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はきだめのチェリー 9

【9】

 まるで宙を浮遊するように、足元がふわふわとしている。フロントガラスに映る風景が、眼から後頭部へとすり抜けていく。不安でハンドルを握る手も小刻みに震えていた。

 冗談めいたトーンではない、芯の込もった殺意。それまでの関係性が無為に帰すような拒絶感。ふとした拍子で私に害が及ぶかもしれないという堪らえようのない不安、得体のしれない恐怖が頭の中を駆け巡った。

 そんなことは露知らず、気分良く鼻歌を歌っている田中。生まれた世代が近いから何の曲なのか分かってしまう。安室奈美恵の『Body Feels EXIT』のサビ部分だ。そんなことはどうでも良かった。こんな奴の隣に居たくなかった。早く仕事を切り上げて帰ろう。

 

 地域のゴミ処理を一手に担うクリーンセンターに着いた。

 燃却炉まで車を移動して、回収した袋を車から投入していく。轟々とした炎に消えていくゴミを眺めてると、少しだけ落ち着く。何もかも燃やし尽くす火が、すべての辛苦を払ってくれるようで。もはや巨大なお焚き上げを見てるのと同じ感覚なのかもしれない。

 舞い散る白い灰は、深々と降り積もる雪のようだ。頭がだいぶ参ってることを自覚しつつ、ポケットからキーを取り出して車に戻る。


「あ? あそこに居るのってもしかして。おーい!」

 田中が声を発した方を見ると、隣接する交流センターに見知った姿があった。

「あー、田中さんじゃん! 久しぶり」

 ユメキだ。上下がピンクのジャージにキティちゃんのサンダルという装い。ヤンキーの彼女がよく着てるファッションだった。小さい身体を躍動させて目一杯に手を振る姿は、まるで天使のようだ。口には出せなかったが、紛れもない本意だ。

クリーンセンターの鼻の先、ゴミの汚いイメージを払拭するように作られた小さな公園。その中にある小綺麗な作りのブランコに腰掛けてゆらゆらと揺られていた。

「只野さんも一緒じゃん。そっか、仕事場が同じなんだっけ。仕事服、けっこう似合ってるね」

 肘を押し付けるような仕草で言ってくる。胸がきゅっとなって、思わず目を逸らした。一方でビジネストークなのでは? と穿った思考もしてしまった。

「そう、俺が仕事出来ないぶん、めっちゃ助けられてるの。それより何やってんの、こんなへんぴな場所で」

「へんぴって、良いじゃない。ここってゴミ処理場の近くだからあんまり人が近寄らないじゃん? だから落ち着くんだよね〜。誰にも絡まれずにゆっくりと本読めるし」

「何の本?」

「ババヤガの夜って小説。メチャクチャ面白いよ、これ」

 見知ったタイトルだった。しかも人生の一冊に挙げるほど大切にしてる作品だった。思わず食い気味に答える。

「それ、私も読んだ。すごい面白いよね」

「只野さんも好きなんだ! めっちゃ嬉しい! このさ、女同士の恋とも友情とも呼べない淡くて切ない関係が良いよね。血を滾らせる超絶バイオレンスもテンション上がる! ここのさ、ヤクザがナニを切られてそれを小箱に詰められてる場面が最高でさ〜」

 そこは読んでて引いたが、ユメキのツボにはまったのだろう。この饒舌になった時の彼女を見るのは、何というか、至福だった。

「チンコがアレされる話は苦手だな。殺し屋1で縦にちょん切られるコマとかトラウマなんだよ。どうしても自分がされる想像しちゃうからさ。でもユメキちゃんが言うなら面白そうだね」

「田中さんのは膨張率あるから切るタイミングが問題だね。うん」

 一人で頷きながら冗談めかして言う。

 田中も私もユメキと肉体関係がある。この事実が話に混ざりにくい所以だ。

「令和の阿部定事件でも起こす気? でもユメキちゃんになら切られたいかもな。まぁ、後でまた呑もうよ」

「そうだね。只野さんとも沢山お話したいしさ!」

「うん。楽しみにしてる」

 互いに手を振って立ち去ろうとすると、腹を抉るほどの爆音を鳴らしたセダンが眼の前に停まった。路肩にも寄らずウインカーも付けない。後続の車に気を配らないヤンキーのような停車。

