折り返し地点に立って

 四十歳の誕生日を目前に控えた昨夏、原因不明の体調不良により伏せっていた。毎日毎日、目を覚ます度に衰弱しているのがわかり、どこが分水嶺なのだろう、「その日」は明日か明後日か、など漠然と意識しつつ原因と治療法を探していた。

 そんな日々の中で「雨ニモマケズ」を読み返す機会があった。
 ずっと宮沢賢治を理解できぬまま生きてきた私にすっと浸みてきて驚いた。

 「丈夫ナカラダ」を持つことは、病を得た人間が何よりも憧れることだ。もし「丈夫ナカラダ」を持っていたならこうしたいと、賢治や、私や、少なくない数の人間が夢を見る。そして少なくない数の人間が叶わぬ夢だと現実に戻る。
 戻った時に願うのは「クニモサレズ」だ。自分の現実が、「具合悪い」と一言でも漏らすと誰かが心配をして負担をかけるという現実がいたたまれない。「心配される」現実が耐え難い。ただでさえ弱気な病人はさらに縮こまる。最期を迎える前も後も「クニサレル」ことが何より辛い。

 体調不良は原因不明のまま、誕生日を迎え、彼岸を迎え、冬至を迎える度に遠のいていった。なんだったのだろうと首を傾げつつも私は分岐点近くから生の世界への道に戻された。元気な時は「クニセズ」接することが存外難しいこともまたわかった。

 それでも私は切実さを知ってしまった。だから思う。

 「クニモサレズ」「クニセズ」色々な人と下山できるように「ワタシハナリタイ」。

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