カーネーション

男性解放宣言

 (長崎沈黙聖地巡礼記の続きはおいおい書きます)

  先月今月と私にしては動き回ってまして、ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『カーネーション-NELKEN』3/16埼玉公演を観に行きました。

 創作当時や日本初演当時に立ち会った人々が受けた衝撃というのはある程度は想像できても、きっと言い当てることはできません。舞台というものが一回性のものである限り、言い換えると舞台が舞台である限り、それはどうしようもないことです。時代背景も変わればダンサーも変わります。ダンサーを変えることを拒み封印される作品というものもありますが、この作品はそうではなかった。1982年のドイツはまだ東西分裂していた頃で、1989年の日本は昭和と平成が混在していた年だと思うと、そして私がまだ幼稚園児であったり小学校から中学校へ上がる年だったと思うと、当時既に大人だった人々とは感じるものも違うのは当然のことです。男性の女性装に対して「女装子」や「男の娘」という概念が定着している2017年の日本において感じるものと同じではむしろいけないんです。初演当時に受けたインパクトを得る代わりに2017年の3月の日本ではチャーミングという美点が増していたと思うんです。それはどちらが良いとか悪いとかの次元の問題ではなくて、ただそういうこと。

 ピナ作品を観ていていつも気になっていたのは「ここの男性ダンサー精神的に参りそう」ということでした。私は女性で、2017年でも依然抑圧されている側で、その立場からはピナ作品に向かい合うというより重なってしまう、ということが多く、ステージ上で常に私たちが漠然と感じているようなものを可視化して観客に突きつけるためにはどうしても抑圧を強いる側の表現も必要で、そのペルソナを与えられるのはだいたい男性ダンサーで、そういった加害者の役割を意識させられ続けるのは非常に辛いと思うんです。社会はそうだとしても、ダンサー個人はそうではないかもしれない「加害者意識」を背負い続けるというか背負わされ続けてしまうというのもまた暴力です。カンパニーの拠点となっている国が周辺国から常に「ナチス」という加害者を投影されてしまうお国柄もあるのかもしれませんが、国として、あるいは所属している母体が集団として帯びている性質の「加害者」を個人がどれだけ背負うべきかは戦争責任の所在を曖昧にして生き長らえてきた国の国民からすると実感が湧かないんですよね。でも、ピナはとても「加害者」に重きを置いていると感じていました。権力を象徴するのはいつもスーツを着た男性で、やりたくもない暴力を(女性の)コリオグラファーによって強制されるという多重構造があって、残酷なことにその描写が真実としての重みを伴っているからこそ切実さが増す作品となっていて、たかが性が違うくらいでどうしてこんなに目の前に広がる風景が違うのだろうと、作品観賞後はいつも悲しくなっていました。

 『カーネーション』最初の方から笑顔になってしまったのは、男性がスーツからもそしてコルセットやハイヒールからも解放された、空気を纏うようなドレス姿で、そして素足で登場したからです。薄くて風を孕むドレスを着て片言の日本語を話す人は性別を問わず愛らしい。他の国でピナ作品を観るような人相手には英語使えば伝わるんでしょうけど日本は例外なので、ものすごく頑張って日本語しか解さない私にも通じるような言葉を語りかけてくれることも嬉しかったです。ピナ作品で舞台からわかる言葉が降り続けるという事態は想定していなかったので思いがけない感動がありました。2017年現在の表現はこうなります、というものを体験できて、フレッシュな人材をフレッシュなまま提供します、というヴッパタール舞踊団の姿勢も好感が持てました。ピナ作品の強度を信じているからできることで、こうやってピナ・バウシュという人間を失ったことを抱えつつピナ作品に命を吹き込み続けることを選択した人たちの勇気ある決断を讃えたいです。

