエルサレムに変更されたが国連は認めていない

自分が理解している事を書いてみたいと思いますが、違っていたら、ご指摘願います。
1 古代はユダヤ人が住んでいたが王国が滅亡した後は世界各地に離散して  いった。
2 シオニズムという祖国復帰運動により、ユダヤ人の国家建設が決まる。3 ユダヤ人不在の間にアラブ人が既に住み始めていたので二つの国に分割することが決まり、当時統治をしていたイギリスが約束をした。
4 1948年にイスラエル建国。パレスチナは建国ならず。
5 アラブ人は約束を反故にされたとして4度の中東戦争が起こる。

後記:1993年8月に和平合意(オスロ合意)が結ばれ、翌年、パレスチナ暫定自治政府が樹立。
PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相が握手をしている映像は昨日のことのように思い出される。
しかし、昨年には又、争いが勃発して戦争状態に・・・😢

🚌 6:00 早速バスに乗り込み観光に出発

した途端に「バリバリバリ~ビュ~ン」といきなり爆音が聞こえてきて、ものすごいスピードで2機の戦闘機がブッ飛んで行った。あまりの歓迎ぶりに思わず腰を抜かしそうに・・・
あれはうわさに聞く、ファントムかミグか(戦闘機はこれくらいしか知らない)、ひょっとしてこれから戦争が始まるのかなあ・・・とあれやこれやと寝不足の頭で想像している間、ガイドさんが淡々と本日の予定や注意事項の説明をしていた。
やっと、最後に「この辺は戦闘機の練習コースになっていますから」と言った途端に、例のミグがさっきとは逆の方向にビューン!と飛び去って行った。
「は、はよう言わんかい!」と思ったが、本物の戦闘機が飛んでいるのを見たのは初めてだったので、「凄い、凄い!」と興奮気味。

最後に注意事項として、「決して荷物を置き去りにしないように」と。
「ほおっておくと穴だらけにされますよ」「???」
持ち主不明の荷物が発見されたら、すぐに兵隊が来て、その荷物めがけてライフルで打ち抜くのだとか。さすがに爆弾テロが多発した国だ。

ベエル・シェバ
聖書に書かれているアブラハム、イサク、アビメレクが誓いを交わした場所

ベエル・シェバ

アブラハムの井戸
約4000年前、実際にアブラハムが掘った井戸の一つ。
井戸だけではなく、住居跡、倉庫、台所なども残っており、ちょっとした遺跡だ。

エン・アブダッド
イスラエルは南の方へ行くとネゲブ砂漠が広がっており、エン・アブダッドはそこにある美しい峡谷のこと。砂漠のオアシスで小川が流れて植物も育っている。

エイラットの町
ここは昨年、ヨルダンのアカバから眺めた場所で「随分と高い建物があって都会だなあ」と思ったものだったが、こんなに早くこの地に来られるとは思いもしなかった。

ホテルへ

3日目 4月29日

シナイ半島へ向かう。
「これからエジプトの国境の町タバへ向かいます。10分で着きますが、入国手続きに4,50分ほどかかります」とガイドさん。
「はりゃ、そんなに近かったの?」と驚いたが、案の定、係官のやることがとろくて、予定通りの時間になったものの、無事入国。

🚌 こっちのバスに乗り換えて「いざ出陣!」ではなく、サンタ・カタリーナへ。
「ウン?バスの前を走っている車は何だ?」
何てったって、走っている車は我々のバスだけなので目立ったのです。
するとガイドさんが「最近、エジプトでは観光客が襲われる事件が多発しており、軍の先導車が護衛としてついて行く決まりになっておりまして」と例の淡々とした調子で言った。

う~ん、このことをすっかり忘れていた。見渡す限りの砂漠地帯ではあるけれども、所々に岩山があり、そんなところにテロリストたちが潜んでいるのではないかと思わずキョロキョロしてしまった。😅

