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はきだめのチェリー 16

【16】

 結局、一人であそこに居るのも耐えられなくなった。ユメキは、田中の奴のところに行った、私を置いて。別にユメキが何処に行こうと彼女の勝手だ。私は彼女の生活空間に転がり込んだ居候に過ぎない、そこら辺のヒモと大して変わりない。今日だって、ユメキに生活費として一万円を手渡してもらった。もう習慣化していた。とは言っても、仕事もせずに映画館と病院通いの日々だ。

 惨めな自分から目を背けるように、ユメキの家を出てバス亭に足を運んだ。鼻を突く排ガスにまみれながら、隣町の映画館に向かった。

 〝バスと映画〟はいくつもの名作を産んできた。ユメキと何度も話した『真夜中のカーボーイ』もそのひとつだ。

 ラストシーンでジョン・ボイト演じる主人公ジョーは、ダスティン・ホフマン演じるラッツォとバスの後部座席で寄り添うように座る。貧困ゆえに病気の治療がままならないラッツォは病魔に侵されながら死んでいく。彼岸に旅立つ友を離さないように強く抱き締めるジョー、孤独に押し潰されないように、強く、強く。私の心に深く刻みこまれたアメリカン・ニューシネマの傑作だ。

 この右手になる前に書き溜めていた物語も、真夜中のカーボーイのように孤独な魂同士の結び付きを描いた話だった。あの二人を女性に置き換えたような。恐らく誰も書いてない、自分が心の底から書きたいと思える、私だけの物語だった。それを書くことで社会の底辺を這いずる人生を少しでも好転させられるかもしれない。さもしい心の内で、そう願っていた。

 しかし、他者を傷付け、自分の可能性をドブに捨てた今、希望の光を完全に見失っていた。隣に居てほしい彼女はいない。映画のラストで、ジョーの横に居てくれたラッツォのように。
 虚しく空いた隣の席を横目に、灰色のため息を吐いた。

 今ごろユメキは田中と何をしてるんだろう?  

 食事? 映画? セックス?

 考えるだけで奥歯がギリギリと軋む。呼吸も浅くなる。田中のチンコを引き千切って口に突っ込んでやりたいと本気で思った。

「あっ……」口の中で小石を噛んだような感覚に襲われる。何かを食べてる訳でもない。つまりそれは、私の貧相な歯だった。

 こんな時に欠けるとか、マジでクソだ……。手を突っ込み、乱暴に取り出しジッと見つめる。 田中への殺意が剥き出しになっていた。捨てるわけにもいかず、ポケットにしまう。

 すると、何かが左手に当たった。仕事で使っていた、安っぽいボールペンだった。

 焼失した我が家から持ち出し、ズボンに入れておいたやつだ。すっかり忘れていた。今さら持っていても仕方ないが、近くにゴミ箱も無いのでポケットに捨て置いた。

  自暴自棄の感情を抱えたまま、隣町の映画館に辿り着いた。

 午後三時の回、劇場の五番スクリーン。客はまばらだ。『声もなく』という映画を観た。とても素晴らしい映画、だったと思う。

 孤独な人々が擬似家族のようなコミュニティを形成するが、正しいとされる社会の規範が彼らを引き裂き、物語は悲しい顛末をむかえる。

 完全に好き、だったはずの作品。なのに腑に落ちない。喉元に引っ掛かって胃のほうまで落ちてくれない。

 田中とユメキの二人に意識が引っ張られ、拭っても拭っても消えない疑念が頭の周りをまとわり付いていた。

 同じスクリーンで観ていたカップルが、ほっこりした雰囲気を漂わせながら私の後ろを着いてくる。どうやら彼らにはハマったらしく、好意的な感想を大声で垂れ流してる。

 無性に気に入らない態度。反抗の意思を表明するように、彼らに聴こえるくらいのボリュームで大きく舌打ちをした。カップルの会話がぴたりと止まり、私を睨む視線を背中に感じる。

