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はきだめのチェリー 15

【15】

 仕事から逃げて、家も灰と化し、行くあてのないまま流浪してきた。このまま、世界を一人ぼっちで彷徨するしかないと絶望していた。

 でも今は、ユメキと同じ屋根の下に居る。深淵を這いずる私に差し込んだ陽光、傍らに居てくれるだけで希望を感じる存在。キリスト教徒が主イエスを信仰することも、きっとこういう感情に近いのだと思う。

 こんな風に誰かの家に転がりこむなんて、以前の自分ではあり得なかった。だが、もはや家と呼んで良いのか分からない有り様だった。鬱蒼と生い茂る雑草と錆びたトタンに囲まれた空間。〝廃墟〟と言っても差し支えない、人の住処とは到底思えない。入口には土建会社の看板が辛うじて読めた。中心には朽ちた工業用サイロが鎮座して、この場所の歴史を物語るように何本もそびえ立っている。端から見たら廃墟にしか見えない。その側にある二階建ての古いプレハブが、ユメキが暮らしてる家だ。

 家族が所有してる土地らしいが、こんな僻地で暮らすような間柄ということは、恐らく疎遠なのだろう。深淵を覗き込む勇気も持てず、聞けずじまいだった。

 ユメキはホコリまみれのソファーでぐっすりと寝ていた。ところどころレザーの革が剥がれている年期の入ったオールドファッションの家具。こちらに寝返りを打つと、無防備な寝顔が見放題だ。素顔で居ても変わらずにキュートだ。

 ここまでの自分を改めて思い返すと、ユメキを聖人化し過ぎではないか? そんなふうに自問をしてしまう。 まるで聖母かと言わんばかりに、女性に『聖』と『性』を押し付ける。あまつさえ立場を利用して性的強要を強いる有害な男性性。これまで数多と存在してきたクソな男たちと私の思考は、もしかすると同根かもしれない。そんな不安に苛まれる。

 出会った夜からユメキと身体を重ねることは無かったが、彼女の相貌と恵体に歪んだ感情を向けていないと言える自身は、やはり無かった。

 頭を抱えて考え込んでると、ユメキが目を覚ました。大きい眼で見つめ返されると心臓がきゅっとなる。

「いや、いつからそこに居たの。マジでキスする距離じゃん」

「今さっき。寝てる人間にキスしたら単なるヤバいやつだって」

「だね。それでどうですか。ここに来て暫く経ちますけど、住み心地の方は?」

「うん、良いよ、すごく。外観から想像するよりもしっかりしてる」

「外面より中身が大事でしょ。てか、ちえりも三白眼で犯罪者っぽい見た目だけど、けっこう紳士だしね」

「死相と揶揄されがちな三白眼だけど、別に無法者ってイメージでも無いでしょ、ユメキちゃん」

 公園で再会してから、カレンダーを何枚もめくるほどの歳月が流れた。その間に、ユメキと気さくにやり取り出来るほどの関係を築いていた。お互いに下の名前で呼び合う間柄にもなっていた。

 些細な冗談も自然に交わせる。

「お腹空いたね、ご飯作るからネトフリでも見てて」

「うん」

 そう返事をして再びソファーに寝転ぶユメキ。

 彼女の行きつけのパン屋で買った激安の食パンの耳を使ってフレンチトーストを作る。皿にパンの耳を敷きつめ、砂糖と牛乳、卵液を混ぜ合わせてフライパンで焼き上げる。昔、母がよく作ってくれたものだ。

 優しい哀愁が胸をそよいだ。こうやってユメキと食事をしている時間が私にとって代えがたい至福のときになっていた。

「もう何回も食べてるけどさ、やっぱ美味しいよ。お母さん直伝なんだっけ?」

「うしろから盗み見てただけ。隠し味にハチミツも入ってたと思うな、確か」

「適当だねぇ。でも親子の思い出って憧れるなぁ。お墓参りは行かなくていいの?」

 ユメキの問いに、緩みきった神経がピアノ線のように硬く張り詰めた。思い出したくない現実、愛憎の入り混じった母の死、向き合ってこなかった背徳感が胸の奥を覆った。

「……まぁ、姉が行ってくれてると思うし、私なんか行かなくても問題ないよ。たぶん」

 姉を引き合いにして自身を卑下することしか、今の私には出来なかった。結局、私は変わってなど居ない、腕を失くして、他者に暴力を奮う、ただのクソ野郎だ。身勝手な感情を眼の前の聖母に向けているに過ぎない。神にすがるだけの醜い信徒、自らの愚行を棚上げする愚か者なんだ。

「でも、行かなきゃしれないと思う瞬間が来るかもしれないよ。その時は車出すからさ」

 フレンチトーストを咀嚼しながら、慈愛の表情を浮かべるユメキ。私は口を抑えながら、恭しい態度で応えた。

「……ありがと。お替りはいっぱいあるからさ、どんどん食べて」

 話を逸らすのに精一杯だった。ユメキに変な気を遣わせてしまった。きっと私なんか邪魔でしかない。今さら墓参りなんて行く資格も勇気は持ち合わせてなかった。

「それより聞いてよ、今週の『リコリス・リコイル』が結構盛り上がってるんだよ。千束の背景が掘り下げられて物語の幅が広がってるの」

 配信で見ていたテレビアニメのリコリス・リコイルは、主人公の錦木千束がアサルトライフルの弾丸を避けたりする突飛な美少女アニメというのが、私とユメキの第一印象だった。だが、話数を重ねるうちに他の美少女アニメとは違う独自の面白さが生まれていた。

