人生、別解
「フリーターの分際でよくもまあ、こんなに記事のネタが出てくるな〜」と感心している僕と、「いや、お前が記事を100回書く!って宣言したから無理やり引き出してんだよ」と少し怒っている僕がいます。今は後者のカタヒラレンです。
さて。
僕の持っている病気「吃音」は、どもりってやつです。緊張すると、どもるんです。というか、詰まるんです、言葉が。症状は小5くらいから顕著になり、一時期は人生を終わらせようとさせたくらいの手強い外敵です。
こいつが厄介なのは、「緊張する場面で現れる」というところ。
例を挙げると、
・面接のとき、自分の名前が言えなくなる。
・授業で先生に当てられても発言できなくなる。
・好きな女子の名前が呼べなくなる。
・電話で自分の名前が言えず、無音で切ってしまう。
・ローソンで「Lチキ」が頼めない。
・はなまるうどんで「かけうどん」が頼めない。
これ以上挙げると、流石に同情されそうで申し訳ないのでやめときます。笑 まあ、つまり僕の人生を大きく狂わせてきた悪友です。
でも、この外敵であり悪友の吃音が、意外と人生について教えてくれたりするんです。
吃音が僕に教えてくれた一番の教訓は「そこに悩みなど無い」ということです。
中学時代は吃音が最大の悩みでしたから、毎日検索してました。「吃音 治療方法」と。たくさん情報を集めました。でも、どんな治療法を試しても効果がありません。治療効果が出ない分、「吃音は一生治らない。。。」と余計に落ち込みます。でも、結果的に今は悩んでいないし、落ち込んでいません。
心理学者のアルバート・エリスは言いました。
「感情は事象や結果によって作られるのではなく、事象や結果の捉え方によって規定される。」
つまり、「吃音(事象)が僕を苦しませている(感情)のではなく、吃音(事象)を人生の障害(吃音の捉え方)だと捉えているから苦しんでいる(感情)のだ」と。
実際は最近になるまで言語化できていませんでしたが、自分の人生の中でなんとなく気付いていました。吃音そのものには良いも悪いも無いんだと。
中学時代をピークに、自分の中で「吃音」への興味は徐々に薄まり、いつの間にか頭から消えていました。もちろん今でも、ローソンで「Lチキ」は頼めないし、頼もうとしたときに「吃音」を思い出しますが、そんなに気分が悪くなることもなく、スッと消えていきます。
吃音は教えてくれました。
「そもそも、そこに悩みなど無いよ」
僕は生まれたときから「問題を解くのが好きな人間」なので、吃音も問題だと勘違いし必死に解こうとしていましたが、「それは問題ではないよ」と気付く方が、結果的に解決する問題もこの世には存在するんです。
そんな別解を、提案します。
では、また^^
今日も東京の片隅で、非生産的なことを非効率的に行っております。