 こちらがメンチを切るようなことを仕掛けていながら、居心地が悪くなる。連中から逃れる様に、足早に三階フロアで降りた。

 おそらくは侮蔑の言葉を吐きかけているのであろうが、具体として耳に入ってこないうちに逃走した。

 三階ではフリーマーケットが開かれていた。

 洋服、雑貨、玩具。色とりどりの品物が並んでいる。行き交う人々を呼び込む出展者たち、活気がフロアに溢れていた。

 しかし、誰も私には話しかけてこない。この右手に引いてるんだろう、きっと。

 スペースの端の方に来ると、かわいい猫の雑貨が置いてる店を発見した。他にも中東にある大型の花や見たことない草木がある。ぼーっとしながら少し眺めていた。

「その右手、何かありました?」

 フリマに出店していた金髪の中年男性に、ふいに話しかけられた。

 頭をあげて顔を見やると、右目には眼帯を付けていた。

 知らん人間にこの手のことを言われるのは慣れてないし、オッサンのほうはどうなんだよと聞き返したくなる。

「……いや、仕事でちょっと」

 深い詮索を拒否するように、声を落として返す。

「そうでしたか、不躾に聞いてしまったね。少しお訊ねしたいのだけど、その手になる前と後で、貴方の心に何か変化はあったかい?」

「は? いや、それ、どういう意味ですか?」

 何故そんなことを聞くか理解できなかった。私の訝しい態度を気に留めることなく、男性は滔々と語り続ける。

「実は僕、数年前に脳梗塞で倒れてしまいまして、合併症で右目まで見えなくなってしまったんだ。しかも、余命まで宣告された。でも、どっこい何とか生きてる」

 彼の口から語られる壮絶な人生に、私は頬を打たれるような衝撃を感じた。この人は、私が及びもしない人生を歩んできたのだ、そう思う。消え去っていた他者への思いやりが、ふと蘇った。

「……それは、大変でしたね」

 彼の右目の眼帯には、『死に損ない』と書かれていた。確固たる意志と揺るぎない価値観が込められているのだろう。強いステートメントを感じる。

「いやいや、僕自身、病人ということもあって、似た境遇に置かれた方を見ると居ても立っても居られなくなるんだ。それでつい訊ねてしまったって訳」

 赤の人間にいきなり身の上話を振る姿勢には少し後ずざりしてしまったが、何故だろう、この人から漂う不思議な佇まいに、心の柵が取っ払われていく感覚は。何と言うか、過酷な人生に向き合ってきたことが頭じゃなくて心で理解出来る。凄くざっくりした概念だが。紛れもない強い信念が、全身から立ち上っていた。

 男性が話を続ける。

「まずは、今の自分の〝前提〟をしっかり認識することだよ。そうすることで、人生が好転するきっかけにもなる」

 前提? 少し分かる気もするが、マイナスに居る人間はマイナスに留まるだけじゃないか? 答えのようで答えじゃない。ポケットに手を入れながら、私は軽く首を傾げた。

「ポケットの中に何か入ってるの?」

 ポケット? あぁそうだ、ボールペンが入ってたんだ。言われざまに触れた途端、指に引っかかって床にぽとりと落としてしまった。

「うん、コレなのかもしれないね。貴方が抱える〝前提〟は。じゃあ、コレを差しあげるよ」

 私のボールペンを拾い上げた彼は、おもむろに猫の絵柄の入ったノートを差し出した。

「いや、悪いですよ」

「大丈夫。それが〝前提〟なら、必要としてるのは多分コレだろうから」

 淀みなく一方的に渡してくる。騙そうって意識も感じない。私は快く、ボールペンと彼が手渡すノートを受け取った。

「じゃ、この猫のしおりも買うんで」

 少しでも後腐れないよう、金だけは落としておくことにした。

「貴方が変われるかどうかは分からないけど、こういう一つ一つの積み重ねが変化を呼ぶから。世界はつねにフロウしていく。万物は留まることなく流れ続ける」

 意味が分からないような、でも意味の一端だけは分かったような、そんな気もする。

 猫のノートを目の前に出し、私は変われますかと、所在なさげの表情を向ける。

 そのときには、別のお客の応対をしていた。

 ここに来る前よりも身体が軽くなった気がする。あの眼帯の男性との対話が、私の心の重荷を軽くしてくれた。

 年季の入ったバスのエンジン音を再び耳にしながら帰宅の途につく。行きの風景と変わりないはずなのに、少し違って見えた。

 自分がスタート地点に着く前に野垂れ死にそうな状態だったことに、しっかりと向き合えた。前提を知ることで未来に向かって一歩を踏み出せる。

 未来の不安や果てしない怒りや得も言われぬ焦燥、狂ったような世界。廻り巡る歴史と価値観。その中を無為に生きる私。

 ――決めた。書くんだ。無理とか、書けないとか、もう知らない。

 ペンとノートに想いをぶつける。掃き溜めみたいな人生で、自分だけの感情を吐き出す。


 タイトルは、『はきだめのチェリー』


 チェリーは勿論、私自身。ダサくても構わない。私はダサい、そんなダサい私には、おあつらえのタイトルだ。

 ユメキは隣に居ないけれど、居ると思えればそれは居るのと変わらない。ジョーの隣にラッツォが居たように。

 焼きなんかまわっていない。果てしない回り道の果てに見つけた。

 

 この想いは、もう放したくない。







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