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楽しみ方の単一化に負けるな

君はこだわりのある趣味を持っているか?
僕にはトレーディングカードゲームというオタクな趣味がある。

しかし最近カードゲームをやる時に高校生の時のような楽しみ方が出来なくなってきた。何が問題になっているのかを少し話したい。

高校生の頃、リバイバルブームでマジックザギャリングというカードゲームが身内で流行った。僕もやりたくなって昔やっていなかったのだけれどもそのカードゲームを始めた。

身内で一緒にやっていた友達がそもそも面白いやつが多かったというのも影響しているとは思うが、とても楽しかった。授業中に新しいコンボデッキや雑魚デッキを考えてはノートの隅にデッキ案を作り、放課後ラグビー部をサボって科学部に行き、辞書のケースに隠して持ってきたデッキで遊び、カードショップに行き、デッキを回して回ったり回らなかったりゲラゲラ遊ぶ。

なんて楽しいんだろうか。誰かがゴブリンデッキを持ってきて、こんな小さく弱そうなイラストのクリーチャーで戦えるんだろうかと思っていたらボコボコにされたり、昔の凶悪カードのネクロポーテンス持ってきたり、いろいろなデッキをみんな持ってきて、勝ったり負けたりとても楽しかった。

東京の大会の結果を人づてに聞いて思いもしなかったカードが評価されたり(このニュースを巻き起こした大会の張本人とは3年後に早稲田で一緒にカードゲームサークルを立ち上げることになる。)

しかし、近年カードゲームショップに行ってもなぜかあんまり楽しくない。それはそうだ。インターネットが普及して強いデッキが簡単に共有されるようになったため、大会に出ると似たようなデッキが多く、1分もすれば相手のデッキの中に入っているカードの9割ほどは予想がつくのだ。これが強い、あれが強い。そうやって有名プレイヤーやプロプレイヤーや巨大カードゲームショップが記事を書きインターネットのマジックザギャザリングの流行や意見を形成していく。

我々はカードゲームのプレイのやり取りの種類の発生確率の情報量を楽しんでいる節がある。初めて向かい側に座る知らない人がどんなデッキを持ってくるのか、どんなデッキなんだろうとワクワクするけれども残念ながら名前がついているほど良く知られたデッキなのだ。

なぜそんな紋切り型のデッキが犇いているのか。皆様カードゲームショップに行ってカードゲームという競技を楽しんでいるからだ。競技を楽しむか、カジュアルを楽しむか。この競技・カジュアル論争というのはこのゲームに古から存在する論争で、皆様カードゲームに求めるソリューションが違うという結論をどうやら用意している人が多い。

しかし、この文化という領域は流通によって大きく影響を受ける。この流通を支えている大型のカードゲームショップが競技とてしての遊び方に権威を付けて商売をしている限り自分で楽しみ方を選べない人たちが多い世の中なので、次第に競技としての性格が強い場所が多くなってくる。競技需要が高い高額なカードで競技のカードゲームを遊ぶのだ。そうなると自然に高校生がお小遣いで「正しく」遊ぶ場所はそれにつれて少なくなり、初心者も参加しやすいはずの形式の大会が振るわない。しかし既に定着した顧客層がお金を持ち始めてカードの値段がグングン上昇する。僕が一年前友人から2万で買ったカード4枚は6万円ほどに値上がりしてしまった。24万円なんて人によっては一カ月分の給与だ。若い人もドンドン実家に金のあるお金持ちの人しか現れなくなる。

僕のように大学のコピー機を使ってデッキを製造していた者など顰蹙を買う。「ちゃんとカードを買え」と

何が楽しくなさそうにさせてしまっているのか。プロプレイヤーでもなく、『勝つ』ということに拘ってデッキを選んでいる人を見ると学生時代にSIerを新卒で説明会を聞きに行ったときの気分になる。

皆様同じことを言うのだ。『お客様のためにがんばる、技術力がすごい、成長になる、大きな企業や国と仕事をしている。』

楽しいのか。

仕事ならまだ良いだろう。給与が良いかもしれないし、そのSIerでは自分にしか出来ないことが転がっていて楽しいかもしれない。僕もそんな環境にいたらとても楽しく仕事が出来るだろう。