 ユメキの目元に影が落ちたように見えた。車の方に駆け寄る。

「迎えに来てくれてありがと。お仕事行こっか」

 車内から坊主にサングラス姿の男が姿を現した。ハッキリ言って堅気には見えない容姿。サングラスを少し下げて、私と田中に無表情で一瞥を向ける。

「早く乗れよ」

 低く野太い声。高圧的な態度を向けることに、何の躊躇いも感じない。本物のヤバい奴が醸し出す威圧感。話の通じる相手にはとても思えなかった。

「まだ時間あるでしょ」

 笑顔を繕っているが、声は明るくはない。

 すると、男がユメキの腕を強く握って車内に引っ張る。言われるがままの彼女は強引に引きずり込まれていく。

「なんなんだよ……あの野郎は」

 二人をじっと睨みつける田中の身体が怒りで震えていた。気が付くと、私自身も両の手を思い切り握りしめていた。

「嫌がってるようにも見えましたけど……。マジで誰なんすか、あの野郎」

 田中ほどではないが、私も腸が煮えくり返っていた。

「ジョディフォスターを無理やり引っ張り回すハーヴェイカイテルじゃねえかよ」

 マーティンスコセッシの映画、タクシードライバーにある一場面と酷似していたのは分かる。と同時に、そんなこと言ってる場合かとも思う。

 しかし、心中は限りなく複雑だった。

 コミティアでは別の男性と付き合っている様子だったのに、今は全く別の野郎。

 複数の人間と付き合ってるのか、それとも……。ユメキの行動に脳が追い付かなかった。

 しかし、田中には言えない。言いたくもない。私だけが知る、ユメキの顔だから。

 おそらくは仕事の送り迎えをしてる下っ端とかだと思う、多分。あの態度にも腹が立つが、ユメキに暴力を振るってると決まったわけではない。

 だが、田中の心が荒れているのが手に取るように分かった。

「あんな奴、ろくな人間じゃねえよ。ユメキの為にもならない。あいつも殺したい」

 口だけなのか本気なのか聞くのもダルかった。

「もし付き合ってるとするなら、なんとかして離れて欲しいなとは私も思います」

「お前もユメキが好きなの?」

 田中が最短距離で聞いてくる。そんなストレートに問われると、新品の朱肉を押されたように頬が一瞬で赤くなる。暑さで気付きにくいのが救いだ。

「めっちゃシンプルに聞きますね。そういうんじゃ無いですって、多分」

「多分て言ってる時点で分かったよ。オレは彼女を助けたい。トラヴィスみたいに」

 私がユメキを好きなことがバレていた。もはや気にしない、田中は茶化すようなクズじゃないのは分かっていた。

 でも、よりによって、その名前を出すのか。

 タクシードライバーの主人公トラヴィス。映画のクライマックスで、彼は娼婦として働くアイリスという少女を救い出すと息巻いて娼館を血の海に変えた。独善的な行動で救った気になってるが、アイリスが本当にそれを願ったのか? これは解釈が別れるが、少なくとも、私はそうは思わない。娼婦を辞めたとしても、最低な両親のもとに送り返されて彼女の人生が好転したとは思えない。どっちがマシなのか、という問題じゃない。アイリスの意思こそ、重視すべきなんだ。

 社会の底に居る私も、アイリスに感情移入してしまった。だが、正直に言うと感情移入したのは彼女だけではない。独善的な想いを傾ける、トラヴィスにもだ。この自分勝手な想いをユメキに向ける私も、充分に気持ち悪い。あの血の海に沈んだクライマックス、私の憐憫する感情が、トラヴィスの凶行と重なった。

 タクシードライバーのことを考えると、複雑な思慕に掻き回されて苦しくなる。

 会社に付いくと、田中は車が壊れるほどの勢いでドアを閉め、ロッカーに制服を雑にしまった。そのまま、灼熱の蜃気楼が揺れる街のどこかへと消えていった。




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