「設定がぶっ飛んでるからさ、最初は振い落とされそうだったけど、話数を重ねるごとに見逃せなくなってきたね。曲のイントロがフェードインしてきてエンディングに入るのって、何か良いアニメを見た気にさせるよね」

「アレ良いよね。ストップモーションを抜いたシティーハンターのエンディングみたいで」

 ユメキのスマホで一緒にアニメや映画を観るのも慣れた。ここまで感性が合う人も今まで居なかった。そもそも、そんな友達も誰一人居なかった訳だが。だからこそユメキはかけがえの無い存在だ。たまには意見が食い違う時もあるけど、本当に幸せな時間だった。

 他にも、彼女が描いたイラストを見させて貰った。絵を描けない私が言うのも何だけど、色も塗られていない下描きのような二次創作のイラストがスケッチブックにびっしりと描かれており、そのどれもがお世辞にも上手いとは言えなかった。ツイッターに流れてきたら絶対にいいねは押さない微妙なラインの画力だ。

 ……少し踏み込んだ質問をしたくなった。

「ユメキちゃんが出した本って、手元に今ある?」

 公園で再会した時に話してくれたユメキの描いた同人誌のこと、この質問を足掛かりに、一番言いたかった問いをするつもりだった。

 ――私たち二人で、共作で漫画を描いてみない? 

 漠然としているが、お互いが抱えるコンプレックスを共に乗り越えられるかもしれない唯一の方法だと思った。

「いや、実は恥ずかしくて捨てちゃったんだ、原稿ごと。『ドリフターズ』って漫画あるでしょ。主人公の豊久と土方の二次創作、ちなみに非エロね。バトルシーンが難しくて描けないし、絡みなんてもっと無理だし。だから会話してるコマばかりのマジでつまらない本だよ。見せる価値もないよ」

 ユメキは自分の描いた作品を卑下した、想像していたよりも深い傷となって残っていた。

「そっか。でも読みたかったな、ユメキちゃんの漫画。私も自分の話を書きたいと思ってたから、お互いの作品で合同誌とか作れたら最高じゃない?」

 その瞬間、ユメキの周囲の空気が一気に冷たくなった。この感覚は、以前に味わったことがあった。手首の傷をリストカットかと不躾に訊いたときだ。傷がイコールでリストカットというのも安易で無礼だ。思わず身体が硬直する。

 ユメキが冷たい息を吐いた。

「……あのさ、そういうのいいよ。自分の痛い過去を興味本位の相手に見せられるほど人間出来てないよ、私は。それに絵と文章じゃ全然違うよね?」

「あ、ごめん。純粋にユメキの描いた本を見たかっただけなんだ、うん。気を悪くさせちゃったら、ごめん……」

 生活を共にするに連れてユメキを怒らせてしまうことも増えた。「今まで付き合った男たち同士でBL妄想したことある?」と聞いた時は、流石にそんなことしないと本気で怒られた。あの蔑みの表情は未だに脳裏に焼き付いてる。次の日まで口を利いて貰えなかった。そんな事を尋ねる私が至らないからだし、ユメキは悪くない。

 トーストを完食し、食器を台所のシンクに落としてユメキがこちらに居直る。

「てゆーか、ちえりが書きたいって話はどういうんだっけ?」

 ユメキとの甘い生活で忘れそうになっていた。私が綴りたい物語。ユメキの丸い目を見据えて、真顔で応える。

「はじめて会った時にさ、『真夜中のカーボーイ』の話したよね」

 ユメキはスプーンを振りながら遠い目をしていた。

「実は、あんまり内容は覚えてないんだよね。たしか、ラストに何処かに行くんだよね?」

「マイアミね。死の間際のダスティン・ホフマンの想いを叶えるために、ジョン・ボイトは何とか金を工面してバスに乗るの。でも、ダスティン・ホフマンは彼の腕の中で死んでいく」

「ふーん、そうだっけ。あぁ〜そうだ思い出した。結局行けずに亡くなっちゃうんだよね。なんかさ、話してたら自分の思い出も蘇っちゃったな」

「何の話?」

 ユメキが過去の話をするのはあまり無かった、気持ちが前のめりになる。身を乗り出してユメキの話に耳を傾けた。

「私が学生の頃、大洗の海まで原付で旅したことあってさ。よく分からない県道の山道をダンプの煙にまみれながら、ひたすらバイクを海の方に進めたの。辿り着いた時に嗅いだ磯のニオイと海面の波が縦横に揺れ動くあの光景、どれひとつとして同じ波模様はないんだよ。スゴくない? また見たいな……」

 感慨にふけるユメキの横顔。ここではないどこかを夢想する儚げな表情。深いため息をつく彼女に、私は寄り添うように聞いた。

「ユメキちゃんはさ、私と居たくない?」

 自分でも言ってて恥ずかしくなるほど虚しい。捨てられそうな飼い犬のように懇願の表情を向ける。

「そんなことないよ。でもさ、今度一緒に行く予定を立ててみない? 良いところだよ、大洗」

「うん、行こう。いつか」

 そう言い終えた私を、まるでペットを家に残して仕事に出る飼い主のような笑顔で見つめるユメキ。 この虚しさと充足感がぐちゃぐちゃに混ざり合う感情。これが、今の私の生活だ。

「話変わるんだけどさ、あの田中さんがまた訳の分からないメールを送ってきてさ。今度会うことになったんだよ」

「え……?」

 田中、忘れていた。この右手を、有無を言わさずブッタ切った野郎。その田中に会うという彼女の一言に、返す言葉も失い、眼の前が黒い幕に覆われたように、ゆっくりと暗転していった。




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