センターポールアスリートとの出会い⑬ 会社名を変えた時の事
今回は会社を立ち上げて1年と少し経ち、会社名を変更したときのお話です。
前回までのお話はこちらです。
会社の起ち上げて、1年が経過したときには今まで紹介したパラアスリートを含めて、多くの選手と関わらせてもらっていました。
起業した当初はマイナーアスリートを支援する会社を立ち上げたのですが、パラアスリートと出会い、深く関わらせて貰うことでパラアスリートをサポートする意義を日々考えるようになりました。
パラアスリート以外にも、関わらせてもらっているアスリートはいたのですが、その選手たちには私より有力な支援者の方も沢山いましたし、私に出来るパワーや能力を考えると、今サポートが必要な選手の背中を押すことの重要性と、そして私も自分で決めた道を突き進んでいかなければいけないと日に日に思うようになったのです。
当時は、右も左も分からない私を応援してくれる経営者の先輩もいました。
しかし、起業したらからには自らの意思で決めて責任を取らなければ意味がありません。
起業して1年と少しでしたが、私はパラアスリートだからこそ持つ価値があると確信しました。
それは、彼らパラアスリートはスポーツアスリートになる前に、自分の障がいと向き合って戦ってきた人たちなのです。
勿論、どのアスリートも置かれた環境の中で戦っています。
しかし、パラアスリートは事故や、病気そして今までの社会の風潮と戦ってきました。いえ、今も戦っているのかもしれません。
その上で、スポーツの世界で勝負しているのです。
私は、本当の意味で独り立ちする為に、再スタートを切ることにしました。
当時の会社名もアドバイスをもらった流れでの社名です。
そもそも、生みの親である私が子である自分の会社の名前を決めれなかった時点で駄目だったのかも知れません。
このタイミングで社名も変更しようと思っていました。
しかし、いくつか候補はあったものの、決めかねました。会社を変えるカードは1回しか切れないと思っていたからです。
そんな時に、中央大学スキー部のOB会で日立システムスキー部顧問であった渡辺勤先輩と出会いました。
渡辺先輩は日立システムの社内で障害者ノルディックスキー部を立ち上げた方で、日本を代表するパラリンピック選手小林深雪選手との物語がパラスポーツライター宮崎恵理さんが執筆した本にもなっています。
更には、私がスキー部だったころの監督、横山久雄さんは指導者、ワックスマンとしてパラアスリートのサポートも行っていたのです。
渡辺先輩も横山監督も、私がパラアスリートを支援していることにすごく興味を持ってくださいました。
そして、当時0から立ち上げた日立システムスキー部が、パラリンピック金メダル獲得の為に掲げた話を何回も何回も何回もしてくれたのです。
その金メダルを取る為のプロジェクトの名前は「センターポール作戦」
元々、優れたシステムエンジニアであった渡辺先輩が、日立システムの選手が世界一になる為に、起ち上げて社内や社会を巻き込んだプロジェクトの名前でした。
パラスポーツ”福祉の延長”としてではなくて、”アスリートとして世界一を取る”その為の環境整備を遂行した方でした。
世界の大会で表彰式の時に国旗が掲げられるのがセンターポールです。
私は今までスポーツ選手として有能ではなかったですが、今度は支える側になって選手が表彰台の一番高いところに登れるように支えたい。
「よし、会社名はセンターポールだ。」
迷うことは無く、このセンターポール を社名に決めました。
ロゴも一新し、デザイナーに沢山の案をいただきました。
その中で一番良かったのが現在のセンターポールのロゴになります。
このロゴには、”センターポールに上がる旗”だけではなく、情熱の炎も連想するデザインです。選手の炎でもあり、これから先も未来の為に継承していかなければいけない火でもあります。
こうして、パラスポーツアスリートの支援に特化した会社、
”センターポール”として新しいスタートを切ることになったのです。
つづく