道中、岩山から現れたのは遊牧民であるベドウィンの人達位で、途中の第二次世界大戦の激戦地となったワジ・ラザラに着くころにはもうテロリストのことなどすっかり忘れてしまっていた。

サンタ・カタリーナ修道院
ギリシャ正教の教会で6世紀の建築。
シナイ山の麓にポツンとあり、モーゼが神の言葉を授かったとされる「燃える柴」がある。
後記:2002年に世界遺産に登録。

サンタ・カタリーナ修道院
燃える柴

ホテルへ
と言っても岩だけで造られたバンガローのような建物で、1軒に2部屋ずつあり、それが5,60軒点々と散らばっていた。
元々はサダト大統領が避暑の為に開発したところで、設備は整っていた。
食事は別にレストランの建物があって、宿泊者は皆ここに集まる。

4日目 4月30日

今回のハイライトであるモーゼが十戒を授かったところとして有名なシナイ山登頂へ。
前日は10時半ごろベッドにもぐりこみ、連日の過密スケジュールと睡眠不足でバタンキューだったが、2時半にドアがノックされ、起きろという合図。
サンタ・カタリーナ修道院の脇から3時ちょうどに出発。
気温はそれほど寒くはなく、薄手のジャケットで十分だった。
出発地点ではラクダが数頭客待ちをしていて、懐中電灯で照らさないと踏んづけてしまいそうだった。
シナイ山の高さは2,285mで実際に登るのは800mほど。

1時間ほど歩いてもガイドさんは一向に休む気配を見せず、最初の落伍者となってしまった。星がキラキラ輝いて、おまけに天の川まで「頑張れ」と励ましてくれたような気がしたが、休憩という心地よい言葉には何度も負けてしまった。
辺りはまだ真っ暗で、休むたびにいろいろな国の言葉が通り過ぎて行った。後で聞いたのだが、先頭に立ってスタコラサッサと登って行ったのは70歳の女性だと知り、ガックリ😞。
最後に900段ほどの階段があり、そこをトコトコと登っていると辺りが段々と白々としてきたので、スピードアップして一気に頂上へ。
6時ちょうどに頂上へ着き、太陽が昇り始めたのはそのわずか5分後だった。ご来光に間に合って本当に良かった!🌞

狭い場所にいつの間にか多国籍の人達が集まり、太陽が顔を出すと同時にどこかのグループの人達が讃美歌を歌い始め、辺りは荘厳な雰囲気に包まれた。30分ほど滞在して、あとは下山するのみ。

讃美歌を歌った人達

登ってくるときは暗くてよく分からなかったシナイ山の全容がよくわかった。岩だらけで草木の一本も生えていなかった。途中、数件のお茶屋さんがあり、駄菓子やお茶を販売していた。麓に戻ったのは9時過ぎで行きと帰りで合計5時間半も歩きっぱなしで、もうヘトヘト。
この時ほど、「体力」という文字が偉大に思えたことはなかったが、やり遂げたという充実感はいっぱいだった。

シナイ山

朝食後、少し休憩して透き通るようなきれいな水の紅海を右手に見ながら、再び国境を越えてエイン・ボケックへ。
エジプトの日本語ガイドさんは別れる際、「さらばじゃ」と言ったので思わず、ズッコケそうになった。

ホテルへ

5日目 5月1日

朝食後、マサダと死海へ向かう。

マサダ
死海を望む大きな岩山の上にある要塞跡。
孤立峰なので四方は絶壁。頂上の海抜は450mだが、死海に近いために下からだとマイナス400mなので、850m上る必要がある。現在はロープウェイがある。

A.D.66年にユダヤ戦争が勃発するとエルサレムが陥落、約1,000人のユダヤ人が3年半も籠城し、最終的には集団自決をした場所で967人が亡くなった。
攻めたのは15,000人の古代ローマ軍。この敗北の結果、ユダヤ人たちは国を失い、1948年まで1,900年間も流浪の民となってしまった。
宮殿、住居、シナゴーグ、大浴場、地下貯水場などが残っている。
まあ、よくこんな場所に住む場所を構えたものだと感心。特に貯水場の施設には感服。

