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13年前のあの日を思い返す 東日本大震災 石巻赤十字病院にて

今日は2024年3月11日。東日本大震災から13年。
今日は父が抗がん剤治療の為に日赤病院へ入院する日なので、その付添いで行き午前中は病院にいました。ふと、今日持ってきていたバックにモバイルバッテリーが無く、少し焦る。よく考えてみると東日本大震災の頃からバッテリーが切れることがとても怖くなり、いつでも持ち歩くようにして、そして震災後に初めて充電をした場所が石巻日赤だったことを思い出す。

毎年この3.11に、その日から起こった様々な膨大な記憶、記録を見ては何かを思い起こし、その時に置き去りにしていた思いなどをnoteにぶつけるということをここ数年前からやっていた、と振り返るとそう思います。

今日は日赤病院にいたので、震災時に何度か日赤に行った時の記憶を思い起こしてみようと思います。

歩いて片道1時間30分

東日本大震災時に、石巻市湊地区で被災した長女、次女の姉達。長女が出産間近の状態で被災し数日の間家屋の2階で避難。

僕の自宅も床上冠水し、水が引かない状況が数日続きましたが水位がある程度下がり、義理兄が歩いて来て14日に歩いて家まで来てくれました。

出産間近の姉は運良く自衛隊に救出していただいて石巻日赤病院へ搬送されたと教えてもらう。なので、日赤病院まで歩いていくことにしました。

2011年3月11日 自宅
2011年3月12日 自宅2階から
2011年3月14日 石巻市立町

様々な道路が冠水して、瓦礫が溜まっていて歩けなくなっている箇所も多くありました。冠水しているところでは、マンホールの蓋が開いてしまって落ちて大怪我をしたり、亡くなられた方もいるという話を耳にする。
水の中を歩く時は自分の歩く方向の前を杖代わりの木刀で確認しながら歩く。

2011年3月14日 住吉二丁目

中里方面は冠水がひどいとのことだったので南境のトンネルを抜けて病院へ。途中の冠水している場所ではまだ回収できていないご遺体も見える。
ここが今まで自分が生まれ育った町なのかと、唖然としながら歩いていたのを覚えている。

2011年3月14日 元倉・中里

野外病院のよう、溢れかえるロビー

日赤病院に到着すると、外にテントが貼り出されて長蛇の列が出来ていました。なんの列なのかはわかりませんでしたが、おそらく簡易診察の列だったのかな。

同時にヘリコプターも到着、着陸し救出された人たちが降りてくる、そしてタンカで運ばれる人もいた。

2011年3月14日 石巻赤十字病院 ヘリコプター
2011年3月14日 石巻赤十字病院 ヘリコプターから運び入れる
2011年3月14日 石巻赤十字病院 長蛇の列

病院の正面入口から入ったロビーには、簡易ベット、ブルーシートが並べられそこに人たちが運ばれてきている。沢山の人で溢れていた。黄色、赤、そして黒とゾーニングがされている。その意味は後で知った。

2011年3月14日 石巻赤十字病院 ロビー 簡易ベット
2011年3月14日 石巻赤十字病院 ロビー ブルーシート

病院で、姉に会うことが出来てベンチに区画をもらっていて休ませてもらっていたようで安心する。

少しだけ電源をお借りして充電させてもらい、当時使っていたiPhoneやMacBookが少し生き返る。

この3日後に姉は無事に男の子を出産。その子は来月で中学2年生。魚が好きすぎて、ここ数年前から博士ちゃんという番組によく出て、人生を謳歌している。あの時に生まれてきてくれてありがとうと心底思う。ゆっくり人生を愉しんでほしい。

あの時生きられなかった人たちの分も。

家に戻ると当たりは薄暗い。ロウソクに火を点けて、銀紙をクシャクシャにしたお手製の反射板をセットして明かりを灯す。

電気が我が家に再び来るのは4月下旬だったか、5月だったかずいぶん先になりました。ガスはもっと先だった。

また、東日本大震災について色々と書いていければと思います。

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