君はいったい何のためにカードゲームをしているんだ。友達と遊びたいんじゃないのか。友達の中で何らかの形で自己表現をして存在を承認され、何処かで誰も手を付けていないけど自分が価値があると気が付いて自分の実力で解ける問題に取り組みたいと思っているのではないのか。それを無味無臭な何となくどこかの記事で書かれていた『勝率』に集約したいのか。本当にその勝率が大事なのか。本当に勝率が大事なのであれば申し訳ないことをしたと思う。勝率の最適化問題を解いてみてほしいと思う。

ただ、君が地球上で一番うまくカードゲームをプレイしている人間だとしても、アルファ碁のような強化学習プログラムが最強にうまくカードゲームをプレイしている環境になり、ロボット同士が殺し合うような無味無臭な無人の荒野で本当の意味で最強なロボットに殺されに行く覚悟があるのか。数学に乗る問題なんて人間はロボットに敵わない。君が手動で『誤った』プレイを選択する意味は何だ?

そう考えると自分が実は人間として不自由な肉体やまったく足らない計算資源の制約で人間同士が戦う中で最強になりたいと思っていることに気が付くだろう。そうだ。何かに自然に知らずのうちに何かに拘っているのだ。まるで差別意識がないと思っている人でも無自覚に差別をしてしまうかのように。

志位の言うことに納得してくれた人はまだ何か収まりきらないものがあると思うので、ムッシュかまやつの『ゴロワーズをすったことがあるかい』という幸せを歌う曲を聴いてみてほしい。

僕は君達迷えるカードゲーマーにいきなりベジタリアンになれと言っているわけではない。他人の熱心に取り組んでいることに尊敬を持って向き合うことがまず大事なのではないかと思う。さっき志位は勝率を追いかけ続ける人を馬鹿にしたではないかという批判をする人もいるだろう。矛盾していると思うだろう。実際に矛盾しているかもしれない。勝率を追い求めてプレイする皆様がカジュアルだとか、他の楽しみ方をしている人を馬鹿にする行為はほとんど同じことをしていることを知ってほしい。行き過ぎた競技文化がこの文化全体をスポイルしつつある現状に我慢ならぬのだ。この現状を変えるにはいくつかの手段があると思う。

一つ目は本当に強化学習で最強のロボットを作ってプロを倒して無条件無味無臭の勝率というものの意味は虚構であり、本当にもっと大事な物に向き合わせる方法。

二つ目は地道にこの何かに拘る楽しさの文化を発信して文化を少しづつ変えていく方法。

将棋や囲碁やチェスは一つ目が達成されてしまい、新たな価値(本来の価値なのかも知れない)、誰がプレイしているのか、自分が憧れの棋士の戦法を上手く使って同じぐらいの実力の相手を倒せるか。そういった価値を皆様消費し始めている。

強化学習の勉強がてら一つ目に挑戦するのは楽しいかもしれないが仕事でも趣味でも強化学習尽くしというのもアレだし出来なかったら悔しいので二つ目をするのがよさそうに見える。

だから、デーモンが大好きな青年や、カウンターバーンが好き過ぎて専用のデッキレシピ表を用意している青年を笑い、勝率30%のデッキが独自研究で35%に改善したことを笑っていると、何も楽しめなくなってしまうぞと言っている。君の『最強デッキ』が下手をすると研究を進め続けた圧倒的なコストパフォーマンスのデーモンに殴り殺されたり、軽いカウンターで捌かれ焼き殺されるかもしれない。

目の前の軍拡競争が行き過ぎて、文化ごと滅びてしまい、自由の女神を発見して跪く未来が見え隠れしていると思っている。多分皆様危機感を感じているんだと思う。

今やっていることの手が空いたらメディアを立ち上げ、マジック・ザ・ギャザリングの様々な楽しみしている方々の幸せを分けていく発信していきたいと思う。

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