大浴場の床の下
パチンコの玉(これで山の上まで撃つ)

死海(海面下394m)
ホテルの目の前にあるので早速ドボン!
10分入っていれば、10年間若返るとかでお決まりのポーズで写真におさまった。
尚、15分間入っていれば、お漬物になるそうで、微妙なところで天地の差が出るために気を付けるようにとの事。

昨年のヨルダン側の死海と比べると随分水も綺麗だった。底はもちろん、海面に出ているものなど、塩の結晶がたくさんあった。それで、海に入る時、足が痛いし、海水を舐めると非常に苦かった。

海水の濃度は通常の10倍の35%だとか。力を抜くと誰でもプカリ、プカリと簡単に浮くことができる。あまり岸から離れて遠くへ行ってしまうと風に吹かれてヨルダン側まで流される人が本当にいるらしく、不法侵入で逮捕されるとか。😅

塩の結晶の上に乗る人

クムラン
「死海写本」が発見された洞窟。
旧約聖書のほぼ全部の写本、旧約聖書外典の文書、宗団文書など、800点あまりの古文書が見つかっている。なかでもB.C.2世紀に書かれた旧約聖書のヘブライ語で書かれたものは世紀の大発見と言われた。粘土を混ぜたインクで羊皮紙に書き、更に壺に入れていたため、乾燥したイスラエルの土地でも完璧な状態で見つかった。

クムラン洞窟

エルサレムへ

ホテルへ

6日目 5月2日

終日、エルサレムの市内観光

嘆きの壁

ここはA.D.70年にローマ軍に破壊されたエルサレム神殿の壁の一部。
お祈りを捧げているユダヤ教徒たちは主に「エルサレム神殿の再建」を願っていると言われており、その姿が嘆いているように見えることから、こう呼ばれるようになった。
壁に向かって左側が男性用、右側が女性用となっている。

ニュースなどで見たことのある「もみあげを伸ばした黒装束の男性達が上半身をペコペコさせて祈っている」場面を想像して行ったが、2,3人しかいなかった。「あれれ?」
どうも時間帯によって人の波があるそうで、女性側には30人ほどが熱心にお祈りをしていた。静かに近づいて行くと涙を流している人がいて、ジッと私を見つめた。邪魔をしてすみませんでした。

嘆きの壁

エル・アクサ寺院
神殿の丘にある預言者ムハンマドを記念して建てられたイスラム教寺院。
710年頃の建築だが、火災や地震で何度か崩壊して現在の物は1066年頃の物。内部の装飾は素晴らしかったが、写真は不可。

岩のドーム

エル・アクサ寺院の真ん前にある。
本来、黄金でピカピカのはずのドームは工事中で残念。
692年の建立。こちらも内部の装飾が美しく、ムハンマドの足跡が残っていたりしたが、いかんせん、写真は不可。

岩のドームは工事中

ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)
イエスが重い十字架を背負って歩いた道で約1km。
ピラトの官邸から始まってゴルゴダの丘まで全部で14個のステーションがあり、それぞれの場所で、イエスが最初に倒れたところとか、母マリアに会ったところとか名前がついていた。実際にイエスが歩いた道は地下に残っているが、行程としては全く同じ。

十字架の重さに耐えかねて転んだ

「こりゃ、かなり長い道のりだ」と少々疲れ気味になった時、やっとゴルゴダの丘の上に建つ聖墳墓教会に到着。ここで、彼は十字架にかけられて処刑された。

聖墳墓教会

中に入って、イエスのお墓に近づこうとするが、あまりにも人が多すぎてなかなか前に進めない。お墓の前には何人かの牧師さん達がいて、ガードをしているようだった。
手には骨のようなものを持って、チラッと我々に見せてお金をくれと言っている。イエスの骨だと言いたいのだろうが、そんなわけがない。
あれ?うちのグループの何人かの人がお金を渡しているではないか・・・
あんなに簡単に騙されるなんて・・・ちょっとビックリ!
観光客からお金をだまし取ろうとする牧師なんて聖職者と言えるか!🤬

