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毎日勉強・一生勉強

 中学生の頃の私は、勉強することが嫌いでした。どうして、こんなに毎日毎日勉強しないといけないのだろう?と思っていました。覚えるのが苦手な私は、社会なんて大嫌い。理数系は得意なので、そこは特に問題は無かったけれど、国語も結構嫌いでした。まず、本を読むことが苦手。「寝る前に少しだけ読むといいよ。」と勧められた読書は習慣になるどころか、3ページ読むのでさえ、なかなかでした。真剣にどうやったら最後まで読めるのだろうと思った程です。当時、最後まで読んだ本は一冊もありません。漫画こそ読みましたが、それもあらすじは分かるけれど、流れるように読んでしまうので、記憶には残らないという有様でした。何だかな〜。なんて呟きながら読んでいたものです。だから、飽きるのも早い。というダメダメな小・中学時代でした。
 とは言え、相当な負けず嫌いでしたので、人並みに勉強し、人並みの成績を取り、優秀ではないにしても、恥ずかしいまでの事態に陥った記憶はありません。これは高専時代も同じです。中学1年のころの担任の先生に三者面談で言われたことは、「君は、努力をしないと落ちてしまうよ。努力し続けなさい。」です。「言われなくても分かっていますよ。」と当時の私は、心の中で呟いたものです。しかし、今までずっと努力し続けてこられたのも、この言葉があったから。今思い出しても、本当に有難いお言葉です。
 中学3年間を終えて、受験に失敗したお話は以前にもしましたが、再受験の時に、力を貸して頂いた恩師は、この当時の学級担任の先生でした。再受験とはいえ、学校側からすると普通のことではなく、対応もしたことがない中での対処でした。「申し訳ないが、君がいることで、在校の3年生は動揺してしまう。模擬試験は受けてもよいが、別室で受けて欲しい。そして、採点も僕がする。」とのことでした。私も、「それはそうでしょう。」と即座に同意しましたので、試験は放送室にて一人で受け、終わったらすぐに採点、採点基準を見つつ進路を相談して帰宅するということを繰り返しました。これについても、本当に感謝です。あの時の対応がなかったら、受験も相当不安だったに違いないでしょう。実は私には、一歳下の妹がいます。もちろん妹も受験、私は妹と一緒に再受験だったのです。妹と同学年の子達を騒がせずに済んで良かったと思います。
 しかし、受験というものは、本当に大変です。これを2回もやってきた私、良くやりました!です。1回目の受験は人並みの受験でしたが、2回目となると、嫌いな勉強が最初からやり直しになるのです。最初の頃に習ったものはすっかり忘れているし、簡単に解ける問題もあれば、そうでない問題もあります。しかも、覚えることばかり。あんなに勉強なんて、もうしたくな〜いと、1回目の受験を真剣に頑張ったのに、あえなく惨敗。でも、これには理由もありました…。もしかしたら、本当に点数が足りなくて失敗した可能性はあります。ただし、記憶を遡れば、当時の上級生には非常に素行の悪い学生が多々いました。学校に警察官が常駐するのは当たり前、校内は屋根のあるところ以外は歩いてはいけないと言われました。頭上から何が降ってくるか分からないという理由です。なかなか素晴らしい中学生活です。先輩とは怖くて話もできないし、一学年400人を超えるマンモス校では、同級生ですら知らない子がいるという現状。そこからの受験は、先生もかなり慎重になっていましたし、安全パイを受験させるようにしていたのです。なのに、失敗。これは、何かが影響しているに違いないと思われました。受験者数の半数が落ちてしまったのです。その一人が私だったのです。とまあ、そりゃ、落ちてもしかたないよね。という感覚になりましたが…。
 但し、待ってくれないのは、先生と両親。落ちたからって、残念がっている暇もなく、今出来ることを考えようと先生と話し合い、定時制に通うことになったのです。あの頃のスピード感も半端なかったな…。県下一流高校の定時制課程。定時制高校という世界を見られたのも、高校受験に失敗したお陰かもしれません。。人生には、沢山の挫折があるけれど、努力も必要。人間関係あっての社会、一人では生きていけない、そう、生かされているから。お世話になった方や、その時々で出会う人、そして繋がり、今あることに感謝しようと思う日々です。関わってくれる沢山の方、支えてくれる沢山の方、どこをとっても感謝しかないです。私の側にいてくれる方へ…本当にありがとう。
 前号ではものづくりについて触れましたので、少し、学生時代の本編についても触れておきました。紆余曲折な人生の始まりは、こんなところからページをめくり始めています。
