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神経回路と意味空間

ネットワーク

 意識とは何か、思考とはなにか、自分が自分と認識しているものは何か。自分が日常的に行っているそれについて考え、意見を集め、知識を得るほどに、「そこに具体的な何かがあるのではなく、ただ複雑さを持ったネットワークの運用がある。」という言説に、今のところ辿り着いている。そして、以前に記事で書いたように、個人の頭の中にある神経回路と、他者とのコミュニケーションによって生じる意味空間の、どちらがネットワークとして見たときに運用効率が良いのか、という疑問が湧いてくる。

神経回路

 神経回路によるネットワークは、運用が容易ではある。自覚的であるかどうかに依らないため自分の思っているような像とは異なるが、一度自分の感覚器官を通して得られた情報から生じ、確信が得られたものを真実として扱っている。記憶し、忘却し、変質し、断片化し、連想し……固定し続けることは容易ではないが、固定し続けているという”てい”でネットワークによる情報処理が行われる。

意味空間

 他者とのコミュニケーションは、細かい身体性が異なるため、同一とみなして意思疎通を行うための形代が必要となる。人間においては、主に言語使用がその形代となり、また言語の意味空間にあるネットワークが複雑であることによって、高度な情報処理が行われている(と見做せる)。

限局

 プロスポーツ選手の身体感覚についてコミュニケーションを図る場合、身体性を近づけることで初めて見える意味空間が存在する。学術的なコミュニケーションを図る場合、類似する言語使用が可能となることで初めて見える意味空間が存在する。(翻訳技術は存在しているが)日本語圏や英語圏でのみ成り立つ意味空間が存在する。コミュニティ内でのみ通用する意味空間(内輪ネタ)が存在する。

誤認

 コミュニケーションには、確実に誤認が含まれている。同一でないものを同一として読み取る、同一のものを異なるものとして読み取るなど、日常的に起きており、また誤認は、訂正されることもあれば、一生訂正されないままのこともある。

運用可能なネットワークの規模

 つまり、思考が得意であろうと、コミュニケーションが得意であろうと、運用という視点でみれば、扱えるネットワークの規模はある程度制限されている。

冗長

 であるなら、冗長性の確保によって、運用可能なネットワーク領域を最大化する戦略が最も効率的なのかも知れない。そして冗長性があれば、神経と言語のネットワークを分けること無く運用ができそうだ。

追記

 外向、内向に優劣はない。冗長性を確保し、双方を合わせて運用したときにネットワークの規模は最大化される。

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