最後の晩餐の部屋
ダビンチの絵が有名なので、それをイメージしていくとちょっと違うかも。言わずと知れたイエスが処刑される前に弟子達と最後の食事をした場所。
実際にはテーブルではなく、大理石の床に座って食事をしたそうだ。

最後の晩餐の部屋

後記:ミラノでダビンチの絵を実際に見たことがあり、その時は修復前と修復後の両方を比較して見せてくれていた。想像で書いたとはいえ、迫力満点!

ゲッセマネの園
オリーブ山の麓のマリア永眠教会の近くにある。
ここでイエスはユダに裏切られた。その際、倒れかけた場所も残っている。

樹齢2千年のオリーブの木

ホテルへ

7日目 5月3日

ティベリアへ向かう。
ベツレヘムにある聖誕教会を訪れ、朝の儀礼が始まるまで一時間以上も狭い階段で待った。
始まっても一部始終を見ることができるならともかく、牧師さん達の通りの良い声が聞こえるだけだった。終わった瞬間、「それっ!生誕場所の星形の写真を撮るぞ!」と意気込んでみたが、牧師さんの一人が祭壇の前に立ちふさがり、「御免なさい。これからお掃除です。皆さん、ここから出てください」だと。

朝の儀礼

エリコ
9千年前に出来た世界最古の町だとか。
現在は農村風景が美しい町として有名だそう。
モーゼが今から3千年前に民衆を連れてエジプトを出て、シナイ半島を40年間さ迷った後、最初に入った町がここ。
Tシャツのロゴに「The oldest city in the world」とプリントして売られていた。

ベイト・シャン
B.C.4千年頃に出来た町の遺跡
列柱が並んだ大通り、ローマ時代の円形劇場、神殿、浴場、商業施設などが残っている。

ティベリア
円形劇場で日本の「山海塾」が公演をしたことがあるそうで、拍手喝さいだったとか。

円形劇場

ホテルへ

8日目 5月4日

ガリラヤ湖周辺の観光

バニヤス自然保護区
ヘルモン山からの雪解け水が湧き出している泉と川に囲まれた美しい公園。

ゴラン高原
少しずつ山の景色に変わってきたころ、「おー、あるわ、あるわ!」道路の左手に3mおきに黄色と赤の三角印。そう、地雷が埋まっているサイン。
30個はあったように思う。埋めたのはシリア軍。
今でも放牧されている牛がそれを踏んで爆死してしまうそうだ。人間がそちらに行かないようにすべきじゃないかな。

ゴラン高原

去年の暮れに行ったカンボジアでも地雷が埋まっているすぐ傍まで行ったことがあるが、いや~、金輪際、「地雷危険」の看板は見たくない。

「ゴラン高原もあと10年のうちにはイスラエルから返還されるでしょうね」とはガイドさん。彼は大学を出て世の中が見てみたいと、いきなりイスラエルくんだりまで来て、キブツで生活をしながら、ヘブライ語をマスターし、今や日本人観光客のガイドとして立派に生きている人。キブツでは毎日せっせとメロンの栽培に精を出し、今ではすっかりメロンの虜に・・・ではなく、見るのも嫌だとか。滞在は、かれこれ7年になり、かの湾岸戦争の時はせっせと日本語のガイドブック作りに励んでいたとか。それも空襲警報のサイレンに慄きながら。

ゴラン高原に駐留中の国連軍のうち、ポーランドが来年あたり任期満了で帰国するらしく、その後任として何とわが日本に白羽の矢が立ちそうだとガイドさん。フム・・・そうなるとひと悶着ありそうだなあと緑一色の草原を見ながら思った。噂で終わったようだ。