 前回来日公演の『コンタクトホーフ』まではピナと一緒に闘ってきたダンサーもかなりステージ上にいました。そのことが却ってピナの喪失を深く印象付けていたんだなと今回わかりました。作品の悲しさとカンパニーの悲しさが相まって暗闇に追い詰められてた部分もあったんだなと。フレッシュなピナを直接知らないダンサーたちの軽やかさと直接知らないダンサーたちを包み込む世界観の優しさに触れて涙の代わりに笑顔がこぼれてしょうがなかったのも今回限りの貴重な体験かもしれないです。犬は吠えるが舞台は続きますし、この作品、ずっと男性ダンサーが主役なんですよね。今まで暴力装置や加害者のペルソナしか与えられていなかった男性ダンサーが個人としてユング言うところのペルソナではなくアニマを表現している。彼らの中にいる女性像がこんなに可愛らしいなんて思ってもみなかった。男性の表現する女性に対する違和感もありませんでした。性別を超えて花園で楽しそうにしている人々を追うのが楽しくて、世の中からスーツを剥奪して男性も女性もドレスを着て歩けばこんなに呼吸がしやすくなるのにとすら思っていたところ、男性はドレスを剥奪されスーツに磔にされ、つまらない暴力装置に呼び戻されて、柔軟な感性も剥奪されて飛び降りちゃうような社会に引き戻されると痛みがひどい。女性にもスーツを強要されるような社会の痛みがひどい。早く私たちの楽しい可愛い服を返してとその辺りのシークエンスはずっと堪えていた。1枚の布を切り刻んだスーツという存在の痛ましさがそれを着用するものにも分断することを強要しているようで、私がスーツを象徴するようなものをおしなべて嫌う理由がわかった気がした。スーツを着る時は常に社会的な生き物として振る舞うことを強制されている時だ。冠婚葬祭のような儀式で着るのはやぶさかではないけれども、それはいざという時さえ決めておけば普段は自由になるからという担保があるからこそで、日常的に着用するというかさせられると病んでしまうものだともやはり思う。スーツが象徴しているものに人格を乗っ取られてしまうことがとても怖い。あんなに魅力的だった男性ダンサー陣がいつものピナの男性ダンサーに戻ってしまわないかとても怖かった。女性ダンサーにもスーツを押し付けられたらどうしようと怯えていた。だから男性がドレスを取り戻して、女性もずっとそれを着用することを許されていたことがわかった時に安堵した。

 私は『カーネーション』がピナの代表作だというくらいの知識しかなかったので、ラストに関しては何も知らなかったんです。ハグされるような席にいたわけでもないので、ハグをするダンサーとされる観客を微笑ましく見守っていただけでしたし、それで充分満足していたし、観客全員立たされるとも思っていなかったんですね。でも観客への呼びかけが片言ながらもさりげなかったから自然に体が動きましたし、その場で振り付けを踊ることも抵抗なかったです。強制じゃなくてうまく乗せられた感じで楽しくて。元が手話として使われている動作だから難しい動きはないんですよね。そしてその手話が「愛しています」という意味だということも作中でずっと伝えられていたわけですから嫌なわけがないんです。今、私、ピナ・バウシュ振り付けの踊りを踊っている!という感動が舞台と観客を一体化させ、そのまま違う手話を用いた振り付けも「怖がらずに踊ってごらん」という言葉を思い出して一緒に踊ってみたら楽しくて楽しくて。その場にいる誰もを融合して終わるという感動が待っているとは思わなくてただひたすら笑っていて。なぜこの時代にこの演目を上演するかの意味が押し付けがましくなく伝わってきてニコニコしながらロビーに出たら踏みしだかれた後のカーネーションを売っていて。暴力的に踏みしだかれたものがこうやって再生されていく循環構造にも深く感じ入りました。ベルリンの壁の破片を売るのと同じ意味のような気がして、一回性の舞台の体験の思い出を形として持ち帰ることができるという豊かさが至れり尽くせりでピナのこういう感性本当好きですし、それが受け継がれていることにやっぱり感動して、家に帰ってからもしばらく春夏秋冬の振り付けをあやふやながら鼻歌を歌うように己の体で再生したりしています。ダンサーの肉体を持たない人間に手話をダンスとして与えるというアイディアが素晴らしい。

 芸術家が今やるべきことを漏らすことなく伝えてくれた人々に感謝します。力を抜くことが何より大事な気がするので、気負わず導いてくれたラストの後を私の場所でそのまま踊り続けられたらいいなと思います。

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