 中学卒業後、高校再受験、そして高専5年間の日々。嫌だと言いながら、続けてきた勉強も、ここまで来ると、学ぶことそのものが好きになっていたのかもしれません。文系の勉強はほぼありませんでしたが、理系はお手の物でかなり楽しんでいました。大変だと感じていた実験も楽しかったです。今では、学ぶことが大好きで、学ぶ過程が大好きです。文字を読むのも書くもの大好きです。本当に不思議ですね。沢山のあれこれを力にすべく学び続けています。幾つになっても毎日勉強・一生勉強です。
 さて高専卒業後は、公務員を選択し、無事に香川県警察本部に入った私ですが、そもそもの目的である洋裁をするという話は、しばらくの間、放置が続いたのは言うまでもありません。仕事とは、もちろん甘いものではありませんでした。新卒で入った職員は、覚えることも、すべきこともいっぱいです。公務員とは?警察職員とは?を一から叩き込まれます。警察官ではありませんので、長期の学校こそありませんが、2週間の訓練はありました。早朝に起床して、点検に始まり、ランニングをする。教養という座学が山程ありました。同期の職員は、配属先は皆バラバラです。職種も多々なので、共通部分を勉強していきます。各種法規なども含め、知らない事ばかりですから、頭もいっぱいになりました。楽しかったのは『同じ窯の飯を食う同期生』と共に過ごせたことです。男子も女子も関係なく、共に過ごした時間は貴重な経験です。警察学校の先生とも仲良くなりましたし、狭い組織ではありますが、その後、県下広く関わる部署についた時には役に立ったものです。
 私自身は、新卒時の21歳で、香川県高松北警察署交通課に配属されました。そして、警察職員を受験する時に決まっていたことは、中級職受験者は合格した場合、「交通巡視員」という職種を任命されることです。交通巡視員とは、日本の警察において警察官とともに道路交通に関する取締りや指導、交通整理などを行う警察職員を指しますが、現在の香川県警察には存在しません。今ではその職務は女性警察官に任せられており、私は、交通巡視員として拝命した最後の職員だったのです。交通巡視員の4年間の日々は、相当過酷な日々でしたが、先輩方から学んだことも数知れず。怒られるうちが華だと感じた22歳。座って仕事をしていることを、怒られた日々。お茶汲みが当たり前な時代では、誰の飲み物にミルクと砂糖が必要か等ということを覚えるのも当たり前。25年前は、まだまだ、そんなことが言われる時代でした。嫌味を言われながらも、ある種のコミュニケーション手段だったかもしれないな?と振り返れば思うことです。交通巡視員のお仕事のメインは、皆様もよくご存知の【駐車違反の取締り】です。一番嫌われる仕事だと自負しておりますが、当時も散々な言われようだったことだけは鮮明に思い起こされます。悪いことをしていないのに、怒鳴られる…なんと理不尽な経験でしょう。出産を控え内勤になった時も、威圧される経験をしたものです。妊婦とはこうあるべきなのか?とも感じたけれど、それも職務だから仕方ないと、こなした23歳。
 学びという観点から言えば、当時の上司であった交通巡視員の先輩が、とても熱心に懸命に指導してくれたことを思い出します。文字はお習字の師範段位をお持ちの先輩。警察で作成していた賞状は全てその先輩作成のもの。小柄だけど、とてもきめ細やかで厳しくて、厳しい中に優しさがあるそんな先輩でした。席に着かず、事前準備をし、隙間時間で自分の事務処理を終わらせる。残業はしてはいけない。先輩方と同じ歩幅を保つこと。常に同列に並んでいることを教えてくれた大切な先輩です。新人もベテランも初めて見る人にとっては、無関係であること。新人だからできない。そんなことがってはならないと教えてくれたのも、先輩です。
 大きな組織であればある程、全てにおいて規程があります。職責も職務も業務も全てが決まっています。型にはまった世界では、当たり前のことですが、経験したことがないとイメージしにくいものです。
 13年間の型にはまった社会での経験は、次回、乞うご期待です。たかが13年、されど13年という月日は、私にいろいろな経験をさせてくれました。高専を卒業していることも関係し、交通巡視員4年間を経験した後は、本部勤務である情報管理課へ異動となり、工学出身の私には、なかなかワクワクする職場でした。ただし、その前に、ちょっぴり試練があったのも忘れてはいけない要素です。警察本部勤務の9年間は、飛躍の9年になります。お楽しみに…

【fusenKazura.】
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