ゴラン高原の国連軍

ガリラヤ湖に戻り、名物のセント・ピーターズ・フィッシュを昼食に食し、湖を一時間かけて遊覧。
ここで、ガイドさんから面白い話を聞いた。
ある日本のグループをアテンドした時、船で遊覧しながら「言葉を清める儀式」として、「あ」と言った後に、何か念仏のようなものを唱えて、次に「い」と言って念仏を唱えるという具合に続けるのだとか。世の中には不思議な宗教があるものだ。

パンの奇跡の教会
イエスの説教を聞きに集まってきた群衆5千人に対して「2匹の魚と5つのパン」を分け与えて満腹にさせたという場所。
動物や鳥のモザイク画が綺麗。
表紙の写真が2匹の魚と5つのパン。

祝福の山
イエスはここで12人の弟子を選んだ。

カペナウム
ガリラヤ湖畔の小さな町。
イエスが故郷のナザレで迫害にあったのち、ここに移り、ガリラヤ各地で伝道をした。八角形の教会、シナゴーグ、ペテロの家などが残っている。

キブツ
以前から興味があり、楽しみにしていた場所。
パレスチナを追われたユダヤ人達は世界中に離散したが、逃亡先の国でも迫害にあった。
1909年にロシアで迫害を受けていたユダヤ人たちはガリラヤ湖周辺に帰還し、そこで自分たちの共同体を作った。それがキブツの原点で「平等」を掲げて農業を自給自足で始めた。
我々が訪れた場所はこぢんまりとした農家の集まりといった感じでのどかだった。

ホテルへ

9日目 5月5日

ガリラヤ湖の夜明け

ナザレの受胎告知教会
2階にある世界中から贈られた「聖母子の絵」は各国、それぞれ特徴がでており一見の価値があった。日本からはルカ長谷川氏の作品で、さしずめ、竹千代と母君といったイメージで着物の上の羽織には本物の真珠がはめ込んであるそうだ。かなり、大きな絵だ。

聖母子の絵

アッコー
地中海に面した港湾都市で以前は18~19世紀のイスラム教徒による要塞都市でもあった。地下には十字軍が建築した遺跡が残っている。

カイザリア
この辺りはローマ帝国の属州だった場所。
円形劇場、競技場、導水橋などが残っている。

導水橋

途中、軍事産業と工業が盛んなハイファという町を通りがかった時、ガイドさんが突然「皆さん、右手のスーパー マーケットを見てください」と言った。
「フム、立派じゃないの」と思っていると「ここは湾岸戦争の時、イラクからスカッドミサイルが飛んできて、木っ端みじんとなったところですが、見事に復旧しましたね」と。
その時、89発のスカッドミサイルが飛んできて、こことテルアビブに落下したそうだ。

見事に復活したスーパー(赤文字の丸い建物)

ここで一つ、ガイドさんから聞いた話で全く知らなかった事があり、書き留めておきたいと思う。
「45番のバルト三国とポーランド」にも記載している。
第二次世界大戦の時、多くのユダヤ人達がナチスの手から逃れるために、日本行きを希望した。ところが、外務省がビザの発給を許可しなかったために、リトアニアの領事館に勤めておられた杉原千畝さんという方が独断で発行し続けたのだそう。それが約1か月続き、6千人の命を救ったとか。
現在、エルサレムに彼の名前の付いた木が植えてあり、リトアニアのカウナス市には「すぎはら通り」という道路があるとか。

最後の夜はテルアビブで過ごしたが、部屋にこもっていたのでどんな街だったか覚えていない。

10日目 5月6日

空港へ

出国時は入国時とうって変わって厳しく、一人当たり15分ほどかけての質問攻め。
例えば、銃を所持しているか、私の場合、パスポートにヨルダンのスタンプが押してあったので、何をしに行ったのか、そこには友人がいるのか、はたまたこの旅行会社を何で知ったのかなど、あまり意味のよく分からない内容までいろいろだった。

11日目 5月7日

帰国

ここで、ヨルダンを訪問した時のガイドさんで、パレスチナ人の方を思い出しました。一刻も早くイスラエルに戻りたいと言っていた彼は今頃どうしておられるでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?